廃れた家の二階に通された。看板もなく、一見すると宿と分からず、民家のようでもあった。

 女将が紐を引いて電気を点けた。電気の覚醒するわびしい音がしてから、光が広がった。

 八畳ほどで一間のささやかな部屋だった。ほとんど使われていないらしく、湿った陰気な匂いが漂っていた。

 匂いを逃がそうと小さな窓を開くと、眼下の畑地や狭い庭には、やはりたくさんの彼岸花があった。夕闇の底に赤い花びらが仄めいていた。

 宿までの道中、僧侶とはほとんど言葉を交わさなかった。

 遊女を埋めた境内に彼岸花の咲き乱れるのは分かるが、村のあちこちにも花のあるのはどういうことか、私は聞けなかった。もしかすれば、この村の足元には、無数の遊女が眠っているかもしれないのである。恐らくそうに違いないと思いながら、しかし僧侶にそれを明言されるのは怖ろしかった。

「もうご夕飯になさいますか」

 女将は私の上着を吊るしていた。私は窓の向こうの風景から目を逸らすように、畳に横になった。

「もうそんな時間ですか」

「ええ、まあ、何時でもよろしいですよ。今夜はお客さんは旦那だけですから」

 女将の何気ない言葉にも、悪寒が全身に揺らめくようだった。今日は早く寝ることにしようと決めた。

「できるだけ早く頂きたいですね。酒があればなおいいな」

「もちろん用意しますよ。今日はあついのが良いぐらい寒くなるでしょうな。しかし、こちらから夕飯になさいますかなんて言ったんですが、拵えがまだですんで少しお待ちくださいな」

「なんだ、そうでしたか。なら急ぎませんよ」

「いやあ、すぐですから。すんませんな」

「お構いなく」

「なにぶん老いぼれ夫婦二人の切り盛りですさかい」

 女将は黒い顔に皺を寄せて笑ってから、

「さあ、ちょっと急かしてきますわ」

 と付け加えて部屋を出て行こうとした。

 しかし、思い出したようにぴたと立ち止まった。

「お酌を呼びましょうか」

「お酌? そんなものあるんですか」

「ええ。手酌もなんですし、私のような皺くちゃでもしょうがないですから」

 そう言って女将は、変に卑しい笑みを口元に浮かべた。

「そういえばこの村は」

 私は、お酌という言葉と女将のそのだらしのない唇から不意に連想して、

「昔は遊里だったそうですね」

 と、つい言わないでもいいことを口にした。

 女将はゆっくりと頷いた。

「昔も今も、それぐらいしか食い扶持のない村でしてな」

 お酌の女には、そういう心もあるのかと、私は察した。

 遊女たちが行き倒れて、その血を啜り咲いた花の繚乱するこの村で、女を買う。それは私の肉体の底に黒い炎を息吹かせた。

「一人呼んでください」

「あら、一人でようございますか」

「ええ」

「それなら、今日は旦那しかいませんからね。一番ええのを呼びましょう」

 女将は部屋の戸襖を閉める間際に、こちらを流し目に見て姿を消した。娼婦だったのであろう彼女の、過去の華やいだ肉体が、花火のように浮かんでひとときに消えたようであった。

 飯よりも先に、女の声がきた。襖の向こうだった。

「失礼します」

 まず、その声の幼いのに、私は驚かされた。声色にまろやかな甘さがあった。

 気を取られていたが、私はふと我にもどり、はい、とだけ返した。少し間があって、襖が開いた。

 廊下に座っていたのは、まだ十歳ほどにしか見えない少女であった。

 私が呆気に取られているうちに、彼女の小さな身体が敷居を越えてきた。襖の開き方や身のこなしに、正しい作法の真似はあったが、ままごとのように覚束ないものであった。青地に桜模様の、安っぽいがゆえに毒々しいほど華やかな振袖が、いかにも着せられている趣でいじらしかった。

