3日目

●「塔」の下 5:10


 アカは携帯電話を耳に当てて、手下から報告を受けている。その手の甲に踊るように、ストラップが揺れる。


銀メッキのプレートに、赤文字で描かれた筆記体の「M」。ところどころメッキが剥げ、細かな傷が付いていた。


「じゃあ、みんな戻ってきたんだね。あたし? 今、塔の下にいる……いや」


 そこで、ちらりと狭上の顔を見る。狭上は「塔」と呼ばれた建造物に背を預けて立ち、同じくそれに寄りかかって座っているアカを見下ろしていた。塔の裏側には泥だらけのコンバーチブルが、力尽きたような風情で停まっている。


「心配しないでいいよ、すぐ戻るから。あと、ダイジはどうした? 足に怪我? どうせまた大袈裟に騒いでるんだろ。ああ、替わらなくていい。水汲み一か月って言っといて」


 喋り口は努めて平静を装っているが、右耳に当てた電話を左手で支える姿勢は、ひどく不自由そうだ。右の肩口に負った銃創は浅く、しばらく大人しくしていればすぐに回復が見込まれる程度のものではあるが、今はまだ、右腕の筋肉を動かすたびに痛みが走るだろう。


 爆発の現場から離れ、この塔のある丘までやってきたとき、アカは肩をつかんで脂汗を流していた。痛いとは口にしなかったが、羽織に血が滲んでいたので、強いて手を引き剥がして応急処置を施した。もっとも薬も包帯もないので、トランクに積んでいたタオルを裂いて縛り、止血をしただけだ。それでも、狭上に手当てを受けたことが悔しいのか、アカはただ不機嫌そうな顔で黙っていた。


 負けず嫌いな性格は、未唯よりも甚だしい。毛布をかぶせて休ませようとしても、意地を張って目を閉じようとしないので、狭上のほうが先に眠ったふりをしなければならなかった。


 通話を終えると、アカは左手で電話を閉じ、座ったまま狭上を振り仰いだ。


 ようやく白み始めた空が、瞳に映る。湿った地面の上にビニール袋を敷いて、膝を抱え込むように座っているその姿は、しかし、やはり十代の少女だった。


「これ、オジサンがあげたんでしょ」


 ストラップを揺らして見せる。どうやら、視線の焦点に気づいていたらしい。


「よく効くお守りだって言ってた」

「未唯が?」

「これ持ってれば、最強のハイエナになれるって、貸してくれたんだ。初めて会った日に」



 重たい雪の降る夕暮れ時だったという。アカは生まれて初めての客を取るために、スナガワSAの駐車場に立っていた。


 オアシス目当てで集まった客の中には、開店までの待ち時間に飽きて、駐車場に立つ女を買い求める者も少なからずいる。寒い日は、特にそうだ。そこで件の占い女が、まだアカと呼ばれるようになる前の少女を、薄着のまま外へ放り出したのだった。


 身寄りのない少女はオアシスで寝場所と食事を宛がわれていたので、何がしかの金を稼いでは、世話人の占い女に養い賃として支払わなければならなかった。それ以前は煙草やポルノ雑誌を売って小銭を稼いでいたのだが、体の成長に伴い、命じられる仕事も変わったというわけだ。


 日頃からオアシスの娼妓たちを見てきた少女には、その仕事に対して嫌悪感はなかったが、抵抗感は否めなかった。だからこそ、さっさと片づけてしまおうと、駐車場に出て最初に目に留まった車へまっすぐに歩み寄っていった。


 運転席をのぞき込んで、そこに女が座っていたことに、少女は驚いた。しかも、自分とさして年頃も変わらないように見えた。短い黒髪は汗に濡れて、ひどく青ざめた顔をしていた。それが、一般道から逃げ走ってきた木佐内未唯だったのだ。


 訳ありなのは、一目瞭然だ。関わり合いになる前に、そのまま立ち去ることもできた。しかし思わず、体調でも悪いのかと尋ねていた。黙って頷く未唯を茶屋のトイレに連れていき、吐かせて水を飲ませた。


