2日目<後>

●スナガワHWO駐車場 22:00


 人差し指と中指に挟んだカードが、夜光に閃く。髪の短い、野球少年をそのまま大きくしたような青年の顔写真が、その片隅に印刷されている。


 狭上は助手席側から流れ込んでくる秋気を嗅ぎながら、胸ポケットから取り出した新堂の免許証を長いこと眺めていた。


 夜陰に紛れる黒のコンバーチブルの運転席で、狭上は独りだった。オアシスの裏口に送り届けられた後、またスズシロの手引きで客を装い、駐車場に停めた愛車のもとに戻ったのだが、そこからどこかへ移動することはしなかった。決して質のよい客層でないとは言え、一晩を通して人の気配があるオアシス周辺は、夜明かしをする場所としてはまだしもましな部類と言える。


 もう一つ、理由があった。車を離れている間に、助手席側の屋根が刃物で裂かれていたのだ。特に盗まれたものはなかったが、車中灯を頼っての被害確認には少々手間取った。


「恩に着てちょうだいね」


 切られた跡を手でなぞっていると、いつの間にか真後ろに中年女が立っていた。あの占い女だった。


 下り坂の天気を見越して早々に店仕舞いをした女がこの駐車場を通りかかると、ちょうど車上荒らしがコンバーチブルのソフトトップにナイフを振り下ろしたところだった。人気が近づいてきたのを察した犯人は、そのまま車内を物色する時間もなく逃走した。どうやらまだ子どもと言っていい歳ごろの、賊とも呼べぬケチな盗人だったらしい。おかげで狭上は幌を破られただけで済んだのだと、女は得意げに告げた。


「客の車の警備も、あんたの役目か?」

「まさか。それは自己責任でしょ。わたしが心配してるのは、うちの娘たちが勝手に連れ出されたり、意地汚い客に困らされたりしてないかってことだけよ。まあ、あなたは、そんな真似はしないわね」


 オアシスの世話人であることを、占い女はもはや隠す気もないようだった。陰気な顔でにやにや笑うと、またいらっしゃいなと言って、不夜城の裏のほうへ消えていったのだった。


 幸いガラスは割られていなかったので、さほど手の込んだ修理は必要なさそうだった。だが、そのまま走るのはさすがに寒い。それに細かい部分については、日が昇ってから再度点検したほうがいいだろう。


 狭上は運転席の背もたれを後ろに下げ、ダッシュボードの上に足を伸ばした。そして、ポケットの中から、新堂の免許証を取り出して見たのだった。



 来月までに更新されることになっている免許証。しかし、新堂がこれを持って更新手続きに出かけることはないだろう。



 昨日の昼、サッポロにある大学附属病院の一室で再会した新堂の姿は、かつて会ったときとは同一人物とは思えないほど変容していた。ひどく血色の悪い、落ち窪んだ頬。首筋の肉が削げ落ちて、皮膚が余っている。管をいくつも挿入された体からは、生気の一片も感じ取れなかった。


 名を呼んでみたが、瞼が開かれることはなかった。かつての彼であれば、ハイポリには似つかわしくない澄んだ瞳に覇気を満たして、狭上を見返してきたものだったが。


 ベッドの脇の棚には、事故に遭う前の写真が飾られていた。警察になりたてのころだろうか、板に付いていない制服姿だった。その横には甘い匂いのする花が活けられ、新堂の持ち物らしいカードケースや腕時計が置かれていた。狭上は何気なくそのカードケースを手に取り、免許証を見つけたのだった。


「尭生のお知り合い?」


 病室に戻ってきた新堂の姉は、狭上を見て驚いた様子だった。事故から半年以上も経過して、見舞いの客も途絶えていたらしい。


 彼がまだ東名高速にいたころ、いろいろと。狭上の返事に、新堂の姉は一層訝しげな顔をした。


「同僚のかた?」

「ええ、まあ」


 問われるままに名を告げると、姉は何か思い出そうとするように、「サガミさん」と鸚鵡返しにつぶやいた。化粧気のない、地味な印象だが、整った面立ちをしていた。丸みを帯びた鼻の形が、弟と同じだった。


 事故の話を聞いて気になっていたのだが、なかなか時間が取れず、今日やっと見舞いに来られたのだと狭上は弁解した。


「びっくりされたでしょう、こんなに変わってしまって」


 いくらか警戒を解いた声で、姉はベッドのほうを見やった。


 この事態に陥った原因が不審な事故であったためか、弟を訪ねてくる人物には一律に用心しているようだったが、それでもやはり話し相手に渇していたのだろう。植物状態の弟を介護し続ける苦しみを、女は精一杯抑制しながらも口にした。狭上は黙って、それを聴いた。


 新堂が中学生のとき、両親は高速道路で賊に襲われて死んだ。それがハイポリを志した理由だったということは、以前に本人から聞いた気がする。姉は必死で反対したが、弟は聞き入れなかったのだという。


「あのとき、体を張ってでも止めていれば、こんなことにはならなかったのに」


 姉は狭上の存在など忘れているかのように、弟の青白い顔を見つめて繰り返した。


「そうしたら、あんなに関わることもなかった」

「木佐内未唯」


 狭上がその名を口に出すと、姉は弾かれたように振り向いた。その目を見れば、彼女の未唯に対する感情は問うまでもなかった。


 新堂が未唯の素性を、どの程度まで姉に語ったのかは知れない。しかし、職を失い、石もて追われるようにして帰郷した弟が、身寄りのない住所不定の少女を連れてきたとなれば、事情を尋ねないはずはなかった。取り締まりの際に保護した――という事実ぐらいは、この姉にも伝わっていたのだろうか。


