イビサの泡パーティー

オカワダアキナ

イビサの泡パーティー

 腋の下にはちいさないぼがあり、茶色くくすんで木の実に見えた。

「だから、きれいに剃っても意味ないの」

 叔母はぼやいた。しかしあらかじめ不恰好なら気楽だと、ノースリーブを好んだ。毛はなかった。腕は白くなめらかだ。

 いぼは米粒くらいで、ぽつんと生えていた。千切れそうで千切れないと言っていた。引っぱったら、やわらかそうだ。引っぱったら、くすぐったがるだろうか。思わず手を伸ばしたら叔母はぴしゃりとおれをはたいた。それきりあまり口をきかない。百年前の話だ。

 叔母は母の妹で、祖母が特養に入って以来うちに住んでいる。何もしていない。長い髪をふわふわとさせ、人魚姫だと思った。いつもめしを残す。すぐ泣く。

 狭い町は海底だ。陸の喧騒は遠い。いや町は、丘にへばりつくニュータウンなのだが、音や光から離れているという点で海の底だ。空き家のふえた町並みは沈んだ文明を思わせた。とぼとぼ歩くのは年寄りばかりで、砂を這うサカナだ。

 叔母は水底でおとなしく暮らしている。足がほしいかどうか知らない。町に魔女はいない。おれが大学に入って一人暮らしを始めたので、部屋をゆずった。


 フロアは人いきれでむっとして、オードトワレや汗のにおいがまだらだ。おれのカメラはたった今ひょいと攫われた。人と音に酔ったあたまでは何が起きたやらぽかんとして、おしまい。安物のデジカメではあったがそれなりの喪失感はあった。スペイン人は手癖が悪いからなと、あたまのなかでYがなぐさめた。同意しかねた。

「人種年齢性別、なんにもわかんないよ」

 誰のしわざか不明だ。ふわりと長い髪を見た気がしたが、わからない。クラブは踊り狂うひとびとでごったがえし、あらゆる差異をぼやかした。

 バルセロナから空路約一時間、地中海に白く浮かぶイビサ島はパーティーアイランドとして知られる。

「わざわざ飛行機乗り継いでひったくりする奴なんているか? みんなここへ踊りに来てるのに」

 あたまのなかのYが言う。

 イビサの街は大箱クラブが軒をつらね、世界中のテクノ&ハウスファンがつどう。

 とはいえおれはそう音楽に詳しいわけではない。クラブ通いがシュミのYに誘われるまま同行しただけだ。とびきりのパエリヤが食いたかった。

「じゃあ踊る阿呆しかいねえんだ」

 でかい声で言ってみる。祭り騒ぎのすきまにかろうじてきこえるのはスペイン語と多少の英語だ。日本語で何をしゃべろうが誰にもわからない。ひとりごとも呪詛もうんこちんこも、なんだって言える。エトランゼは気楽だ。Y、おまえのことが好きだったと、そんなことだって言えるかもしれない。まさか旅行の約束をしたあとでおまえが死んでしまうなんて……。

 尻のポッケでスマホがふるえた。無料Wi-Fiのおかげでいつもどおり使える。Yからだった。

『調子は良くなった。泡パーティーは行く』

 Yはイビサに来て早々、飲みすぎて具合を悪くした。一日ホテルで寝つぶして、どうにか蘇生したらしい。おれのあたまのなかでもだ。

 異国の喧騒にひとりでいると、イミなくかなしい妄想をもてあそびたくなった。たとえばおれは、友だちを亡くして旅に出ているのだとしたら? 束の間、Yをころしてみた。なかなかよかった。

 いや、ばかみたいだ。わかってる。仕方ないんだ。おれの周りは誰も死んでない。死んでないのに、どういうわけか疎遠になり、会えないひとが増えてゆく。学部の知り合い、地元の友人、決定的なきっかけもなく静かに、徐々に、絶交してゆく。女の子とも長続きしない。おれには重大な欠陥があるのだろうか。腋に木の実はない。


 こまかい砂はあしうらにはりつかず、さらさら落ちてゆく。波は透きとおって穏やかだ。ビーチはゆるい音楽でさざめき、眠気を誘った。誰もが来たるべき祭りの時間を待っている。だから、踊っていなくても踊っているのだと思った。

「泡パは明け方だから、夜中遅くに出かければいいよ」

 Yが言う。任せるの意でビールの小瓶をぶつけた。カンパイ、Yは歯を見せた。Yは卒業後、父親の会社を手伝うことになっており進路の心配がいらない。坊ちゃんらしい屈託ない笑みだ。

「めし食って寝て、なんかいい感じのテンションになったら行こう」

 イビサでの目当ては泡パーティーだった。島の名物イベントだ。クラブの天井から泡が噴射され、フロアを埋め尽くす。どころか、あたままで浸かるほどだという。背の低い女の子ならおぼれてしまうだろう。服も髪もめちゃくちゃになるのは必至で、しかしロッカーなんかないからみんな草むらに着替えを隠し、寝間着や水着でとびこむ。泡と音を泳ぎ、踊る。

