地獄花は咲き乱れて
しゃくさんしん
一
水無木駅は大阪の外れの山深くにあって、一両列車でしか行けぬような場所である。そして、着いてみると、生きるものはいないかのような寂れたところだった。
降車してホームに立ち辺りを見回すと、昼下がりの薄曇りの空の下に、荒廃した畑地ばかりだった。暗い山壁が黒い腕のように四方に聳えていた。谷に沈んだ村だった。微かに吹く秋風が霊の吐息の冷たさであった。
黒ずんだ木造の、学校の教室ほどの狭さの無人駅を抜けると、錆びついた看板を見つけた。積もった埃を手で払ってみると村の地図が記されており、私は終恩寺への道程を探った。駅からはかなりの距離があるらしかった。しかし、地図にも、また周辺にも、バス停は見つけられなかった。
仕方なく私は地図で確かめた道を歩き出した。こんな村で今夜の宿が見つかるのかが不安であった。この村にはほとんど電車が走らないから、帰りは明日まで待たねばならない。
普段は家を出ることすら嫌うが、仕事のためだから仕方がない。私は新たな小説の取材のために、この谷底の見知らぬ村を訪れたのである。
私の目的は、終岸寺に安置されている即身仏であった。
かねてより即身仏を道具としてなにか物語を拵えてみたいと考えていたが、漸く構想が纏まりつつあり、現物を実際に見ることで自分の書かんとするものを心の手で確かに掴みたかった。
しかし、即身仏を拝むにしても、もっと名の知れたものがある。例えば山形県の大日坊に奉られている真如海上人である。そこへ行けば、周辺には他の即身仏を安置する寺も多い。修行として自らの陰部を切り取り、また疫病に苦しむ民衆を救おうと左目をくり抜いて祈ったという、数々の逸話のある注連寺の鉄門海上人なども、大日坊から容易く巡れる近さにあると聞く。
私がむしろ、全く知られていない終恩寺の安海上人に参ろうとするのは、幼いあこがれゆえであった。
即身仏という極限の仏心を、来客に慣れた僧の巧みな説法を聞きながら、多くの信徒に囲まれて拝むというのは、むしろ仏心から遠ざかるように思えた。
誰にも知られぬところで、遠く響く鐘の音にのみ身を流されながら拝むことが私の望みであった。
私にしてみれば、仏教とはつまり、静謐なあきらめである。真空に仄めく粉雪である。信仰のない私にも、それは尊い天上の美だ。
自分の足音だけを味気なく聞きながら歩いていると、空海が醍醐天皇の夢枕に立って詠んだとされる歌がふと胸に浮かんできた。
高野山 結ぶ庵に 袖朽ちて 苔の下にぞ 有明の月
村の道には、いたるところに彼岸花が咲いていた。畑地の周りに、また道端に、ゆるやかにひらいた花が茂っていた。
人影もなく、物音もない、わびしい畑地ばかりが空しく広がる村だ。そこに禍々しい朱が咲き乱れている。昏い艶めかしさだった。死んだ女の枯れた肉体に迷い込めばこんなふうだろうかと、つられて病的な夢想も過った。私の歩みはおのずと急いた。
しかし、終恩寺もまた、ほとんど彼岸花の森であった。
そう広くない境内のあらゆるところに、彼岸花は妖しく咲き乱れていた。匂いのないのが不思議なほどであった。彼岸花は匂いを放たない花らしかった。
寺の中を歩くうちに、どこを眺めても花の色が目を染めた。そのうちようやく、朧げな恐怖もやわらいでいくのを感じた。
本坊を訪ねると僧侶がいた。
ほとんど訪問者のない寺らしく、僧侶は面食らっていたようであったが、安海上人を参拝しにきたのだと伝えると快く案内をしてくれた。
安海上人の即身仏は本堂に安置されていた。
外から差す陽が微かに揺らめく、凛と静止した闇のなかで、紫の衣を纏った安海上人はひときわ暗い影のようであった。
形は人からほとんど崩れていなかった。枯れた肌は赤銅色になって、古仏のような底光りを湛えていた。仏の心が、肉体のなまなましさでそこにあった。
上人は暗闇よりも暗く、大きく、やさしかった。それは仏の心のやさしさのようであった。暗い穴を果てしなく落ちていくような、空しいやさしさだった。