 着物のせいか、動き辛そうな仕草で彼女が後ろ手に襖を閉めようとした時、ちょうど女将が膳を持ってあらわれた。

「あら、ぴったしの頃合いに来たんやね」

 女将は少女にそう声をかけて、私にも笑いかけた。

「この子ですか、お酌っていうのは」

「ええ」

「まだ子どもじゃないですか」

 私は何もかもほとんど現実のこととは思えないで、半ば呆れ交じりに呟いた。女将が、私の肩に手を添えて静かに言った。

「気に入る人が多いんでございますよ」

 囁くというほどでもない、ふわりと抑えられた、妙に情欲を誘うような声だった。彼女の着物から、年嵩の女の重い匂いが流れてきた。

 それから女将は、全てを弁えて野暮なことはしないとでもいうように、無言で膳を据えるなりそそくさと立ち去った。

「では、よろしゅう」

 女将の言葉が深い余韻とともに残って、襖が閉じられた。

 風を切るようなその音とともに、少女が立ちあがった。やはり歩き辛そうにしながら私の傍らについた。

「おつぎしますね」

 可愛らしい幼げな手が、膳の徳利を拾い上げた。思わず杯を手に取ると、ゆっくりと徳利が傾けられて、酒がきらめきながら流れた。

 注がれた酒を、何が何やら分からぬという気分で、私は一息に飲んだ。薬品のような臭気のする悪い酒だった。

「ええ飲みっぷり」

 誰に教わったのか、少女がまたままごとのようなぎこちなさでそう言って、徳利を更にこちらに傾けた。

 一口飲み、ようやく動揺も静まった。それにつれて、少女の姿が鮮やかになってきた。

 彼女は徳利を膳に置いても、私の傍にこころもち寄りかかりそうに座っていた。私の胸の辺りに彼女の頭があった。子どもらしい細い髪が、彼女のちょっとした動きにもさらさらと揺れた。

 光るように眼を奪ったのは、首から頬の肌だった。雑に着物を着るせいで、肩と背中も微かにのぞいていた。まだ女の円みはないが、初々しく張り切っていた。痛々しさを感じさせない潤いを含んだ細さが、まるで花の茎のようであった。

 霞みがかるようなやわらかい白の肌は、少女の身体からのぼる乳のような甘い匂いと美しく溶けあい私を満たした。未成熟でありながら男を誘うその身体が、煙となって私に流れ込んできたような錯覚につかまった。

 ふっとこちらを見上げた、深い黒の瞳と、目が合った。

「いや。そんな見んといて」

 はじめての、ままごとでない言葉であった。それを耳にして、彼女の魂の、ままごとでない潔白のところに触れたい欲望が湧いた。私は戯れに尋ねてみた。

「着物しんどそうだね。着慣れないんだろ」

「そうやねん」

 少女は、美しい首を曲げて、素直に頷いた。愚図るような口ぶりであった。

「重たいしな、おなか苦しいしな」

 そして、前触れもなく、彼女はさっと立ち上がった。唐突に可憐な破顔がきらめいた。着物の裾を摘んでひらめかせた。青地の裏に、秋の夕暮れのような橙色がのぞいた。

「でもな、内っかわがな、茜色なってんねん」

「茜色?」

 どことなく大人びて聞こえたその色彩の表現に、少し意表を突かれて聞き返すと、

「うん。うちな、あかねっていうねん。だから着物屋さんがな、うちにだけあかね色にしてくれてん」

「ああ、あかねって名前なのか」

 たちまち彼女の面持ちがあたふたとした。

「あ、名前、みゆきやった。あかねはうそ、だからわすれて」

 私はすぐに感付いた。

「みゆきが源氏名で、あかねが本名か」

 からかうように言うと、彼女もつられるようにきゃっきゃと笑い声をあげながら駆け寄ってきて、私の胸を小突いた。

「もう、わすれてって」

 愛おしい気ままさだった。ついさっきまで大人の真似事ばかり言っていたのに、あどけなく愚痴をもらしたかと思えば着物を見せびらかし、今は怒っているようでもはしゃいでいるようでもある。万華鏡のような移り気だ。

「あかねばっかりずるい。名前おしえて」

 胡坐をかく私の腿の上に、彼女の小さな尻が乗った。生き生きしい温かみが滲んだ。私は彼女が自分のことを本名で言うのが可笑しかった。これではきっと、彼女の本名を知らぬ客などいないだろう。

「みゆきだよ」

「すごい、一緒やなあ」

「嘘だよ」

 ぱっと彼女の目が見開かれた。

「いけず」

 心底憎らしげに、あかねは私の頬を摘んだ。しかしその私の顔を見ると今度は身体を揺らして笑った。

 裾の乱れるのも気にしないで、彼女は畳にだらりと横になった。疲れた犬のような浅い息で笑っている。その声が、三味線を鳴らしたように美しく弾むので、私はつい聞き惚れながら酒に唇を濡らした。

