神の臼は涙を知らない

糾縄カフク

The mills of God grind slowly.

 覗き見という訳では無い。それは偶然と呼ぶべき出来事だった。

 晩秋ばんしゅうの放課後の、既に薄暗くなった美術室で、力なく誰かが横たわっている。

 顔は良く分からないが、服装から察するにこの学校の女子生徒と推し量れた。


 僕の通報によって警察が到着するまでわずか五分。

 近年の学園都市よろしく警備に万全を期された学び舎は、公権力の対応も実に素早い。


 ――殺害されたのは暁峰あきみねヨシホ。本校、すなわち私立聖繍せいしゅう高校の二年生で、美術部の生徒だった。父親は著名な画家らしく、愛娘まなむすめの通うこの高校に、数点の作品も寄贈していると聞く。もともと暁峰自身は絵画に興味はなかったそうだが、何を思ったのか今年の始めに筆を取ると、それからめきめきと才能を伸ばした。公表されている限りでも、六月に市の公募、九月にアジアのコンペディションと赫奕かくやくたる成果を重ね……丁度この時期は、市で入選した作品の展示が、学内で行われていた折でもあった。


 それから駆けつけた父親の焦燥は傍目にも分かる程で、茫然自失という表現が正しいだろう。はだけたコートに床に落ちたマフラー。その一切を手直す余裕も無く、暁峰あきみねカズオはその場に崩れ込んだ。画家たる彼の事務所は、高校から徒歩十分のビジネス街にある。学校からの連絡を受け、仕事を放り出し彼がやってくるまで、せいぜいが半刻といった所だった。


 その後の検分によれば死因は絞殺。暁峰ヨシホは十六時過ぎに美術室で殺害されたと見られるが、犯人の指紋、掌紋の類は検出されず、防御創ぼうぎょそうからのDNA採取にも至らなかった。一方で絵の具の反応が見て取れた事から、犯人はプラスチック製の手袋を嵌め、その手で以て暁峰ヨシホを殺害したとの推論がなされた。


 この時点で犯人は同じ美術部に所属する誰か、または関係者という公算が強まったが、問題は被害者である暁峰ヨシホに、恨みを買うような素行、または性格に起因するトラブルが一切見て取れなかった事だ。もちろん年頃の少女よろしく彼氏はいたが、これも他校の生徒でアリバイも十分。その他ストーカー被害にあった旨の形跡も無く、捜査は一夜で暗礁に乗り上げてしまった。


 そうなると自然、目撃者でもある僕に情報の供与が求められるのは道理でもあり、斯くてやむを得ない事情によって、僕はこの事件に巻き込まれる事になったのだ。




 然るに僕は、先ず暁峰ヨシホの過去と行動を振り返る。富裕層の、それも芸術家の長女として進学を果たした彼女は、最初から周囲より抜きん出て垢抜けていた。本格的に絵画の道へ進んだ事は無いにしても、父の傍らで芸術に親しむ機会はあったのだろう。趣味程度で描くイラストですら、高一の段階で美大生レベルだったと言われている。


 さらに暁峰は、人付き合いも明け透けだった。自分が興味を持った分野にはすぐに顔を突っ込み、そして気に入られて人の輪を広げていく。正にクリエイターとしてもビジネスマンとしても、一廉ひとかどの素養を有している稀有けうな人材であった事は、浅学な僕とても容易に理解できる話だった。


 だから警察も、広範に過ぎる暁峰ヨシホの交友関係と、その友人の数に苦慮していて――、さしあたっては怨恨の線で捜査を進めてはいるが、これといったビンゴに行き当たらないというのが実情だったのだそうだ。




 しかしてそうは言っても、こっちはこっちで一応は調べなければ話にならない。だから僕は現場へ立ち返り、もう一度の実地調査に踏み切る。するとそこには、立入禁止のテープが貼られた外で、イーゼルに向かい一心不乱に筆を動かす人影があった。


 その影の主は春見はるみサクラ。暁峰ヨシホの同級生で、中学からの友人らしい。春見の美術一徹な姿に惹かれ、暁峰が絵画の道に足を踏み入れたという話も聞く。


 しかして悲しいかな、成果の程は雲泥うんでいの差で、連日放課後を美術室で過ごす春見に対し、あちこちに顔を出している暁峰のほうが、賞レースでもコンペディションでも実績を残している現状があった。




「――今日も居残りかい?」


 そこでにわかに響く声に、僕の視線は微かに動く。バレるという事は無いだろうが、用心に越したことはない。


「はい先生。あんな事があった後ですけど……ヨシホの為にも頑張らないと」


 春見がほっとした様に振り向いた先には、よれよれの白衣を着た痩躯そうくの青年が立っていた。


「あんまり根を詰め過ぎるな……暁峰の分まで、お前が頑張る必要は無い。あいつは別物だ」


 疲れきったようにため息を吐く青年。――彼の名は藤堂とうどうユウジ。二年前に赴任してきたばかりの、新米の美術教師だった。地方の美大を出た彼は、早々に暁峰の才能に白旗を上げ「もう自分には教える事が無い」と、最近は自信を失っていると専らの噂だ。


「そんな事はありません……確かにヨシホは凄いですけど、私だって……先生のご期待に沿えるくらいは!」


 ふと声を荒げる春見に、藤堂は肩をすくめて「そうだな」と返す。随分と温度差があるように見えなくもないが、ともあれこの若年の教師は、しばらくするときびすを返し、準備室に戻っていった。


 


