☆ 音楽教室にて(一月十五日) ☆

【終幕】

 柔らかいピアノの音色が室内に広がった。

 ゆっくりと、滑らかに、奏者によってその始まり方は色々あれど、杏奈は聴く者たちを包み込むような優しさで弾き始めるのが特徴だった。ここは、萌奈美の通う音楽教室。俺と杏奈、そして娘の萌奈美が集まり、家族水入らずといった雰囲気の時間を過ごしている。


 ――『ガヴォットと6つのドゥーブル』(ジャン・フィリップ・ラモー)


 元々はチェンバロの変奏曲だ。

 クラシックには疎い俺だけど、この曲はよく知っていた。そして好きだった。若い頃から、杏奈が何度も弾いていた曲だったから。当然、チェンバロのバージョンもよく聴いていた。それでも俺は、杏奈の弾くピアノの音色が好きだった。脳を大いに刺激してくれるチェンバロはどこか攻撃的で、聴く者の気持ちを鼓舞するイメージが強い。しかし、ピアノで聴くと何故か優しい気持ちになり落ち着いてくる。同じ曲なのに、使う楽器次第でこうもイメージが変わるなんて、音楽というのは本当に面白い。


 あのドッキリから一週間が経っていた。しばらくは興奮が冷めやまない日が続いたけれど、今はだいぶ落ち着いてきた。ただ、祥子さん(に扮したタンちゃん)のことを考えるたびに、俺の心のバイオリズムは乱高下していた。

 仕掛けを知った後の「マジかよ」という気持ちから始まり、本人に気づかなかったことへの自己嫌悪や良い雰囲気になりそうな展開を失して「惜しいことをした」という後悔など、色々な思いが混ざり俺の心を掻きむしっていく。好きとか嫌いとかの感情とは別の、夢見心地だった世界から抜け出さなくてはならないという一種の寂しさみたいなものにも支配されていた。


「ほんと、ごめんなさいっ!」

「いや……気づかなかった俺が悪いんです。こっちこそ、すいません。こんなんじゃあ、ファン失格ですよね。あははは」

「でも、いつかバレるんじゃないかってハラハラしてましたよ」


 パーティーの後、内輪だけの二次会も終えて、いよいよ七福神のメンバーとも解散となった時、俺は祥子さんと二人きりで話せる機会を得ることができた。杏奈や寿さんが海宮神社へ来た時の専用ホバークラフトへ乗り込む前の束の間だった。

 積もる話は……と言いたいところだけど、俺は手短に「充実した時間でした」とお礼を言って、正月早々から今までの楽しかった期間を振り返りながら、最後までタンちゃんに気付かなかったことが悔しかったことを告げた。祥子さんに扮した化粧も落としてトレードマークの泣きぼくろを見せる彼女をこんな間近で見れるなんて、これから先の人生で訪れることはまず無いだろう。


「化粧で印象も変わるものなのですね」

「そうですねぇ。女って化けるの得意ですから。これからも騙されないよう、気を付けて下さいね。うふふ」

「そういえば、腕の毘沙門天は……?」

「これですか? 事務所へ戻ったら、消してもらうようにします」

「え? そんな簡単に消せるのですか?」

「えぇ、実はコレ、テンポラリー簡単に落とせるタトゥ―なんですよ」


 痛みも無く、消したい時に消せる優れもののタトゥー・プリンターというものが存在する。最新技術を駆使して肌にタトゥーやイラストなどをプリントできる代物で、芸能界でも重宝され始めているようだ。彼女も最近になってそれを知り、興味半分でやってもらったと言っていた。

 後から聞いた話だと、このプリンターの開発は杏奈の会社が手掛けてるもので、今までは業務用でしか流通してなかったものを、数年後には家庭用で発売できるよう改良を施しているところだそうだ。


 多聞寺での出会いから大国寺での小槌探しに寿満寺じゅまんじでの修行、船上での戦いに杏奈との喧嘩まで、どのシーンも印象深く「面白い時間でした」とタンちゃんは言ってくれた。俺も「ずっと祥子さんに浮かれっぱなしでしたよ」と本音で応えた。

 そろそろ時間切れというところで、タンちゃんがお別れのハグをしてくれた。これだけでも幸せだ……めっちゃイイ匂いがした。ハグの途中、彼女は耳元で「ねぇ、信治さん」と囁いた。イイ匂いと合わさって、背筋がゾクゾクと震えた。


「あの時……私を選んでくれたら……どうなっていたのかしらね?」

「……え?」

「うふふ。じゃあ、また杏奈ちゃんから呼び出しがあったら会いましょうね」


 俺から離れ、軽い足取りでホバークラフトの中へと消えてゆくタンちゃん。再び会える日が訪れて欲しいと願う反面、再会しない方が幸福感も長く続くんじゃないかという気もしている。この時の俺は、ただただ浮かれているだけの一ファンでしかなかった――。