 それから二人が打ち解けるまでに、時間は要さなかった。どちらも決して開放的な性格ではないはずなのに、やはり似ている点が多いからか、互いが他人とは思えなかったのだという。


 アカは詳しい事情も訊かぬまま、誰かから追われているらしい未唯を匿うと決意した。赤いクーペの処分も引き受けた。


 代わりに未唯は、大人の言うままに娼妓となる以外に、賊として独り立ちするという道があることをアカに教えた。ストラップがアカの手に渡ったのは、そのときだ。



「日本一のハイエナからもらったものだから、ご利益があるってね……。オジサンのことだったんだ、リュウって」

とおるだ」

「ミユイはあんまり自分のことは話さないけど、その名前だけは何度も聞いたよ」


 そこでアカは、頬の肉を少し緩めた。初めて見る、穏やかな微笑だった。


 思えば、崖の上から車両を落として標的の行く手を塞ぐのも、地の利のある場所へ敵を誘い込むのも、まだ〝飛龍〟が小集団だったころに狭上がよく使っていた戦法だった。未唯はそれを、アカに伝授したらしい。


 それだけではない。仲間集めや、その関係維持。未唯は賊として生きるために必要な心得を、知るかぎりアカに伝えた。どれも狭上のやり方を何年も観察してきた成果、ということだ。


 狭上は舌打ちをして、上を仰ぐ。夜明けを間近に控えた空に、自ら寄りかかる珍奇な塔が、斜めに突き立っていた。


「どうして、こんなところにピサの斜塔があるんだ」


 アカは、唐突な質問に面食らったように目を瞬かせて、「ピシャノサトー?」と訊き返した。どうやら、自分たちが「塔」と呼ぶこの建物が、イタリアにある有名な世界遺産のレプリカであることなど知りもしないらしい。


 全体、このオアシスの裏手に広がる雑草地には、奇妙な建物が多い。今はまだ薄暗く全容は定かではないが、丘を下ったところには、大きなピラミッドらしきものもあった。昨夜、アカが登って懐中電灯を振っていた城壁。地中に穿たれた土管の迷路。一昨日、狭上が捕らえられていた円筒形の穴は、煉瓦のようなもので壁面を覆われていた。いずれも、世界的に著名な遺跡を模して作られたものに違いない。


 何十年か前、まだこのハイウェイが平和だったころ、この場所はテーマパークのようなものだったのだろう。もっともそれも、アカやダイジたちにしてみれば、遺跡の時代とそう変わりのない大昔なのかもしれない。


「ねえオジサン」


 アカが、今はもう虚勢もなく、鼻にかかった声で呼ぶ。


「何でもっと早く来てやんなかったのさ……」

「妙なことを訊くもんだな。会わせないようにしておいて」

「だって、怪しいしょや。半年も経って、いきなりだもん」

「未唯は新堂とシャバで真っ当に暮らしている。つい最近までそう思っていた。もう二度と、高速道路ここには戻ってこないはずだと」

「……」

「あいつはなぜ戻ってきた」


 その問いはアカに答えを求めているというより、独り言に近かった。


 新堂のことを、もともと未唯がどう思っていたのか、狭上には確信がなかった。しかし、人生を投げ出してまで自分を守ろうとし、本当の家族になろうとまでしていた彼を、未唯が憎んだとは思えない。第一、もし嫌いだったら、遠く北国まで付いてきたりはしないし、婚約などするはずもない。未唯は新堂に劣らず、自分を曲げることのできない性質だった。


 だから、解せなかった。自分の巻き添えで新堂が重態に陥ったと知りながら、独りで逃げてきたことも、それから半年、姿をくらませたままでいることも。



 東の空が急速に明るんできた。アカも狭上も、しばし黙ってそれを眺める。


 すると、アカの手元に、小さな電光が点った。サイレントモードに設定した携帯電話が、メールを受信したらしい。左手でもどかしそうにキーを操作する横顔は、やや興奮気味だ。文面を読むと、その表情は一層大きく変化した。哀しいのか嬉しいのかはわからないが、目を細め、唇を噛み、まるで泣きそうな顔になる。


