橘の花
卯月
夢よりもはかなき世の中を
夢よりもはかなく終わってしまった私と弾正の宮さまとの仲を嘆きながら、心細い思いで日々を送っているうちにいつの間にか年も明け、春も過ぎ、ふと気がつくと初夏四月の十日余りにもなっておりました。
庭の木々の下には、夏草が生い茂り、だんだんと薄暗くなってゆきます。
恐らく私以外の人は、築地の上に生えている草になど、目も留めないに違いありません。けれども私は――私だけは、それを眺めてはしみじみと物想いにふけらずにはいられないのです。
夏が、再び還ってくる。
あの方の亡くなられた、夏が――。
宮さまのことを想わなかった日は一日としてございませんけれど、なぜか今日はその想いがより一層強くなります。やはり、夏の訪れが目に見えてわかるからでございましょうか。
そんなことを、ぼんやりと考えていたときでございました。
(――?)
近くの
「――まあ、お前は……」
それは、亡くなられた宮さまにお仕えしていた、
それにしても、丁度あの方のことを考えていた時にこの童が姿を見せるとは、何というめぐりあわせでございましょう。思えば、あの方からの手紙を携えてこの庭に現れたのは、いつもこの童だったのです。私は思わず、
「どうして長い間来てくれなかったの?」
急き込むように、問いかけました。
「お前のことは、遠ざかってゆく昔……弾正の宮さまがいらしたあの頃の、名残とさえ思っているのに」
と侍女を通して言わせると、童は遠慮がちにこう答えました。
「宮さまがお亡くなりになられて、これといってはっきりした御用もございませんのにこちらへ参りますのは、あまりにも馴れ馴れしいのではないかと、気が引けたものですから……」
「そんなこと、気にしなくてもよかったのに……」
責めていたのではないのです。懐かしいこの童が来てくれて、私はとてもうれしかったのです。ほんの少し気分が浮き立つのを感じて、私はいろいろと話しかけました。
「それで、お前は今どうしているの?」
「普段は、あちこちの山寺に参詣しております。お仕えしていた方がお亡くなりになり、自分の居場所もすることも、何もかもなくなってしまったような気がして、とても心細くて……」
童は一瞬目を伏せましたが、すぐにまた顔を上げました。
「それで今は、亡くなられた宮さまの代わりに、と思いまして、
帥の宮さまとは
「そう、それはとてもよいことだわ」
童の言葉に、私はうなずきました。
「けれども、その宮さまは大層上品で、近づきがたい方でいらっしゃるそうね。弾正の宮さまにお仕えしていた頃のようには、親しくお仕えできないでしょう?」
私が問うと、童は熱心に答えました。
「確かに上品ではいらっしゃいますが、とても親しみやすい方であられますよ。今日も私に、『お前は、和泉式部どののところにいつも参っていたのか?』とお尋ねになりましたので、『参ります』と申し上げたのです。すると、『これを持って式部どののもとへ参って、どのようにご覧になりますか、と尋ねて差し上げよ』とおっしゃられました」
そう言って童は、橘の花を取り出したのでございます。
「『昔の人の……』」 という言葉が、口をついて出ました。
さつきまつ
(五月を待って咲く橘の花の香りをかぐと、
昔親しくしていた人の袖の香りがすることです)
帥の宮さまは、この歌のことを言っておいでに違いないのです。
昔の、人。
弾正の宮さま――!
「それでは、帥の宮さまのもとへ参上しましょう」
私の物想いを知ってか知らずか、童は話し続けます。
「どのようにお返事をお伝え致しましょうか?」
そうです。お返事を差し上げねばなりません。けれども、このように橘の花などを頂きましたのに、つまらない文章だけの手紙なんて気恥ずかしくて、どうして差し上げられましょうか?
(帥の宮さまは、移り気な方だという評判もまだ、立っていらっしゃいませんもの)
私は考えました。あまり浮気な方だと、軽々しい言葉をお返しするとあとで困ったことになるかもしれませんけれども、帥の宮さまならば、ちょっとした歌でも詠んでお返事を差し上げても、きっと構わないでしょう。そう思って、
薫る香によそふるよりは
(橘の花の香りにことよせてお便りを下さるのでしたら、
それよりは直接お会いして、時鳥が
兄君と同じ声をしておいでなのかどうか、お聞きしたいものです)
と、お返事申し上げることにしたのです。
帥の宮さまは、館の縁側に小舎人童を呼んで橘の花を持たせたあともまだ、その縁側にいらっしゃいました。童が物陰のほうに戻ってきたような気配をご覧になって、「どうだった?」とお尋ねになると、童は私の手紙を差し出しました。宮さまはそれをお読みになると、
同じ
(兄も私も、橘の同じ枝に鳴いていた兄弟の時鳥のようなものです。
声は変わらないものだとお思いになりませんか?)
とお書きになり、その手紙を再び童に持たせてこちらにお寄こしになりました。その際、童に
「このことは、決して人には言うなよ。まるで、私が色好みなようだからな」
とおっしゃられて、館の中にお入りになりました。
童は、その手紙を私のところに持ってきましたが、私は心魅かれはしましたけれども、そういつもはと思いまして、今度はお返事を差し上げませんでした。
そんな風にして、私と帥の宮さまとの間は、始まったのです。
橘の花 卯月 @auduki
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