 美術室の位置は西端の二階。窓からは夕日が覗けるが、ベランダは無く外からの侵入は不可能だ。よって出入り口があるとすれば、教室の両脇か、準備室を経て入室する以外に無い。


「どうして……皆、皆……ヨシホの事ばかり……」


 するとぼそり呟く春見は、握りしめた筆をふるふると震わせ怒りを零す。しかして犯行のあった当日、毎日居残りをしていた筈の春見が、なぜこの日に限って居なかったのだろう。その事は流石に警察も訝しがったようだが、切れた画材の買い出しとの回答、及びアリバイの証明で、当面の決着をみていた。――而してこの光景を目にするにつけ、暁峰ヨシホと春見サクラは、周囲が思うほど仲の良い友人関係ではなかったのかも知れない。


 片や才能の塊たる暁峰と、己の凡庸ぼんようを努力で補う春見。この両者のコントラストは、人の渡世の残酷なる現実を、これでもかと示しているようにも見える。――やがて生徒の人影も無くなった教室で、目を爛々とさせた春見が立ち上がった。


 


 春見が向かったのは、廊下に飾られた暁峰ヨシホの絵画の前。「晩秋」と添えられたタイトルの上には、初夏に市の最優秀賞を得た油彩画が堂々と威容を示している。

 

「どうしていつも貴女ばかり…… 私のほうが努力してるのに。貴女よりずっとずっと絵を描いているのに……!!」


 春見の手にはパレットナイフが握られていて、それを掲げる彼女の目は、恐らくはきっと……血走っている。


「……止めなさい」


 すると続いて響く声が、掲げられた春見の腕を取って諌めた。視界の片隅に映るのは、よれた白衣と白い痩躯そうく


「……先生!? どうして??」


 果たしてそこに立っていた者は、他ならぬ藤堂ユウジ。――唐突な美術部顧問の介入に、春見は驚きを隠せない。


「どうもこうも無いさ。これ以上、絵を汚すな……春見」


 藤堂の声は、先刻の柔和さが嘘のように冷たく重い。一瞬身体を震わせた春見を、藤堂がさらに追い詰める。


「お前がやったって事は分かってた。だから助け舟も出したし、アリバイを作るのにもそれとなく乗ってやった……だけどな、これは、これはダメだよ。春見」


 そう言い含める藤堂は「――ごめんな、もっと早く気づいてやれなくて」と続けた。


「先生……私だって……私だって……うう……」


 その一言がトドメだったのか、崩れ落ちた春見は嗚咽おえつを漏らししゃくり上げる。藤堂はふらふらと壁にもたれかかり、この光景を傍観ぼうかんするように眺めていた。




 春見の曰く、事件のあらましはこうだった。

 放課後、いつも通り二人で絵を描いていた春見と暁峰。先に帰ると立ち上がった暁峰に、その日はなぜか食いついたのが春見だったと言う。


 ――そんなチャラチャラしてていいの? そう問う春見に、暁峰は「サクラこそ、こんな美術室に閉じこもってばかりじゃ、見える世界が狭くなっちゃうよ」と返したらしい。


 瞬間、プツリ。と何かが切れた音がして、気がつくと春見は、暁峰の首を締めていた。プラスチックの手袋を嵌めていたのは、たまたま油彩画の手直しをしている最中の出来事だったからとの事だ。そこで怖くなって逃げ出した所を、目撃していたのが美術部顧問――、藤堂ユウジという訳だった。


「妬ましかった……ずっとずっと絵を描いてきたのに、ほんのちょっと筆を握っただけのヨシホにすぐに抜かれて……あの子、普段あんなに遊んでるのに……どうして、どうして……」


「それはな、春見……仕方のない事なんだ。暁峰は高校に入るずっと前から、いや、きっと生まれた時から芸術に親しんできた。他の高校生とは、歩んできた人生も、築いてきた基盤も全然違うんだよ。だから周囲から比べられたとしても、お前があいつと比べてしまったら、それはいけないんだ。――住む世界が違うなら、抱える悩みだって違う。目指すべき道も違う。見える景色も、辿り着く結末も……全然」


 とくとくと説く藤堂に、無言のまま頷きながら春見は泣く。その泣き声をかき消す様に遠くからサイレンが響いてきて、どうやら事件の終幕だと僕はおぼろげにだがそう思う。廊下を駆ける複数の足音が、警官隊の突入を暗に示す。――呼んだのは僕で、呼ばれたのは彼らだ。




 人間、というものは難しい。たとえ上っ面で仲睦まじく笑いあっていたとしても、その心奥に潜む不確定な要素にまでは踏み込み得ない。


 今回のケースは、人間の胸底に横たわる嫉妬と羨望せんぼう、それが導き出す悲劇的な顛末てんまつを、これ以上なく如実に示す類例だと思う。恐らくは早晩クラウド化され、同様の事件を防ぐべく各校で共有が為されるだろう。プライバシーの保護、あるいは聖域とされ、終日の監視を禁じられてきた教室の須らくにも、今後は僕たちの庇護下に置かれる筈だ。


 それから暫く後、周囲には沈黙が訪れ、私立聖繍せいしゅう高校――、すなわち僕が管理する学び舎が一日を終えるのに併せ、僕もまたゆっくりと機能を停止する。休眠中に思考は最適化され、また始まる恙無つつがい明日に紡がれるに違いない。


 ――Secondary School Security Artificial Intelligence.

 後期中等教育統一保全機構、通称SAIの一日は、こうして幕を閉じる。


 

 

 神のうすは涙を知らない・了

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