 アカはすぐに電話機を耳に当てた。例のストラップが、膝の上に揺れて回る。


「もしもしママ? メール見た。今どう……どんな感じ? ……うん。よかった。おめでとうって伝えて。こっち? ん、片づいた。けど、まだ、行けない。一度アジトに帰らなきゃなンないしさ」


 手下と話していたときとは違って、口調に威圧感がない。高校生の娘が、母か姉にでも話すような気安さがある。


「うん、いるよ。今、隣にいる」


 アカが、狭上を見ずに答えている。


 一瞬、電話の相手は未唯かと思ったが、まさかそう歳の違わない相手に「ママ」はないだろうと考え直す。アカはそのまま二、三言の会話を交わして、通話を終えた。その後も、しばらくは口を利かず、呆けたように朝焼けを見つめていた。


 狭上はその場に腰を下ろした。斜塔の傾きは、背もたれにはあまり適さない。寄りかかるのをやめて、草の上に胡坐をかく。すぐに冷たい水気が、ジーンズの尻に染みてきた。


 隣に目をやると、自然にアカの顔をのぞき込む角度になる。驚いたことに、その目には、本当に薄く涙が溜まっていた。


「ミユイに会ってみる?」


 ようやく、アカの口から、その言葉が発せられた。どこにいるんだ、と問えば、アカは東の空に顔を向けた。まだ弱々しい朝日が、その頬に当たる。


 輝きを増しつつある山の稜線に、もう一つ、塔らしきものがぽつりと影になって見えた。それはまっすぐに屹立し、白い空を突き刺していた。



●登山道 6:40


 ハイウェイとは、文字通り、高速で走行するための自動車道路であるはずだ。とするなら、今、二本の足で踏みしめている山道は何に属するのだろう。


 砂利と雑草で覆われた小道は山の斜面に沿って曲がりくねり、両脇から迫り出してくる草葉や木の枝を払いのけなければ進めない。登っている、という感覚はあるが、本当に目的地に向かっているのかどうか、木々に視界を遮られてはよくわからなかった。あるいは、どこかで獣道に迷い込んでしまったのかもしれない。


 そう疑いかけたころ、前方に人影が見えた。長い髪を横に束ねた女だ。地味な色のウィンドブレーカーと穿き古したジーンズに身を包んだ姿だけでは、すぐには判別しかねたが、軽く手を挙げて「狭上さん」と呼んだ声の調子でわかった。スズシロだ。



 ピサの斜塔の下でアカは、スナガワSAの背後にそびえる山の頂を指差し、未唯はあそこにいると言った。丘を下り、遺跡だらけの雑草原を横断するところまでは車を使えるけれども、その一角にひっそりと口を開けている登山道は、車輪を受け付けない。道は細く険阻で、頂上までは徒歩で一時間以上はかかる。それでも行くか、と、まるで託宣でも与えるかのような口ぶりだった。


 多少は脅しも含まれているかと思ったが、確かに悪路だ。昨夜までの天候不順もあって、湿り気を帯びた土も滑りやすい。


 スズシロは、隘路が少し開け、踊り場のように平らかになったところに立って、狭上を待っていた。


 登り着いて見れば、そこは辻になっていた。先へ続く上り坂の他に、その逆の方角へ下っていく坂もつながっている。そしていずれの坂も、今まで歩いて登ってきた道よりは幾分広い。割れて雑草が伸び出しているとは言え、舗装されていた痕跡がある。