手を合わせて、本堂を出ると、いつの間に時が過ぎたのかもう昼下がりであった。曇った空には夕闇の兆しが見えた。
僧侶に今夜の宿を探さねばならないことを相談すると、それならばと、村の唯一の民宿に紹介してくれることになった。
僧侶と並んで門まで歩く道すがら、私は赤々とした庭にまたしても目を奪われた。
暗がりに慣れたせいで、彼岸花はいっそう鮮やかであった。目の痛むほどですらあった。
寝床に広がる女の髪のような花のかたちも、よりいっそう仄暗く胸に迫った。彼岸花をはじめて見るような新鮮な感動だった。
「珍しいでしょう、こんなのは」
僧侶が私の眼差しに気付いたらしく、立ち止まって言った。私も立ち止り、花の群れを眺めて、
「ええ。ちょっと怪奇的ですらありますね」
「他の土地の方やと、そうかもしれませんな」
「彼岸花ってのはどういう土地だとここまで生い茂るんでしょうか」
私がちょっとした興味で尋ねると、僧侶は首を傾げて、
「彼岸花……ああ、そういう言い方もございますね。この辺りでは地獄花と呼ぶんで一瞬なんのことやら分かりませなんだ」
僧侶が頭を掻きながら笑うのにつられて、私も頬をゆるめた。
「しかし物々しい名前ですね。地獄に咲く花みたいに聞こえる」
「実際そういうような意味の名前です」
「はあ。それはどういう……」
「地獄花は毒がありますからな」
「毒?」
「ええ。微弱なんで、人間が触ったところで、まあひどくて子どもなら皮膚のかぶれるぐらいですがね。虫や鼠なんぞは近寄りません」
「それで地獄花ですか」
「いやあ、それだけやありません」
僧侶はかぶりを振って、
「それというのも、まずはこの辺りの歴史の話をせなあきません。実はこの村は中世には遊女のたくさんいた土地なんです。都もちこうございますからとても栄えたみたいで、貴い方もたくさん訪れなさったと聞いております。しかし遊女は身寄りがありませんから、亡くなるとこの寺に捨てられたんですな。安海上人が即身仏の修行に入ったのも、悲惨な身の上の彼女らを仏になって救おうとしたんやそうです」
この寺に捨てられた。
そう聞いて、私ははっと境内を見回した。陰翳を纏って佇む本堂が目に入った。あの中には、安海上人が安置されている。即身仏といえばそうだが、死体が永い時を越えて、寺を見つめ続けてきたのだ。枯れ果てて古木のように色褪せた、あの二つの眼球で。
その永い移ろいのなかで、血のように赤い花は、何度その女の髪のような陰鬱な花びらをひらき、そして散らしたのだろう。
「さっきも申したように地獄花には毒がありますからな。昔は死体を埋めた周りに植えて育てたんです。動物が掘り返したりしませんように。そういうことから地獄花と呼ぶようになったんですね」
「じゃあ、この無数の花の下には……」
「ええ。なにせ遊女はたくさんいて、そしてきまって、すぐに死にますからな」
僧侶は淡々と言った。仏教の無常のためか、あるいは、この村の者ゆえに一種の慣れがあるためなのか、私には分からなかった。
秋の夕刻の冷たい風が吹いた。境内一面に咲き乱れる彼岸花が静かにそよいだ。
私はしゃがんで、一輪へ手を伸ばした。仏心に狂って死んだ安海上人の見つめるこの場所で、遊女の屍に根を張り咲いた花だ。花の放つ異様な美しさはいよいよ輝いた。
「おやめなさい」
僧侶が後ろから私の肩に掌を置いた。
「毒がありますので」
「しかし、大した毒ではないのでしょう?」
「ええ。しかしこの辺りにはそういう信仰がまだ残っていましてな」
「どういう信仰です」
「地獄花を摘んだ者は生きておられぬという信仰です」
「誰も永遠には生きられません」
「あなたがどうしても摘むのなら、今夜誰もあなたを泊めはしないでしょうな」
振り返ると、僧侶が何も見ていないような虚ろな眼で、こちらを見つめていた。
全身に走った震えが、肩から彼に伝わらないかと私は怯えた。
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