 若いハイポリが自ら補導した賊の小娘を庇い、施設へ送られるのを妨げた結果、職を辞さざるを得なくなったというスキャンダルは、本州のハイウェイでは既に旧聞に属する噂話だった。だが、シャバに住む一般人である姉の耳に、外部からこの話が届くことはなかっただろう。それほどに、高速道路と一般道の世界は隔絶している。


 未唯はその異世界を、新堂と共に生きる決意をして海を渡ったはずだった。


 それなのに、なぜ新堂はここに独りで横たわり、未唯の姿は見当たらないのか。


「事故に遭ったのは、実家に向かう途中だったとか」


 狭上が確かめると、


「結婚式は挙げないけど、身内だけで……身内と言ってもわたしと当人たちだけですけどね、入籍のお祝いをすることになって。その話をしに来るはずでした」


 一度でも結婚を許す気になったことを後悔していると、姉は喉から絞り出すような声で言った。


「尭生は、奇跡的に心臓が動いている状態なんですって」

「医者が?」

「ええ、でもいつ止まってもおかしくないって、事故の直後に言われて。でもそれから半年もこうして生きているんですよ。まるで、この世にまだ……」


 そこでついに耐え切れず、姉は口元を手で塞いで嗚咽を漏らした。ごめんなさい、と言って逃げるように病室を出ていくのを、狭上は見送った。


 病室がにわかに静まって、患者の微かな呼吸が聞こえてきたとき、思わず狭上は失笑した。


――未練?


 笑いを収め、横たわる青年の変わり果てた姿を見下ろすと、小さく舌打ちをした。


――こんな体になって、今さら何を。


 横っ面を張ってやりたいところだったが、肉の削げた頬を前にしてはそれもできなかった。



 おまえは未唯を守れなかったんだ、と、冷気に満たされた車の中で狭上はつぶやく。握った拳の中、免許証は右手の掌に食い込んでいた。



 雨の匂いがする。見れば、フロントガラスが微細な水滴に濡れている。屋根を破られた助手席のシートも、じっとりと湿り気を帯びていた。


 怒りを向けるべきは、しかし、新堂ではないのだ。確かに彼は、狭上との約束を守れなかった。が、それは、未唯と新堂の将来を奪った犯人が引き起こした事態だ。


 二人がシャバで身を寄せ合って生きていくことを快く思わない人物、そして爆破という手段。狭上の脳裏には、一人の男の顔が浮かんでいた。今日が初めてではない。事故の噂を聞いた瞬間から、その疑念は常に心の隅にあった。


 確証はない。が、確信に近いものがある。もし、それが正しいとするなら。



――結局、すべての元凶は、俺ということか。



 狭上の手は無意識のうちに、ジャケットの胸の辺りを探っていた。しかしそこに、かつて愛用していた革のシガーケースはなかった。代わりに取り出したものは、微かに唸りながら震える携帯電話だった。


「突然ごめんなさい」


 その声の主に思い当たるまで、一拍の間を要した。


「スズシロか?」

「狭上さん、まだ近くにいる?」

「前の駐車場だ」

「お願い、そのままお茶屋のほうに向かって。あの子を守ってあげて」


 取り乱しているというほどではなかったが、スズシロには珍しく焦っているような口ぶりだった。SAへ続く連絡通路を目で探したが、闇が濃くて車中からはよく見えない。しかし昼間に見た感覚では、正面の方角に上り車線側、左手のほうに下り車線側へ向かう通路があるはずだ。


「あの子? ダイジのことか?」

「お願い、急いで」

「上りと下り、どっちのほうだ?」


 スズシロが答える前に、大太鼓でも打ち鳴らしたような轟きが狭上の聴覚を引きつけた。


 電話のスピーカーからではない。助手席の屋根の裂け目から、雨粒と共に吹き込んできた爆音だった。


 下りの側か。


 次の刹那にはもう、携帯電話を放り出し、狭上はコンバーチブルのアクセルを踏み込んでいた。



●スナガワSA(下り) 23:30


 暗黒のトンネルを突っ切ってSAの駐車場へ出る。もう店も閉まって、外灯も消えているのに、片隅にぼんやりと明かりが点っていた。


 道路へ戻る加速車線への入口近く、寂れた給油所の店舗部分にめり込んだ状態で、一台の幌付きトラックが燃えているのだった。


 完全に炎に包まれているところを見れば、荷台の貨物に何かが引火したというような類ではない。先ほどの爆発で炎上したに違いなかった。


 運転手らしき人影は見えない。数メートル手前でブレーキを踏み、運転席の扉を蹴り開けて地に降り立った。何か予感めいたものに衝き動かされる。


 火を噴いて、店舗に突っ込んだ車両。どこかで聞いた手口だ。


 同じく爆音を聞きつけてやってきた誰かが、後ろで車を停めたようだ。だが振り返る間もなく、狭上は愛車の陰に身を滑り込ませた。


 間髪入れず、第二の爆音が大気を裂く。


 どうやら、一発目は囮だったようだ。今度はトラック一台程度の規模ではない。落雷のような衝撃波が、コンバーチブルを揺らした。ガソリンの臭いが鼻につく。咄嗟に、服の襟で口を覆った。


 鼓膜は痺れたままだったが、目を細く開ければ、燃え盛る炎が駐車場の半分近くを夕日のように照らしていた。そして、その赤光から追われるように、車道との間のガードレールに向かって駆けていく二本の足が、視界の隅に映った。


 狭上の四肢は、脳の指令を待たなかった。瞬く間に相手の背後に追いすがると、そのライダースジャケットに覆われた腰の辺りへ、体ごとぶつかっていった。


 ガードレールに手をかけるところだった男は、前に倒れ込んで鉄板部に胸を強打し、食用蛙のような声をあげた。襟首をつかんで引き寄せ、組み伏せる。抗おうとする腕を踏みつけ、喉仏と頸動脈を左手で抑えると、さほど力も入れていないのに敵は大人しくなった。