 あかねはまだ薄い肩をくすくす動かしながら、徳利を取った。乱れても、酒を注ぐ手つきは、もう癖になっているのだろう。

 この歳の女の子なら、花冠でも編むのが手癖であって普通かもしれない。しかしあかねの、子どもの初心な丸っこさを帯びた手は、男のために酒を注ぐのだ。ままごとだって、普通なら男と交わす戯れ女の言葉でなく、娘をあやす母親の言葉なぞが口にされるはずだろう。

 しかしこの子であれば、花冠を編む手で男に酒を注ぎ、母の言葉を真似る唇で男への媚びを囁くのかもしれない。

 少女の娼婦という魔にとり憑かれつつある自分を、私は見出した。

 なるようになれ、私はそう胸に呟きながら、酒の勢いを速めた。すぐに徳利は乾きつつあった。

「あれ、もう一杯ぐらいしかあらへんわ」

 あかねは軽くなった徳利を持って言うと、襖から顔だけを出した。

「あついのもう一合ちょうだあい」

 菓子をねだるような甘えた口ぶりだった。それから、ひょっとこちらを振り返り、

「なあなあ、うちももらっていい?」

「なんだ、飲めるのか?」

「うん。すきやもん」

 飲めとも飲むなとも言いかねていると、あかねは私の答えを待たずに、

「おちょこももう一つちょうだいなあ」

 と声を張った。

 女将が酒を持って来た。

 飲まして良いのか聞こうとすると、先に女将が言った。

「ええんですか旦那、この子に飲ませて」

「そう思ってたところです。いいんですか。大丈夫ですか」

 女将は揶揄うような軽い笑みを浮かべた。

「いやあ、飲むんは構いませんよ。ここらの女はみんな酒で大きなったみたいなもんです。でもね、この子はね、飲ませたら大変でっせ」

「そんなことないよ」

 あかねが横から口を挟んだ。

「うちもええかげんつよなったで」

「旦那、この子は結構酒乱でっせ」

「暴れるんですか」

 私の苦笑を、女将は掻き消すように、

「いいや、泣くんですわ」

「それは性質が悪いな」

「泣かへんよ。もう泣かへんもん」

 強がるような素振りのあかねに、女将は杯を渡した。

「あんまり粗相しいなや」

「わかってるよ、うるさいなあ」

 女将が出て行くと、あかねは意気揚々と、徳利を取った。私よりも先に自分に注いだ。

「なんだ、注いでやるのに」

 私が言って、彼女はようやくはっとした。唇をつけかけた杯を、顔から離した。

「あ、さっそくやってもうた」

「いいよ。気楽に飲もう」

「あかんよ、さきについであげなあかんねん。きまりやねん」

 あかねはそう言い、いじけたようにため息をついた。

「あかんわあ、お酒見たらいっつもこんなんや」

「よほど好きなんだな」

「だって、うちのお父ちゃん、お酒のみすぎて死んでもうたんやもん」

 私は返す言葉がなかったが、しかしことのほか、彼女はあっけらかんとしていた。父親の死は、彼女の心にまるで影を落としていぬようであった。悲しみにもならぬ幼い頃のことなのかもしれない。

 酒の注がれた杯を眺め、あかねは、あっ、と短い声をもらした。

「そうや、これをにいちゃんが飲んだらええんや」

 彼女は思いつきに晴れ晴れとして、こぼさぬようにそっと杯をこちらに差し向けた。私が受け取ると、彼女はさっきまで私の使っていた杯を取った。

「な? これやったら、うちがついだし、さきにのむのもにいちゃんや」

「名案だ」

 一息に飲んだ。

 あかねは杯を両手で持ち、今か今かと逸る面持ちで注がれるのを待っていた。注いでやると、彼女も水を飲むように飲んだ。花の蕾のような未熟な唇が濡れ輝いた。化粧のない澄んだ色に潤いがでた。