「あの子ったら。登山道のほうを教えたのねぇ」


 まさしく「ママ」然として、スズシロはアカを「あの子」と呼んだ。相変わらず眠たげな目をして、ゆったりとした口調で話す。


「こっちの遊歩道のほうが、距離はあるけど、歩きやすいの。崩れている場所があるから車は通れないけどね。疲れたでしょう、狭上さん。靴が泥だらけだわ」

「かまわないさ。しかし、頂上まであとどのくらいある?」

「あそこ、見えるかしら? あの尖った屋根」


 指差す先には、魔女の帽子のような黒い円錐が、青空に向かって伸びている。


 あれが展望台、とスズシロは言い、先に立って歩きだした。口調とは対照的に、軽やかで頼もしい足取りだ。



 約半年前、アカが未唯を匿うと決めたときからの、唯一の協力者がこのスズシロだった。朝から昼まではこの山中にいて夜はオアシスに戻る、そんな生活をしばらく続けているという。未唯は携帯電話を捨ててきたから、連絡係の役も兼ねているわけだ。スズシロの後ろに未唯がいるという昨夜の直感は、間違いではなかった。


 道は、円錐形の屋根を外から囲うように、曲線を描きながら上っていく。


 いよいよ近づいてくると、足元は凹凸だらけのアスファルトから石畳に変わった。時折、道端の茂みに、野鳥かリスか、小動物の気配がよぎる。葉擦れの音、虫の声、甲高い囀りが響き合い、ひどく煩かった。


 虫も動物も大嫌いだった未唯が、果たして本当に、こんなところに隠れ住んでいるのだろうか?


 そう思う間にも、展望台は間近に迫りつつあった。高さは三十メートルくらいだろうか、円筒状の塔にひと回り大きな展望室が載り、その上に先刻から見えていた尖った屋根が据えられている。薄汚れた壁面は、土埃と落書きとで覆われ、元の色彩も定かではない。


 手前が広場になっていて、腐った木製のベンチや屑籠が散在していた。隅にあるつぶれかけのプレハブ小屋は便所らしいが、戸口が封鎖されている。これらも、行楽地時代の遺物のようだ。


 スズシロは逡巡なく、展望台へ向かって歩いていく。入口はポーチになっていて、二本の柱に庇が支えられている。展望室へ昇っていく螺旋階段の、最初の一、二段がその中に垣間見えた。


 だが案内人は、ポーチを素通りして、そのすぐ脇の壁面に嵌められたアルミ製のドアの前に立った。ドアはほんの少し、開いているようだ。


 スズシロはようやく振り返り、肩越しに狭上の顔を見る。この角度で人を顧みるのは、癖なのだろうか。


 彼女は再び前を向き、右手に軽く拳を形作ると、歪んだドアを二回、ゆっくりとノックした。さらにもう二回。それから、唇をドアに寄せ、


「開けていい?」


 少しの間があって、中から応答があった。


 スズシロが旧式のノブを回し、手前に引く。そのまま体を横にずらし、狭上に道を譲った。



 そこは用具入れのような小さなスペースだった。おそらくは三畳もないだろう。壁面が弧を描いているためになおさら窮屈だ。


 小さな通気孔らしきものはあるが、明かりを採る窓がないため、奥のほうは暗くてよく見えない。


 入口近くにはポータブルのストーブが一台置かれ、熱を放っている。漂ってくる消毒液の匂いに、血生臭さが混じっていた。


 ストーブの正面から、明らかに推奨されない至近距離に、敷布団の端が見えた。


 少しずつ、目が慣れてきたようだ。狭い空間へ無理に詰め込んだ敷布団の上には、毛布がかけられているのが判別できた。そして、敷布団と毛布の間に下半身を収め、クッションらしきものを背にして上半身を起こした女の影も。


「未唯」


 声に出して呼ぶ。と、横からスズシロが咎めるように、シッと湿った音を出して人差し指を唇に当てた。


 そこでようやく、女が腕に何かを抱いていることに気づいた。布に包まれたその物体の姿は、薄暗くてはっきりとは見えない。


 しかし、他に何があるというのだろう。


「昨日の夜、産まれたの。いいえ、もう日付は今日になっていたわね」


 スズシロが横で囁いた。



●展望台 7:00


 吹きさらしの展望室を冷たい朝風が通り過ぎ、未唯の黒髪が宙に踊る。短かった髪の毛は、しばらく見ない間に、肩に届くまでに伸びていた。


 手すりの前に立って、彼女は眼下に広がる景色を眺めている。今しがた、狭上が登ってきた山腹を埋め尽くす針葉樹林の梢、その先には広大な草原と、その中に点在するピラミッドやら万里の長城やらといった世界遺産のレプリカ。昨夜は戦場と化したその場所は、今は寂寞とした荒れ野に戻っていた。