 荒い息をしながら目を見開いている男に向かって、狭上は低い声を落とした。


「狙いは誰だ。俺か、アカか」


 自分の影が男の顔を覆い、表情がつかめない。だが、喉の感触で、相手が息を飲んだのはわかった。


「いや……俺のはずは、ないか。ここは東名高速トウメイじゃない」


 左手を引きつけ、男の顎を持ち上げてガードレールに押しつける。


「なあ、正樹マサキ?」



 男の頭部を、橙色の光が照らした。ほとんどスキンヘッドと言っていいほど刈り込まれ、まだ若さのうかがえる頭皮が剥き出しになっている。


 かちりと冷たい音がして、そのこめかみに、光沢のある黒い筒が突きつけられた。


「オレらの庭で花火とは、いい度胸してんじゃねえかよ」


 振り仰げばダイジが、体を斜めにして腕を伸ばし、曲者に拳銃を向けていた。片足をガードレールに引っかけているのは、気取っているつもりらしい。まだ男の喉を締め上げている狭上を横目で見やり、


「やるじゃねえかオッサン。もう手、離していいぜ」


 狭上は黙って、左手を引いた。雨か汗か、濡れた痘痕あばた顔を歪めて咳き込む男を、立て膝をついた姿勢で真正面から直視する。相手もまた乱れた息の下、銃口でもダイジでもなく、狭上に充血した目を向けてきた。


リュウ・・・。何で、あんたが……」


 ようやく、呻くように言う。


「心当たりがあるんじゃないか」

「あの女か。未唯が、呼んだのか」

「その名前が出てくるところを見ると、やはりおまえの仕業か、半年前の事故は」

「……」

「新堂もろとも、未唯を殺す気だったのか。シャバのクルマに手を出さないってのが、俺たちの信条だったはずだがな」


「おいおいおい、オッサンちょっと待てよ。何の話だよ。このゲス野郎のこと、知ってんのかよ」


 ダイジが辛抱できずに割り込んできた。しかし狭上が相手にしなかったので、今度は銃口の先にある男の顔に額を近づけて、


「おう、ハゲ、てめえ〝熊〟に最近入った下っ端だべ。調べはついてんだ。おとなしくチトセでちまちま稼いでりゃいいのに、オレらのシマに手ェ出しやがるたぁ、身のほど知らずもいいとこだ。他の奴らも来てるんだろ、どこだ」

「あんたには、もう関係ねえことさ」


 男が不意に平静な声でそう言ったので、ダイジは目を剥いた。だがその台詞は、やはり狭上に向けられたものだ。


「もう俺はあんたの舎弟じゃねえ。口出しされる筋合いはねえはずだ」

「それはそうだ。だが筋と言えば、おまえが未唯を恨むのこそ筋違いだろう」


 正樹は唇を噛んで狭上を睨む。その傍らで、ダイジも険しい顔をしているのが視界の隅に映った。眉をひそめ、様子をうかがっているふりをしているが、実際は状況がわからず戸惑っているのだろう。


「確かに、おまえがどこのハイエナに拾われて、どこのハイウェイで得意の花火を上げようと俺の知ったことじゃない。ただし言っておくが、おまえは二重に勘違いをしている」

「勘違い?」

「〝飛龍〟をバラしたのは未唯じゃない」

「何言ってんだよ。あの女がポリ公に入れ上げて、俺たちを売ったせいで……」

「それと、もう一つ」


 狭上は立ち上がって、かつての仲間を見下ろした。正樹は瞬きもせず、口も開いたままだ。


 背中が熱い。スタンドはまだ燃え盛っているようだ。


「おまえ、アカと呼ばれている女のことを、未唯だと思っているだろう。あいつがおまえに追われて、身を守るために〝赤烏〟を立ち上げたとな。だから、こいつらと対立するハイエナの力を使って、アカを殺そうと考えたわけだ」

「……」

「だが未唯は、自分のためにわざわざ組織など作らない。まして敵がおまえなら、独りでケリをつけようとするだろう。あの性格は、おまえもよく知っているはずだ」

「どういう意味だ……」

「アカと未唯は、別人だ」

「えっ?」


 正樹とダイジが声を揃えた。と同時に、背中に当たっていた熱気が、不意に何かに遮断された。



 誰が背後に立ち現れたのか、振り返らなくとも見当がついた。


「だから、あたし、最初からそう言ってるのに」


 その声を聞いたダイジが、拳銃を取り落とさんばかりに狼狽した。


 裾の長い羽織の袖から細い肘がのぞき、黒いパンツに包まれた脚も鉄パイプのようだ。右肩から左腰へ斜めがけしたバンドで長銃を背負っている。腰に巻いた幅広のベルトにもホルスターが付いていて、上着の陰に得物のグリップが見え隠れする。


 髪は、炎に照らされて、赤というより黄金色に光っていた。


 薄暗い中にも際立つ白い小さな顔。短い眉に、やや寄り気味の丸い目、なだらかな頬。


 初めて拝んだその顔は、やはり、未唯に似ている。だが、最近のではない。まだ〝飛龍〟に入る前、東名高速・アシガラSAの物陰に独りで膝を抱えていたころの彼女を思い出させる面差しだ。