「まあまあ、もう一杯どうぞ」

 彼女は低い声に繕って言った。

「なんだその言い方」

「おじさんごっこ」

「もう酔ってるのか」

「ちがうわ。最近はまってんねん」

 私は杯を受けてから、徳利を取った。

「もう一つ、どうぞどうぞ」

 私は殊更に高い声で言うと、あかねは無邪気に膝を叩いて笑った。既に少し酔いが回っているらしかった。首の目元と瞼の上に、仄かに紅がさしていた。肌の白と重なり、梅の香りの匂うようなやわらかな色あいであった。

「飲みくらべな」

 あかねはすっと飲みほすと、唐突に切り出した。

「馬鹿言え、もう顔が赤いじゃないか」

「赤くないよ」

 まだ白いままの頬に、あかねは掌を添えた。

「まだ冷たい」

「ほんとかな。瞼は赤いぞ」

「ほんまやって」

 彼女はむきになって、僕の掌を掴み、頬に押し当てた。

 かなしいほどの冷たさであった。美しいやわらかさも、掌いっぱいに伝わった。初雪に触れたようであった。

「いいよ」

 掌に広がる感触に慰められながら、私は頷いた。

「一合飲んでるから、ハンデにもなるだろう」

「なまいき言うなあ」

「こっちの台詞だ。飲み比べなんて百年はやいって思い知らせるよ」

 そう言ってぐいと流し込むと、彼女もすぐについてきた。彼女に注がれ、私が注ぎ、また飲んだ。

 やはり、すぐにあかねが乱れはじめた。

 肌の紅は頬にも広がった。淡い日の出に染まる春空のようであった。ぼんやり白んだ薄桃色であった。一杯飲むたび、その頬が雪のとけるように綻んだ。

 仰向けになって飲みはじめたので、私は彼女の手を止めた。

「もうやめとけ。倒れでもしかねない」

「ええもん」

 さっきまでの上機嫌が消えて、薄い眉根を寄せた。怒っているようにも、泣きそうなようにも見えた。

「ええやん。ちょうだい」

 彼女は愚図る子どものような激しさで、私が抑えた手にある杯へ、唇を寄せて啜った。

 私は呆れて握る手を離してしまった。

「まったく、無茶をする子だな。いつもそんななのか」

「うちな、うちみたいなんな、いつ死んでもええねんもん」

 うたうような明るさで、彼女は私にしなだれた。膝の上に座り、胸に顔をつけていた。気が狂ったかのように笑っていたかと思えば、その声が震えて、泣きだした。

「うちな、はよ死んでな、かなしいことなんにもないとこ行くねん」

「天国か?」

「しらん。お母ちゃんおらんとこやったらどこでもいい」

 母のいないところに悲しみはないとする。私は彼女が悲惨な詩人に思えた。

「お母さんといるのは悲しいかい」

「あかねのお母ちゃん鬼やもん」

「二人で暮らしてるの?」

 父は死んだと言っていた。

「お母ちゃん女の子みんなにいれずみするんよ? いたいって言っても、ゆくゆく旦那さんのきまってる人にも」

 あかねは私の問いかけには頷きもしないで、気ままに感情を弾けさせた。針のような輝きを放って響く声だった。

 彼女の母が斡旋屋なのだろう。そう思って見れば、虚空を睨みつけるあかねの眼が、いよいよ病的な美しさを帯びてきた。遊女の眠る土を踏み、そこから湧く水で育った子だ。そして哀れな生まれのせいで、おそらく愛だの恋よりも先に身売りを覚えてしまっているのだろう。

 あかねの涙で濡れた私の胸元から、彼女は顔を離した。そして、はだけかけている着物の襟に手をかけた。

 刺青を見せようとするらしい彼女の手を、私は握った。

「なんでとめるんよ」

 私は答えなかった。少女が目の前で服を脱ごうとする仕草への反射だった。理由らしい理由はなかった。

「ええ人ぶって」

 からかうように彼女は言った。男の卑小な偽善をわらえるほど、穢れすぎているのかもしれない。

 しかし、やはり幼子ゆえの弱い心か、急に私に打ち解けてきた。生まれながらの娼婦の嗅覚で偽善とは嗅ぎとっても、すがらずにいられぬのかもしれない。

「もういや。あかね死ぬまでにあと何回泣かなあかんねやろう」

 甘えるように私の掌をとって、赤くなった目尻に押し当てた。

「泣くのんはいや。どこもまっくらになったみたいにつらいもん。目いたくなるもん」

 哀切な言葉とは裏腹の、乾いた捨鉢の口ぶりだった。服従する犬のように腹を上にして、胡坐をかく私の膝の中にすとんと寝転んだ。私の掌を離さず、自分の頭に置いて、撫でるように動かした。細い髪は汗に少し湿っていた。少し撫でるだけで、野生の匂いがのぼってきた。