 さらに先には、おとぎ話の絵本に出てくる城のような外観の建物が見える。言うまでもなくオアシスだ。今は空っぽの駐車場も、また夜になれば、好色男たちを乗せた車で賑わうのだろう。


 その駐車場の鼻先を掠めるように、サッポロ方面へ向かうハイウェイの上り車線が通っている。少し右手に視線を移せばスナガワSAも見え、給油所の焼け跡も見えた。


 下り車線を、豆粒のような車の一団が走り過ぎていくのは、早出のキャラバンだろう。この場所からは、どうやら、スナガワ周辺を行き来する車両の動きを把握できるようだ。双眼鏡でもあれば、人間の挙動もある程度、捕捉することが可能になる。


 ここからアカに指示を出していたのか、と訊くと、未唯はまさかと笑う。


「あの子に何か言ってあげてたのは、最初のうちだけだよ。大体、あたし、人に教えるほど、いろいろ知ってるわけじゃないし」


 産後の疲れのせいか、未唯の声は以前のように華やいだ高い声ではなく、穏やかに沈んでいた。



 アカにはもともと才能があったのだと、未唯は言う。自分よりずっと頭がいいし、度量も大きい。出会ってすぐに、そう直感したのだという。


 だから、高速道路での生き方について、自分が知っているかぎりのことを教えた。生来、赤茶けた色をしていた髪をあえて真っ赤に染め、アカと名乗るように勧めたのも未唯だった。その鮮烈な印象は、人目を引く分、揶揄や敵意の対象になる危険も伴った。が、彼女の場合、最終的にはそれが、寄る辺のない若者たちを束ねていくための求心力にも結びついたのだ。


 未唯をこの展望台に匿ってからずっと、アカは〝赤烏〟の仲間たちに知られぬよう、隙を見計らっては見舞いに来続けた。けれど最近はもう、賊のリーダーとしての彼女に、未唯が助言をすることはなくなっていた。ただ二人で頭を寄せ合って、胎児に向かって話しかけた。男か女か、母親に似ているか、それとも父親に似ているのか、と。


 子どもは、今、未唯の腕に抱かれている。この世に産まれてまだ一日も経っていない男児は、冷たい朝の空気に晒されても、かまわずに眠っていた。


「尭生に似てるでしょう?」


 狭上の視線に気づいてか、未唯は腕を傾けて、赤子の顔を向けた。


 そうだな、と曖昧に答える。新生児の顔を見慣れない狭上には、どちらとも判別がつかなかった。しかし、未唯がこれほど幸せそうな笑顔で似ていると言うなら、似ているのだろう。病院に横たわる痩せこけた男ではなく、あの少年のような眼差しの熱血漢に。


 新堂の容態を、未唯は尋ねない。腕の中の小さな生き物を愛おしそうに眺めながら、ゆっくりと体を揺らし続ける。そうしていれば、他のことは一切忘れていられるとでもいうようだった。


 手すりに肘をついて、狭上は地平線を見る。西南の方角へ、道路がまっすぐに続いている。その先には、新堂が眠り続けるサッポロの街がある。さらにそのずっと向こう、海を渡っていくつもの町を越えていけば、かつて未唯や正樹と共に走りまわっていた東名高速もあるはずだ。


 左手から差し込む雨上がりの朝日が、鬱陶しいほどに眩しい。



「怒ってる?」


 しばらく黙っていた未唯が、狭上の横顔を見上げて訊いた。


「何を」

高速道路ここに戻ってきたこと。尭生を見捨てて、自分だけ逃げてきたこと」

「自分だけじゃなかったから、逃げたんだろう。その子がいたから」


 未唯は小さく頷いた。


 運転中の車に異常を察知した新堂が降りろと叫んだとき、独りで助手席から飛び降りたのも、病院にも警察にも行かずそのまま姿を消したのも、身ごもった命を守るためにはそうすべきだと咄嗟に判断したからだ。