「こうも言ったはずだよ、オジサン。これ以上、あたしらの周りをウロチョロしたら許さないって」

「覚えているさ」

「じゃあ、覚悟はできてンだね」

「まあな。だが今は、俺なんかにかまっている暇はないんじゃないのか?」


 そう問いながら、素早く体をスライドさせ、逃げようとする正樹の足首を踏んだ。いつの間にか銃を下ろしていたダイジが、慌てて捕虜の後頭部に銃口を向け直す。


「〝熊〟とか言ったか、再就職先は? この派手な花火は、仲間への合図ってところか」

「……」

「新しい職場で、同僚の信頼を得るのは大変だな」


 狭上が言い終わる前に、遠くのほうで虫の羽音のような唸りが起こった。雨に紛れて距離感はつかみにくいが、音はすぐに一群の走行音となってサッポロ方面から迫ってくる。


 アカが腰に手を当てたまま、ゆっくりと正樹に歩み寄った。狭上の前を通り過ぎて、ダイジには目もくれずに、敵対勢力の放った鉄砲玉の顔を間近にのぞき込む。


下りこっち車線の油屋を燃やせば、上りのほうは手薄になると思った? 今どき、そんな古い手は流行ンないんだよ。向こうじゃ仲間が、のろぐま・・・・どもの来るのを欠伸して待ってる」


 車団はいよいよ近づいてきた。ただし、ガードレール越しにある下り車線ではなく、そのさらに先にある上り車線を逆走してきているようだ。


 アカは顔を上げると、アーミーブーツの踵で軽やかにアスファルトを蹴り、ガードレールを飛び越えた。そのまま車道を横切って、敵の攻め上ってくる対向車線へ向かう様子だ。


 ダイジも、そこで目が覚めたかのように、急いで首領の後を追おうとした。だが、「あんたは来なくていい」というアカの鋭い制止に、ガードレールの手前で立ち止まってしまう。


「あたしが何も知らないとでも思ってンの。コソコソ嗅ぎまわりやがってさぁ。そんなにあたしの下にいるのが気に食わねぇなら、とっとと失せなよ。その代わり、今度そのツラを見せたら……」


 アカは、右手をそっとホルスターのグリップに滑らせた。


「その足りない脳ミソ、塔の上から撒き散らしてやる」


 アカは言い放つと、マントのように羽織の裾を翻して分離帯を飛び越えた。



 取り残された男三人の前には、闇に覆われた上下線の車道が横たわっていた。が、上り車線は、すぐにいくつものヘッドライトに照射され、高らかなエンジン音に包まれた。四輪車主体の暴走車団が、次々と対岸のSAの駐車場へ乗り込んでいく。その数、二十台は下らない。


 対する〝赤烏〟が何人いるのか、狭上は知らない。しかし昨夜、穴をのぞき込んで笑っていたのが全員だとしたら、多く見積もっても十人程度だろう。アカがどんなに強がっても、劣勢は明らかだ。


 狭上は軽く舌打ちをして、踏みつけていた足首から踵を下ろした。正樹は戸惑いがちに見上げただけで、逃げようとはしなかった。彼には一瞥をくれたのみで、ダイジに「行くぞ」と声をかける。


「行くって、どこに……」


 問いには答えず、炎に照らされている愛車に向かって歩きだす狭上の後に、ダイジはそれでも早足で従った。


 熱を持った運転席のドアに手をかけたとき、リュウ、と再び呼ぶ声がした。振り返ると、アスファルトに手をついたまま、正樹がこちらを仰ぎ見ていた。


「仲間を見捨てる奴が、許せないんじゃなかったのか」


 対岸のSAのほうへ、顎をしゃくって見せる。


「手本を見せてみろよ」


 それだけ言うと、助手席側に突っ立っているダイジに乗れと指示し、自身も運転席へ滑り込んでシフトレバーをつかんだ。



●スナガワHWO駐車場 23:55


 あんたは何者なんだ、という問いを無視して、連絡通路を高速で駆け抜けた。助手席のダイジは、それ以上は尋ねようとせず、幌の裂け目から吹き込む雨粒に顔をしかめていた。


 艶めかしいネオンをまとった館が、前方に姿を現す。急ブレーキをかけて、オアシスの駐車場の西端から闇を見渡した。


 右手のほう、上り側のSAから続く連絡通路には早くもヘッドライトが入り乱れ、駐車場に雪崩れ込んできつつあった。その明かりの周りを、無灯火の車影が跳ねるように行き交う。乾いた銃声が、無秩序に繰り返される。


 地の利に自信があってか、〝赤烏〟は明かりを必要としないようだ。小回りの利く単車で闇から現れては消え、敵を翻弄しながら狙撃する戦法は悪くない。


 が、如何せん頭数が違い過ぎる。〝熊〟の車団は、烏たちを押しのけるようにして着実に駐車場の奥へ進んでいく。


「狙いはオアシスか」


 驚くには当たらない。あれだけの大きな賊団なら、確実な収入源がなければ組織を維持できないはずだ。チトセ周辺を縄張りにしているというが、近ごろは空港からの荷をハイウェイで運ぶ会社も少ないのだろう。その点、オアシスを手中に収めれば、カネの心配はかなり軽減される。


 助手席に小さな火花が散る。ダイジが口にくわえた煙草の先で、ライターの石を指先で何度も弾いていた。苛立たしげに、畜生、とつぶやく声。


「一本くれよ」


 狭上が声をかけると、驚いた顔をして手を止めた。しかし素直にポケットから箱を取り出し、運転席に向かって差し出す。


 狭上が左手に煙草を摘んで、そのまま黙っていると、ダイジは少し躊躇した後、ライターを差し向けて親指を弾いた。一度で、火は点いた。


 窓を開けて煙を放つと、代わりに喧噪が吹き込んでくる。横でダイジが低く唸って、湿気た煙草をダッシュボードに押しつけた。


「オレ、どうしたらいいんだよ……」

「おまえ、スズシロに俺の電話番号を教えたか?」

「え? 何の話だよ?」

「だろうな」


 教えられなくとも、この迂闊な男の携帯電話から狭上の番号をのぞき見ること自体、さほど難しくもないだろう。


 しかしスズシロは、何のために狭上に連絡を寄越したのか。いや、誰のために、と問うべきか。「あの子を守って」と、電話口で言っていた。どうも狭上には、彼女がダイジのためにあれほど切実な頼み方をするとは思えない。