「さっきのお客さんひどい人やってんで」

「さっき?」

 膝の中にあるあかねの顔を、私は見下ろした。

「この宿は今日は誰もいないんじゃないのか」

「昼すぎまでおってん。きのうの夜から。ずっと帰してもらわれへんかった」

 膳の上に置いていた私の徳利に手を伸ばして、あかねはまた一杯飲んだ。

「村の人らでな、おじいちゃんばっかり。五人もおるのに、いっつも他の女の子かえらせて、みんなあかねが相手させられんねん。おじいちゃんやのに、夜も朝もないねんもん」

 彼女が手慰みのように私の掌を揉んだ。指を一つずつ握っていった。酒のせいか焼けるように熱いあかねの肌から、鼓動さえ微かに滲んだ。ついさっきまで、老人たちとあったという彼女の手が、夜の露に濡れているようだった。

「にいちゃんの手つめたいなあ」

「その手が熱いんだよ」

「心があったかいのってどっち?」

「冷たい方だよ」

「わあ、わたしの手はなんてつめたいんでしょう」

 あかねは芝居がかって言い、自分でけらけら笑った。

「あかねの心がつめたいって言いたいんか」

 そう言うやいなや、彼女は私の指を甘く噛んだ。快い痛みが指に広がった。あかねの歯が小百合の新鮮な白だった。

「まるで動物だな」

「わんわん」

 あかねは私の膝にも歯をつけた。酔って口がだらしないのか、唾液のしみができた。

「今日ここ来る時にな、犬死んでてん」

 ふと思い出したように彼女は言った。

「いつ? どこに?」

「ここ来る時。お寺の前」

「お寺って、終恩寺か?」

「うん。なんでお寺しってるん?」

 私が寺を出た時には犬の死骸などなかった。私が寺を去り、彼女がその前を通るまでは、そう時を隔てていないだろう。しかし私は犬の死骸に出会わず、彼女だけが目にした。悲哀の運命の呪縛だろうかと、陳腐な考えが頭を過った。

「その寺に来るためにこの村に来たからね」

「あのお寺があかねとにいちゃんをつないでくれた」

 媚びる風でも、ましてや真実でもないようだった。無垢にふざけているように見えた。

「なんで犬なんて死んでたんだ」

「しらんよ。そんなこと。犬だって死ぬ時に死ぬだけやんか」

 あかねは投げやりに言った。

「どうした、その死骸」

「どうしたって、どうもしてへんよ。眼だけ綺麗に閉じさせたげて、手合わして、ここにきただけ」

 私はそれを聞いて、犬は彼女だけに死を悼まれたくて、私と僧侶の去った寺の前に死んだのかと思い巡った。運命の呪縛よりはその方が信じられたし、美しくもあった。

 あかねの手は、今は私の手を弄んでいた。老人たちの肌の上を這い、犬の死を安らがせて、今ははじめての客の手に戯れている。

「でも、なにしにきたん、あんなお寺に」

「安海上人だよ。安海上人を拝みにきた」

「あんかいしょうにん?」

 あかねは私の顔を不思議そうに見上げた。

「なにそれ」

「知らないのか、この村の子なのに。終恩寺に安置されてる即身仏だよ」

「そんなんあるん?」

「見たことないのか? 本堂の」

「……ああ、あの人、あんかいしょうにんっていうんや」

 私は黙り込んだ。遊女たちの身の上を救おうとした安海上人は、今の世の娼婦に、それもひどく哀れな少女に、名すらも知られていない。

 本堂の闇のなかに鎮座する安海上人の姿が胸に蘇った。彼の虚ろな眼には、夜空の星よりも、小鳥の囀りよりも多く、わびしい娼婦たちが生まれは死んでいっただろう。そのなかには、あかねと似た女も、いくつもいたのだろうか。彼女の母の、その母の、そのまた母も……花が咲いて散るように、泡沫の生死を移ろっただろうか。