 彼女には新堂の他に、頼る当てなどなかった。仮にどこかに身を寄せたとしても、正樹は執拗に追ってくるだろう。一般道シャバの車には一切手を出さないという〝飛龍〟の掟は、もはや通用しない。そう悟った未唯は、その日のうちに手近な駐車車両を盗んでサッポロICへ向かったのだ。


「それしか思いつかなかったの。でも、リュウの気持ちを無にするつもりはなかったんだよ。尭生とシャバで暮らしてる間、本当に幸せだった。カンシャしてる」

「感謝するなら新堂だろ」

「両方だよ……。けど、初めはそれがわかんなくて、リュウはあたしがジャマくさくなったからポリに引き渡したんだろうって頭に来て。暴れまくって、尭生に当たり散らしたりした。ああ、それに、あのことも謝らなきゃって思ってたんだ」

「何だ」

「エビナで衝突ガチるって、ハイポリにチクっちゃったこと」


 狭上は未唯の顔を見た。


「知らなかったの? あたしが喋ったんだよ、やけっぱちになってたから」

「おまえには、教えていなかったはずだ」

「教えられなくたって……」


 未唯は笑った。その静かな笑みに、自分には狭上の考えることが見通せるという自負が滲んでいる。


――ミユイは、オジサンのことが好きだったんでしょ?


 別れ際にそう尋ねたアカの声が、不意に耳に蘇った。




「お邪魔していいかしら」


 背後から声がかかった。振り返ればスズシロが、展望台の中央に渦巻く螺旋階段から顔を出していた。その手元から、コーヒーの芳香がふわりと寄せてくる。湯気の立つプラスチックのカップが一つずつ、両手に握られていた。


 まず狭上にカップの一方を渡し、次いで未唯の前、平たい手すりの上にもう一方を置く。ただし未唯のほうは、白湯さゆのようだ。


「一度、オアシスに戻るわ。洗い物、持って行くわね」

「うん」


 未唯は子どもを抱いているので、カップに手を出さなかった。ただ温もりを求めるように、鼻先を湯気に向ける。


「あの子が怪我をしたみたいなの」

「アカが?」


 二人の女が一瞬、狭上に視線を向けたが、特に何か尋ねることはしなかった。


「何でもないって、あの子は言うんだけど。ついでに、ちょっと見てくるわね。何か欲しいものはある?」

「ううん、大丈夫」

「疲れたら、また少し寝たほうがいいわ。狭上さん、彼女をお願いね」


 スズシロはそう言うと、階段を降りていった。ほどなくして、大きなビニール袋を両手に提げて、ポーチから出ていく姿が見えた。


 わずかながら白髪の交じった長髪の頭部が遠ざかっていくのを見下ろしながら、看護婦だったんだって、と未唯が言った。


「あたしが妊娠してるって知ったら、アカが紹介してくれたの。オアシスで子どもができた人は、みんなスズシロの世話になるんだって。大抵は堕ろすほうだけど」

「おまえは」

「え?」

「いや、何でもない」


 狭上は打ち消したが、未唯は察しがいい。ああ、と、ため息のような声を漏らしてから、


「堕ろすことも考えなかったわけじゃ、ない。とりあえずハイウェイに逃げ込んだけど、それからどうしていいか、見当もつかなかったし。そう……アカに会わなかったら、あたし、産めなかったかもしれないね」


 視線が虚空をさ迷う。まだ雪がちらついていたという、そのころの自分の姿を探してでもいるようだった。


「アカはね、高速道路ここで産まれたんだって。母親は、たぶんオアシスにいた人だろうけど、あの子も詳しくは知らないみたい。物心ついたときには、スズシロが面倒を見てくれてて。産まれてから今まで、シャバに降りたことがないんだよ」