 もう一つの問題は、なぜ狭上にそれを依頼してきたのか、だ。


 誰かが、狭上の経歴をスズシロに教えたからではないか。そう考えれば、オアシスの娼妓に過ぎない彼女が、スナガワの危機を予知できた理由も納得できる。背後にいるその人物が、正樹や〝熊〟の動きを監視していたとすれば。


「なあ、ちょっと。オレの話、聞いてんのか?」


 痺れを切らしたダイジが、縋るように突っかかってくる。


「どうしたらいいかって? 俺に訊くことじゃないだろ」

「だって、アカは来るなって。あいつがああ言ったら、本気なんだ。無駄だってわかってるから、他の奴らだって取りなしちゃくれない」

「だから何だ? 今さら大人しく言いつけを守ってどうなる。どうせ外されたんなら、おまえのやりたいことをやればいい」

「やりたいことって……」

「おまえは考えるのには向いてない。どっちかを選べばいいんだ。行くか、行かないか」


 ダイジは改めて、狭上のほうに顔を向けた。半開きの口を閉じると、明らかに今までと違う目つきになる。それだけで、顔全体も引き締まって見えた。


 行く、と若者は答えた。


「でもあんたは? アカは探してる女じゃなかったんだろ。もう何も関係ねえのに、どうする気だよ」

「よくわからんが、どうやらあいつが、アカを助けろと言っているらしい」

「あいつって」

「未唯だ」


 狭上は腕を天井に伸ばして、幌を留めていたロックを外した。今どき珍しい手動の屋根を押し剥がすと、細かな雨が運転席にも助手席にも降り注いだ。


 銃声とエンジン音とタイヤの摩擦音との重奏は、不夜城へ向かう道からそれて、その後方にわだかまる暗闇のほうへと進んでいた。


 オアシスの女たちや客たちが、窓から顔を出しているのが影になって見える。


「おまえの仲間、奴らをどこへおびき寄せる気だ」


 立ったまま尋ねると、ダイジも助手席で立ち上がった。それから何も言わずに、運転席に移ってきた。狭上も黙ってハンドルを譲り、代わって助手席に着いた。


 ダイジがミラーを左手でずらしながら、右手でヘッドライトを消す。


「つかまってろよ、オッサン」


 言うが早いか、急アクセルで発車した。

  


●スナガワHWO裏 24:10


 闇の中を突き進むオープンカーは揺れに揺れる。若いドライバーのハンドルさばきのせいだけではない。どうやらオフロードに入ったらしく、アスファルトの平らな地面とは違う音がした。タイヤが草を踏み、砂利を蹴散らす。


 この揺れには覚えがある。昨夜、目隠しをされて車で運ばれたときだ。あのときは大音量のヒップホップがかかっていて路面の感触はわからなかったが、ハイウェイでは珍しい大きな縦揺れを何度か感じた。つまりあの妙な大穴のあった場所、〝赤烏〟の基地は、オアシスの裏側だったらしい。


 雨交じりの風がいろいろな方向から吹きつけてくる。その風の中に、およそ一年ぶりの吸殻が消えていった。



 前に煙草を吸ったとき、狭上はまだ東名高速にいた。ちょうど今夜のような霧雨が降っていた。日本のハイウェイでは最も活況を博す盛り場、エビナSAのネオンが、雨粒に滲んで見えた。


 狭上の背後には仲間の車が数十台控え、その中にはまだ長髪だった正樹もいた。未唯はいなかった。頼りなくくすぶる煙の向こうには、敵対関係にあった別の賊団が、威嚇するようなエンジン音を立てていた。


 しかし彼らとの決戦は、中部高速警察が異例の一斉摘発を敢行したことですべてぶち壊しとなった。


 狭上が率いていた〝飛竜〟も敵方も、皆散り散りに追い立てられた。ある者は現行犯として取り押さえられ、ある者は逃走中に事故に遭って死んだ。混乱の中で、敵にか警官にかは定かではないが、撃ち殺された者もいた。


 未唯が一人で新堂に補導されたのは、そのわずか数日前のことだった。それで仲間たちは、彼女がハイポリに情報を流したのだと思い込んだ。


 だが。



「未唯じゃない」


 狭上は、オープンカーの助手席から上半身を乗り出して怒鳴った。その先には、〝熊〟のメンバーに交じって単車を操る正樹の姿があった。


「おまえらを見捨てたのは、俺だ」


 あのハゲ、オレの単車アシパチりやがった、と横でダイジが吐き捨てた。こちらを振り返った正樹がまたがっているのは、なるほど、見覚えのあるバイクだ。濡れた坊主頭が、テールライトを反射して赤く光った。



 あの日も、彼は濡れた髪を乱して振り返り、あのアマがチクりやがったんだ、と狭上に訴えた。狭上の否定の言葉は喧噪に紛れ、ついに今日まで届かないままだった。


 未唯は、何も知らなかったのだ。彼女は単独で使い走りに出かけたところを、待ち伏せていた新堂に補導された。仕組んだのは、狭上だ。決戦の日が間近に迫っていることを肌で感じたとき、せめて未唯だけは、今のうちに足抜けさせようと考えたのだ。