 そうしてそんなバカ騒ぎが年に一度の祝祭でなく、週二回、ゴミの回収みたいにルーチンでおこなわれているというのだからイビサはどこまでもとくべつな島だった。

「ひとりでクラブ行くの怖くなかったか?」

 Yは背が低いため絡まれやすい。この旅もひとりでは心細いからとおれを誘った。

「カメラ盗られた以外はサイコーだったよ」

 Yがフライドポテトを寄越した。励ましているつもりらしい。塩気が身体にしみた。

「ま、そのぶん今夜はハシャごうや」

 えいやっとYはパンツをぬいだ。

 プラヤ・デ・サリナスはヌーディストビーチで、皆惜しげもなく裸を晒していた。ビヤ樽みたいなおばあさんがふたり、原色のビキニでゆさゆさ歩いていく。ひとりはトップレスだ。でも誰も振り返らない。おれも五分でおっぱいを見慣れた。白人は包茎が多かった。まっしろな日差しは等しく肌を焼く。

 叔母がここに来たらどうするだろうなと思う。人魚の叔母は、砂浜を歩けるだろうか。木の実は? ビキニのおばあさんは腋毛を生やしたままで、金色になびいた。


 フロアは色とりどりの照明が明滅し、音のうねりがあしうらから響いた。人波と音をたゆたい、踊る。身体はしぜんに跳ねた。

「今のよかったな。あんなんどうしたらできるんだろう」

「ダフト・パンクとセックスすれば」

 イミある会話は必要なかった。混み合えば混み合うほど、おれたちはひとりになれた。誰の視線も感じない。とりとめない考えが寄せては返す。波だ。きのうYをころしてみたように、おれも誰かのなかでは亡きものかもしれない。青い照明が頬を照らし、ここだって海の中だ。

 叔母のことを思い出す。どうしておれは木の実にふれたかったのだろう。あなたは美しいと言いたかった。一緒に水面をやぶって外に出たかった。

「cinco, cuatro, tres, dos……」

 ステージの男がカウントを始めた。盛り上がりは最高潮だ。

「uno, ……cero!」

 ぱあん! と破裂音がして泡が噴き出した。勢いよくフロアに降り注ぐ。ぶわっと汗が湧き、いっしゅんで蒸発した。ような気がした。

「花びらみたいだ」

 たしかに。ライトに照らされた泡は花吹雪だ。むげんに膨らみ宙に舞う。洗ったシーツのにおいがした。すぐに腰まで埋まった。

 ひゃあ。わあ。きゃあ。ひゅう。

 喃語だ。泡を蹴飛ばす。Yが泡をつかんでおれに投げた。おれも投げ返す。小学校の雪合戦を思い出す。めずらしく積もった年があった。クラスの誰ともしゃべれなかった。図書室に隠れ、皆が雪玉を投げ合うのを窓から眺めた。ここにある物語のどれかから雪がこぼれたのだと、それを知っているのはおれだけなのだと思った。叔母が買ってくれた雪だるまの絵本を大事にしていた。あのとき投げられなかった雪玉が、いま泡になって肌をなぜている。泡になっても誰も死なない。この島には魔女が?

「やばい、気持ちいい」

 Yが笑った。Yとはゼミが同じで親しくなった。アパートも近い。いつまでこうやって遊ぶだろう? 誰も彼もいつのまにかいなくなり、アドレスのデータは誰だか思い出せないひとばかりになってゆく。もしかしたらそのうちの誰かは、すでにこの世にいないかもしれない。すれちがい、行き過ぎ、それきりだ。いつかYがしぬとき、おれは近くにいないだろう。かなしい。かなしくはない。安堵しなくもない。

 叔母は? おれがむかし悪夢にうなされた(あるいは夢精を恥じた)部屋で、どのような毎日を? おみやげ、買って行ってやろうかな。久しぶりに実家に顔を出そうかな。


 すっかり夜が明けて、泡をぬぐいながらクラブを後にした。十ユーロのバスタオルが売っていたので記念に買った。草に隠した荷物を探しに行ったら、おや。

「カメラだ」

 きのう盗まれたおれのカメラが、脱いだ服と一緒に置かれていた。

「うそ、すげえ」

 Yは興奮した。

 いったいどういう魔法だろう? 魔女のしわざ? たしかにひったくられたデジカメだ。戻ってきた嬉しさと、誰かにつけられているのではという薄気味悪さとがぐちゃぐちゃになった。電源はちゃんと入った。

「壊れてないか? なかみは?」 

 ……たとえばこれで、きのうから今日にかけてのおれたちの旅のようすがカメラに収められていたのなら、ちょっとしたみやげ話になったろう。でもそんな魔法はなかった。写っていたのは、ぶれた足元やよくわからない光の筋、どこかの植え込みの木。

「なんだかわかんないけど、よかったなあ」

 Yに肩を組まれた。

「いうことなしだよ」

 薄暗い植え込みの写真には、ちいさく花びらがのぞいた。いずれ散り、実をつけるだろうか。叔母の腋の下を繰り返し思い出す。泡になって消えないでほしい。この島の泡は虹色にひかり、おれを抱いてくれた。百年前、ごめんねって言えばよかった。白い腋に鼻をうずめたかった。

 踊っているさなかほど、あたまはしずかにうずくまる。


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