「一度も?」

「一度も。だから戸籍もない。この子と一緒だよ」


 未唯の頬が紅潮している。その腕の中で、赤ん坊がわずかに身じろぎをした。


 無法地帯で産まれた、父親のない子ども。姓名も誕生日も本籍地も記録されない子ども。だが、確かに生きている。



 狭上の脳裏に、見たこともない光景が浮かんだ。雑草を分けて駆ける小さな靴。土管のトンネルを潜り、斜めに傾いた塔をよじ登る華奢な肢体。城壁の上に弾けるあどけない喚声。


 はしゃいでいる少女は、幼い日のアカだ。そして彼女が振り向いて笑いかけている少年は、未唯が産んだ赤ん坊の、何年後かの姿だ。二人だけではない。周りにはたくさんの子どもがいる。ダイジに似た顔もある。あるいは、正樹か。



 こどもの国を、と、未唯が小さく囁いた。


「オアシスの裏にはね、『こどもの国』っていうテーマパークがあったんだって。あたしたちが生まれるよりずっと昔、ハイウェイが今みたいになる前のことだけど。変な建物がいっぱいあるでしょう、あれ全部、そのとき造られたものなんだ。トロッコとか、小っちゃな馬車とかが走ってて、子どもたちがみんな乗りたがって並ぶの。売店があって、ソフトクリームなんか売ってたりして……。それ聞いてね、アカとあたし、決めたの。もう一度、ここを『こどもの国』にしようって」

「何だって?」

「『こどもの国』を作る。この子は、一番最初の国民になるの」


 未唯の声は決然としていた。その響きが、スナガワは渡さないと叫んだ昨夜のアカの声に重なる。あまりに強く言い放つので、赤子が起きだすのではないかと思うほどだった。だが眼差しはどこか陶然として、夢の中にいるようだ。


 そう、幼い夢に違いなかった。未唯の横顔を見る狭上の胸中に、苦味のようなものが走る。


 しかし、つい先ほど脳裏に浮かび上がった光景が、苦味の中に微かな甘味を紛れ込ませた。シャバに居場所のない子どもたちのための国。ハイエナでもオアシスでもない、彼らの家。遠い昔に打ち捨てられたピラミッドや万里の長城に、その役割が果たせるだろうか。


「笑ってもいいよ」


 未唯が言った。


「夢物語だって、あたしもアカもわかってるから。でも、世の中、絶対に無理ってことはないと思うんだ。だって、あのサガミ・リュウが煙草やめられるくらいだもんね」


 狭上は頬の筋肉を緩めたが、微笑にも苦笑にもならず、舌打ちをして紛らわせた。そのクセは直ってないんだ、と未唯は独り言のように言い足した。


 言葉になる前の音声が、未唯の腕からこぼれ落ちる。赤ん坊の眠りが浅いようだ。


 初産とは思えぬ落ち着きぶりで、母になったばかりの女は子をあやす。もう、狭上の知っている少女ではない。


 冷めたコーヒーを啜りながら、何を言うべきか少し迷った。迷ったままカップを置き、ポケットから新堂の免許証を取り出す。


 赤ん坊の胸元に、それをそっと載せてやった。


「一度、その子を連れて行ってやれ」


 未唯は素直に頷いたが、おそらく生きているうちに父子が顔を合わせることはないだろうという気がした。


「リュウは、これからどうするの」

「そうだな……」

「このまま、ここにいたら?」

「ここの空気は、俺には合わない」

「だよね。そう言うと思った」


 暫時、風が止んだ。


 かつてこどもの国と呼ばれ、そしていつかまた呼ばれるかもしれない荒野が、展望台の母子を仰いでいる。朝日の眩しさも土の匂いも虫の声も、狭上は嫌いだ。だが今だけは、なぜかそれほど不快を感じない。


 帰っちゃう前に一つだけ頼みがあるんだけど、と未唯が言う。


 何だ、と訊き返しながら、その答えを何となく予想する。


「この子に、名前を付けてやってほしいんだ」


 その言いまわしまでが想像した通りだったので、狭上はつい、声を立てて笑った。



了 

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