 本州最強のハイエナとして名を馳せ、周辺の勢力が続々と傘下に集結した結果、膨張し過ぎた〝飛竜〟は、もはや限界を迎えていた。対等の勢力を持つ敵との正面衝突は、言わば無理心中のようなものだったのだ。そうでもしなければ、遠くない将来、内部分裂を起こしたところを敵に付け入られるという、最悪の幕切れを甘受するしかない。


 狭上は、独りで、そう判断した。そして未唯には何も知らせず、新堂に彼女の身柄を託すことにした。


 新堂はハイポリという腐った組織の中で唯一、ハイウェイを一般市民が安心して通行できる場所に戻そうなどと本気で夢見ている男だった。幾度か言葉を交わしたことがある――エビナの茶屋で、向こうから話しかけてきたのがその最初だった。


 どこで聞きつけたか、そこでよくラーメンを啜っている男が〝飛竜〟の首領であるらしいと知って、単身で探りを入れに来たのだ。もっともそれ以前から、狭上は彼を見知っていた。無闇にSAを巡視したり、職務質問をしたりと、空回りし続けるさまが賊の間でも物笑いの種となっていたからだ。けれど狭上は、その青年の愚直さを厭わしいとは思わなかった。


 あるとき新堂は、〝飛竜〟のメンバーに未成年の少女が加わっていることを、狭上の前で非難したことがある。


――だったら、おまえが面倒を見るか?


 未唯は幼い時分、実の親の手でハイウェイに置き去りにされた。寄る辺もなくゴミを漁ったり置き引きをしたりして飢えをしのいでいたところを、狭上に拾われたのだった。彼女にとって〝飛竜〟は家族であり、それを奪うなら、彼女のその後の人生に責任を負うべきだ。そんなことを狭上が言うと、新堂は血が滲むほど唇を噛み締めていた。


 そこで軽々しく調子のよい返事をするような男だったら、本気で未唯を託そうとは考えなかったかもしれない。そのやりとりがあってからしばらくの後、狭上は彼を呼び出し、未唯が一人で現れる時と場所を教えた。本当に今後も彼女を守っていく覚悟があるなら、という条件と引き替えに。


 取引したのはそれだけだ。賊同士の果たし合いに関しては、新堂にも一切知らせていない。まして、何も聞かされていない未唯から漏れるはずもない。ハイポリが嗅ぎつけたのは、別のルートからだろう。今さらそれを突き止めようなどという気は、狭上にはない。



「解散は、俺が仕組んだ。未唯は関係ない」


 車は正樹のすぐ目の前へ迫ってから急角度で旋回し、同時に狭上は助手席から跳んだ。嘘だ、と音もなく動く正樹の口元へ、そのまま拳を握って突っ込んでいった。バイクごと倒れ込んだ地面から、草と泥の匂いがする。


 相手の胴に馬乗りになり、襟をつかみ上げる。仰向けに倒れた拍子に後頭部を打ったらしく、目の焦点が合っていない。とは言え地面はアスファルトでなく土だから、失神するほどではないはずだ。


「何で……」


 よだれを垂らした口が、譫言うわごとのようにつぶやいた。


 狭上は舌打ちをして、つかんだ襟首を放した。立ち上がり、脇に倒れた単車を起こしてまたがる。ライトを消して、グリップを回した。そのまま足元に正樹を残して走りだす。



 前方に、ヘッドライトの入り乱れる塊が見える。その脇を猛スピードで通過し、少し先で大きくUターンした。


 漏れる光が斑に照らす周囲の地形は、何とも奇妙だった。雑草の生い茂った地面のところどころにアスファルト敷きの小道が現れ、石の壁や木の柵もあり、そして時折、珍奇な建造物の影が垣間見える。まるで異国の城壁のような、古い塔のような。


 その壁の上に、雨天にも関わらず、大きな星が瞬く。いや、懐中電灯を使った信号だ。おそらく〝赤烏〟の一羽が、仲間に何か合図している。方向を指し示しているのだ、と直感する。


 罠か。やはり〝熊〟は、多勢に任せて怒涛のごとく侵攻しているように見えて、ある一定の方角へ誘導されている。


 狭上は遠巻きに、戦闘中の集団を追った。亀裂が入って凹凸の激しいアスファルトの道を低速でたどっていくと、エンジン音ではない、生の人間の足音が脇の草地を並走しているのがわかった。


「乗ってくか?」


 ブレーキをかけて声をかけると、足音も止まり、息切れの音に替わった。


「何しに来たのオジサン。邪魔すンなよ」

「だからこうして離れてるだろう」


 アカが草地から出てきた。左手に懐中電灯を、右手には背のバンドから外した長銃を握っている。小柄な体では、背負ったまま走るのは難儀なのだろう。


 狭上が手を差し出すと、わずかの躊躇の後に、その柄を押しつけてきた。そして懐中電灯を尻のポケットにねじ込み、狭上の肩に手をかけて、後ろの荷台へ飛び乗った。


「まっすぐ」


 不機嫌を装ったような調子で、アカが命令する。言われる前に、二人乗りバイクは闇に向かって走りだしていた。


 指示に従い、草地にはそれずに、アスファルトの小道を進む。といっても、割れ目から雑草が生え出して、決して平坦ではない。いくらか坂になってもいるようだ。荷台の上でバランスを取っているのか、両肩をつかむアカの手に込められる力が、右へ左へと移ろった。


 一瞬、古い看板のようなものが、横を掠めた気がした。するとアカが頭の上から「左、入って」と言い、狭上が従う前に、さっさと荷台から飛び降りて雑草の中に分け入った。


 後を追おうと、ハンドルを左へ傾ける。その一瞬の間に、アカの後ろ姿が、忽然と消えた。


 遠くからけたたましいエンジン音が聞こえ、ヘッドライトの交錯が近づいてくるのが見えた。


 先回りしたからには、どこかに隠れて奇襲をかけるつもりだろう。草むらに伏せてでもいるのかと目を凝らしていると、右足の裾が強く引かれた。懐中電灯の明かりが、下から射るように照らしてくる。