 不意に思いついたように、何の前触れもなく、またあかねがしゃくりを上げて泣き出した。私は流石に驚きながら、

「どうした、急に」

「おじいちゃんらな、あかねにな、変なことさすねん。いや、いや。あかね、かわいそうやわあ。いや」

 あかねは高い叫びを震わせて、両耳に手を押し当てた。聞こえてくる声から逃げるかのように頭をばたばた振り回した。気の狂った激しい身ぶりだった。

「おい、誰もいない。老人なんていないぞ」

 私が肩を抱いて揺すってやると、少しして落ち着いた。

 酔いの消えた、疲れ切ったような白い顔で、あかねはささやいた。

「あんな、昔からある地獄花の歌やって言うてな、おぼえさせられてな、歌わされてん。夜も朝もずっと。おじいちゃんらが疲れて、また若くなってくるまでな、着物も着せてもらえんでな、踊らされてん」

 あかねは、幼子のように声を上げて泣きながら、ふらふらと立ちあがった。そして嗚咽交じりに、

「見たい?」

 私が頷くと、彼女はすぐに舞いはじめた。着物の裾がはためき、青と茜が流星のように光った。

 はじめて聞く歌だった。童謡のような、ゆるやかであどけない調べだった。あかねの子どもらしい天衣無縫の歌声で、ひときわそう聞こえるのかもしれなかった。



   ごんしゃん ごんしゃん どこへゆく

   あかいお墓の 地獄花

   きょうも手折りにきたわいな


   ごんしゃん ごんしゃん なんぼんか

   土には七本 血のように

   ちょうど あの児の 歳の数


   ごんしゃん ごんしゃん なし泣くろ

   いつまでとっても 地獄花

   恐や 赤しや まだ七つ……



 踊りは、田舎踊りらしい、ゆったりとしたものだった。数え切れぬほど女が死にゆくこの地に流れてきた、気の遠くなるような永い時を私は想った。

 あかねの清冽な歌声は、歌の言葉もほとんど分からないと聞こえた。草花のそよぐ音によろこびもかなしみもないのと同じことだった。歌の女の子が七つで死んだなら、この子はいくつで土の下に眠るだろう。一輪の彼岸花となるだろう。

 ふらつきながらなので、何度も繰り返し歌い、舞ううちに、落花流水のごとく着物はゆるんだ。白い肩が、涙か汗か濡れそぼめいて、着物に隠れてはあらわれた。そのたびに私の昏い感覚は花開いた。彼女の肉体が踊りに昂ぶるのか、甘い匂いが強くなって部屋中にたちこめた。

 次第に、あかねのなかにかなしみが蘇るのか、涙は滔々と流れ、かえって嗚咽は消え、狂乱の光に眼が爛々としてきた。その眼は野生の獣の眼光に似た清らかな光芒であった。屍の頽廃もあった。荒廃の眼差しであった。

 彼女のなかを流れるかなしみは、昨夜だけでなく、今夜でもなく、すべての夜に馳せる想いなのかもしれない。涙がぽろぽろ零れてきらめくにつれて、爛れた刺激が私にすさまじく吹き荒れた。

 長いこと歌って、いよいよどうしようもなくなったように、彼女は私の胸の中に倒れ込んだ。

「はよ好きにしいや。もうなんも、どうでもいいねん」

 あかねは野を駆ける夢を見ているように爽快に笑っていた。しかしこちらを上目に見る、涙に濡れた黒い瞳には、野の花ではなく私の上気した顔が映っていた。私は彼女の着物の襟を剥いだ。

 未成熟の平らな胸だった。そこに、一輪の彼岸花の刺青が広がっていた。幼い胸に絡みつくように花びらは大きく開いていた。死の花は、純白の肌を美しく彩って、呪いの紋章のようであった。

 あかねが私の目をのぞきんできて、静かに唇を開いた。

「地獄花つんだら、死ぬんやで」

 危うい言葉は、ままごとのようであったが、彼女の魂の誘惑のようでもあった。

「そんな誘い文句、誰に教わったんだ」

「こう言うたら可愛くみえるんやろ?」

 私は腕に抱いたあかねの胸を掴んだ。

「やあ、痛い」

 彼女は無邪気に笑った。

 そして、目が合うと、ませた妖艶さで物も言わずに微笑んだ。

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地獄花は咲き乱れて しゃくさんしん @tanibayashi

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