 杏奈のピアノは、次の変奏に入っていた。

 さっきよりもテンポは速くなり、右手と左手が別の生き物ののように動いて鍵盤の上を軽やかに流れていく。静から動へ、彼女の上半身も左右に揺れだし、徐々に教室の中から別世界へ飛ぼうとしている風に見えた。

 俺はタンちゃんとの別れ際に交わした会話を思い出していた。杏奈ではなく祥子さんを選んでいたら……どんな結末だったのだろう? 数日後、杏奈からを問い質したけど、彼女は「内緒」の一点張りだった。


「教えてくれたっていいじゃないか。もう、終わったことなんだし」

「正直言うとね、ノブくんがレイレイを選ぶ展開なんて考えてなかったのよ。絶対に私を選んでくれると信じてたもの」

「根拠の無い自信は相変わらずだよなぁ。俺は別に杏奈を助けにいったわけじゃないんだぜ」

「……知ってるわよ。萌奈美でしょ」

「なっ! ……んで、わかるんだよ。ったく!」


 杏奈はニヤリと笑って、俺から視線を外した。

 あの時、俺の手を振りほどく前に「萌奈美を頼む」と言ったのも計算通りだったみたいだ。ああ言えば必ず一緒に飛ばされてくれる、そこまで読み切っての自殺行為だった。俺はすっかり乗せられたってわけだ。

 でも、しょうがないじゃないか! 娘を残して母親が消えてしまうのは困る。俺一人で萌奈美を養うことなんてできっこない。杏奈がいてこその萌奈美なんだ。逆に俺がいなくても、母娘が無事なら大丈夫なくらいだ。


「それは違うわよ、ノブくん」

「何が?」

「今、俺はいなくても大丈夫だとか思ったでしょ?」

「お前、エスパーか?」

「ノブくんの考えてることなんて、何でもお見通しってことよ。萌奈美はね、ノブくんがいないとに育ってくれないわ」

「そんなこと……」

「あ・る・の・よ。それに、私だってノブくんがいなかったらグレちゃうんだから」

「はぁっ?」


 珍しく杏奈の頬が赤く染まっている。一人でも生きていけると自信たっぷりな彼女に、こんな素顔があったとは思わなかった。そう言われたら、俺まで照れくさくなるじゃないか。おかげで、次の言葉が出なかった。


「と、とにかく! 別のエンディングなんて用意してなかったわよ」

「そう……なのか」

「再婚してくれだなんて言わないわ。でも、萌奈美の面倒は、これからも頼むわよ」


 ちょうど杏奈のスマホが鳴ったので、話はここで終わりとなった。話の途中で通話口を塞ぎ「じゃあ、またね」と小声で言って、仕事の話を続けながら彼女は去って行った。その後ろ姿は、恋だの愛だの家族だの興味無しというような、仕事に生きる経営者に変貌していた――。


 変奏曲も終盤に近付いていた。

 さらに軽快なテンポで鍵盤を駆け回る指捌きに、俺も萌奈美も釘付けだった。当の杏奈はすっかり曲の世界観に酔い、目を閉じ大きく肩を揺らしながらメロディを奏で続けている。その表情には笑みがうっすらと見え、元妻とか母親であることを忘れるほどの艶やかだった。不意に萌奈美が「ねぇ、パパ?」と腕を組んできた。


「どうした?」

「この前、ママと再婚しないの? って聞いたことあったでしょ」

「あぁ……そうだっけ?」

「あれね、無かったことにして」

「あ? あぁ……」


 何で? とは聞きづらい。でも、どういう心境の変化があったのかは気になる。父親として物足りないと気づいたのか、俺と杏奈じゃ夫婦として釣り合わないとでも思い直したのか、ともかく娘がそう言うからには、その意見は尊重しようと思う。


「パパとママって、変だよね」

「変……か?」

「うん、すっごい変! でも、それがパパとママらしいって、思えてきたんだ」


 ちょっと何を言ってるのか理解に苦しむ発言だけど、俺が父親として否定されているわけではないことは分かった。さらに萌奈美は、組んでいる腕をギュッと自分の方へ引っ張り「だから、また牛丼屋に連れてってね!」と、悪戯を提案するような表情で俺の耳元で囁いた。


 杏奈の演奏は終わりを迎えようとしていた。

 弱く、激しく、人生の波を思わせるような抑揚から、一気に鍵盤を叩く指が高音へと走り、俺と萌奈美の興奮度を最高潮へと引き上げていく。ラストに叩き切った十本の指から放たれる余韻が、今まで聴いてきた中で一番心地良かった。




 ――『目覚めるも とんとほどけぬ 懐手ふところで




『七福神。XR』――【了】

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七福神。XR 愛宕平九郎 @hannbee_chan

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