「早く」


 地面に穿たれたマンホールのような円い穴から、アカが顔だけ出して見上げていた。狭上は単車を雑草の中に倒して、直径一メートル余りの穴の縁に手を置き、地中に身を落とした。



 土管を斜めに突き刺したようなトンネルだった。懐中電灯の明かりは奥へ奥へと潜っていく。小柄なアカは屈むようにして進んでいけるが、狭上は長銃を身に添わせて、ほとんど這うようにして追わなければならない。


 漏れくる光だけでは地下通路の全貌を把握することはできないが、多方向に枝分かれし、かなり広大な範囲に及ぶ要塞であるようだ。そして古い。コンクリートの壁面が崩れて、石屑が足元に溜まっている箇所がある。いくつもの出口から外気が流れ込んできているようだが、それでも黴の臭いが鼻につく。


「烏というより、土竜もぐらだな」


 皮肉ってみたものの、賊たちが自分たちで掘った穴ではなさそうだ。


 やがてアカは電灯ごと振り返り、真上に地表への出口が開いている岐路で狭上を待った。その地点で、窮屈な壁面に注意しながら立ち上がると、地面からちょうど頭が出る格好になる。


 目の前に、雑草の根本が見えた。その隙から、例の騒々しい集団の、入り乱れるヘッドライトがちらちらと垣間見えた。


「来た?」


 アカも一緒に立って顔を出したが、身長が足りず、よく見えないようだった。それでも騒音で距離感をつかんだか、拳銃を持った腕を穴の上に出して、敵が近づくのを待ち構えた。


 一つの円筒に二人で立つと、ひどく狭苦しい。赤い長髪が顎の下をくすぐるので、体を回転して彼女に背を向け、身をよじって長銃の先を敵の来るほうへ構えた。


「あたしが合図するまで、勝手なことすンなよ」

「俺はおまえの手下じゃない」

「ここはあたしらの根城だ。言うこと聞けないなら……」

「来たぞ」


 アカが口をつぐみ、敵との間合いに集中する気配が背に伝わってきた。



 突如、金属の拉げる荒々しい衝撃音が響き渡った。地上だけでなく、穴の中にも反響する。


 かかった、と後ろでアカがつぶやいた。敵の車が、どうやらトンネルの出口の一つに嵌まったようだ。さらにもう二台ほど、別の穴に落ちた。うおおお、と低い悲鳴も湧き起こる。


 罠に気づいた敵軍が、動きを止めた。ライトがまとまってきて、広がっていた隊列が一点に、おそらくは首領の周りに固まり始めたのがわかる。狭上はその中核に銃口を向けた。


 アカと同時に、引き金を引いた。


 それが合図になったのだろう、烏たちが一斉に射撃を開始する。他の穴に隠れて待ち伏せていた者、囮として敵の周りを飛びまわっていた者。砲火が瞬間的に彼らの居所を知らせる。銃声とガラスの砕け散る音とが混じり、その合間に罵声が差し挟まれる。


 敵の最前列を占める数台は、これで動きを封じられた。後ろにいる他の車も前を塞がれ、まごついている。


 アカはこの機を逃さず、穴から這い出し、体を低くして駆けた。烏たちも、次々と地上に飛び出した。



 だが〝熊〟は、早くも態勢を立て直しつつあった。後列や端にいた車両は再び外側へ散り始める。身動きのつかない中心部の車からは、乗っていた賊たちが手に武器を携えて続々と降りてきた。そして車の陰から、草むらに向かって銃弾を浴びせかけてきた。穴から這い出たばかりの烏の一羽が、あっと声を上げて膝をつく。


 奇襲は成功したが、それでもまだ頭数では不利だ。形勢を逆転するには、敵の首領をつぶすしかない。どれが首領なのか、ここからでは見分けようもないが、集中砲火の真ん中にいた以上、車は動かせない状態に陥った可能性が高い。外へ出て、この銃撃を指揮しているはずだ。


 アカも、考えは同じのようだった。敏捷な足取りで敵の背後へ回り込むための迂回路を取る。狭上は穴に嵌まらないように注意しつつ、後を追った。


 しかし不意に彼女が立ち止まる――その行く手に人影が立ち塞がっている。続いて両脇にも、単車が一台ずつ付けて、ライトを再点灯する。煌々とした光に挟まれた赤い髪が、また金色に輝いた。


 正面に立つ人影が、拳銃をまっすぐに構えて一歩、彼女に歩み寄った。


「リュウ。何でだよ」


 その銃口は、アカの肩越しに、狭上の顔に向けられていた。


「ずっとあのままでよかったじゃねえか。あんたの下で、俺たちみんな、うまくやってたじゃねえか。どうしてだよ」


 正樹の声が震えていた。初めて出会ったときの、警戒心と甘えの入り混じった眼を思い出す。彼もまた、狭上に拾われるまでは、ハイウェイを野良犬のようにさ迷っていた行き場のない少年だったのだ。


「ずっとあのまま、だと? 相変わらずガキだな。そんなことができたと本当に思ってるのか」


 銃口は小刻みに揺れて、アカと狭上のいずれを撃つか、迷っているようにも見えた。


「理由を知りたいなら、教えてやる。おまえのようなガキの面倒を見るのに、いい加減、嫌気が差したからだ」


 正樹が歯を喰いしばり、同時に、銃を持つ手に力が込められるのがわかった。


 狭上は前に跳び、アカの肩を押しのけようとした。しかし雨で濡れた地面が、踏み出しのタイミングを狂わせる。手が届くより先に、銃口が火を噴いた。



 その瞬間、大きな黒い物体が、横合いから猛スピードで突っ込んできた。慌てて飛び退こうとした正樹は草に足を取られ、避け切れずに弾かれる。


 アカか狭上を撃ち抜くはずだった銃弾は空へ飛び、銃それ自体も地に投げ出された。両脇に迫っていた単車の男たちも蹴散らされた。耳をつんざくようなブレーキ音を立て、スリップしながら停車したのは黒いオープンカー、狭上の愛車だった。運転席の若者が立ち上がり、ドアに足をかける。


「よう、生きてっか、オッサン?」

他人ひとの車で無茶しやがって」


 狭上はアカの背中を草地に押しつけた体勢のまま、つぶやいた。得意げに見下ろすダイジは、全身ずぶ濡れだ。


「どいつもこいつも勝手なことを」


 腕の下でアカが唸った。狭上の手を振り払うようにして身を起こすと、車上のダイジと目を合わせる。一瞬の間が生まれた。見下ろしているはずのダイジが、急速に小さくなっていくように見えた。


「何、カッコつけてンの。ボサッとしてないで、援護しな!」


 アカはそう言うとオープンカーのボンネットを飛び越え、また走りだした。返事を忘れて見送ったダイジが、ようやく我に返って狭上に目を向ける。


「オッサン、オッサン、オレの単車アシは!」

「そっちに転がってる」


 顎をしゃくって見せながら、狭上はみたび倒れた正樹のもとに向かった。今度は立ち上がることができないようだ。大腿骨の辺りをやられたらしい。呻き声を上げてうずくまっている。


 その右手が、ほとんど無意識に、上着の内側に潜っていこうとするのを捕まえ、引っ張り出した。花火好きの正樹には似合いの玩具――安全ピンにスカルのキーホルダーを付けた手榴弾が、その手には握られていた。


 狭上はその危険物を奪い取って、ダイジに乗り捨てられた愛車に駆け寄った。元気を取り戻した若者は、既に自分の単車を探して駆け去った後だ。運転席のドアをまたぎ越える。フロントガラスに大きなひびが走り、よりみすぼらしくなった車は、アクセルを踏むと待っていたように草地を蹴って発進した。


 ヘッドライトを点ける。左側は壊れたらしく、運転席側だけが光った。その片目を頼りに、アカの消えていった闇を突き進んでいく。



 あの夜――。エビナSA付近で〝飛龍〟と敵とハイポリとの混戦の中で、狭上はやはりオープンカーを駆っていた。


 退け、散れ、と、仲間たちに怒鳴りながら、警察車両のタイヤを片端から撃っていった。逃走の時間を稼ぐため、と同時に、警察の注意を自分に引きつけるためでもあった。一斉検挙は計画外だったとしても、その霧雨の夜、〝飛龍〟という居場所を仲間たちから奪うことを選択した狭上の、それがけじめのつもりだったのだ。


 しかし覚悟とは裏腹に、狭上は逮捕されることも射殺されることもなかった。警察の人数は二つの賊団を完全に捕捉し切るには不十分だったし、そもそも、ハイエナを完全に駆逐しようなどという腹も始めからなかったのだろう。東名高速の覇権を争う主要な二賊に壊滅的な打撃を与えた、それだけでも、日頃は税金泥棒の汚名に甘んじるハイポリにしては快挙だったのだ。


 流れ弾で負った傷を、エビナのオアシスに匿われているモグリ医者のもとで手当てしている間に、決戦の場所は何事もなかったように寂れた道路に戻っていた。数日後、それを見届けた狭上はハイウェイを降りて車を手放し、一般道の雑踏に紛れ込んだ。


 もう二度と戻ってくるつもりはなかった――風の噂に、未唯の失踪を知るまでは。



 彼女とよく似た娘の赤い髪を、ようやく片目のライトが捉える。大きな石の上に仁王立ちになり、拳銃を構えた後ろ姿。その向こうにはいくつかの人影が、開かれた車のドアの陰から身を乗り出し、やはり銃を構えている。どうやら、大将同士の一騎討ちとはいかなかったようだ。


 敵側の銃口が、アカに向かって次々に火を噴く。だがアカに、身を隠す様子はない。


「スナガワは渡さない!」


 喧噪を突き抜けるような、澄んだ高い声で叫んだ。そして、まっすぐ立ったまま、一点に向かって銃を連射した。派手にガラスが砕け散るその一点にいるのが、よくは見えないが、〝熊〟の首領なのだろう。


 慣れないオフロードをロデオよろしく乗り越えながら、撃ち合いの現場へ走る。走りながら、手榴弾のピンを噛んで引く。


 アカの立ち姿が、一瞬、風に煽られでもしたように、後ろに傾くのが見えた。


 狭上は安全ピンを引き抜いた弾を、〝熊〟が盾にしている車の辺りへめがけて放り投げる。直後にオープンカーを、アカの斜め後ろへ滑り込ませた。空いた手を伸ばし、彼女の羽織の後ろ襟をつかむ。


 そのとき、敵の首領らしき男が、何事か口走ったようだった。手下たちが、不審げに射撃の手を止める。狭上も顔を上げて、その男を見た。ずんぐりとした巨躯に髭面、まさにひぐま然としている。


 狭上はその男を知らなかった。しかし、相手のほうは、そうではないらしい。古ぼけたオープンカーと運転席の狭上を併せ見て、体格に似合わぬ高めの声で吠えた。


「あいつ、リュウ……東名高速トウメイのサガミ・リュウだ!」


 言い当てられたところで、名乗りを上げる義理はない。狭上は車へアカを引きずり上げ、再びアクセルを踏み込んだ。


 背後で、爆発音が連鎖した。

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