2日目<前>

●オトエPA(上り) 14:00


 アサヒカワにほど近い停車場PA――廃墟、と言ってもよかった。アスファルトの継ぎ目からは雑草が生え、標識は倒れている。ログハウス風の便所の窓はガラスを割られ、長いこと放置されているようだ。


 よからぬ輩が溜まり場に使うこともあるのだろう、煙草の吸殻やガムのカス、空き缶などが散乱している。ハイウェイから続く側道には鎖が張られていたが、それも緩んで地を這い、たやすく踏み越えられる。


 運転席のドアを開き、人気のない停車場に降り立つ。空には重い雲が立ち込め、湿っぽい風が頬を撫でた。



 昨夜フカガワ近くで解放された後、狭上はそのまま路肩で夜を明かした。車中で迎えた朝は曇天で、鬱陶しい朝日が差さなかったのは幸いだったが、秋とは思えぬ肌寒さには閉口した。エンジンキーを回しても、エアコンは壊れて動かない。トランクから毛布を出してきたものの、たわんだソフトトップのコンバーチブルは気密性に乏しく、忍び入ってくる冷気を防ぎ切れなかった。


 午前中は、下り車線を行き着くところまで走ってみた。無論、未唯に関する何らかの手がかりを探すためだ。PAやSAには片端から立ち寄ったし、出入口ICの周辺では聞き込みもした。


「半年前ってかい? そりゃあ、見かけたとしても覚えてねえわなぁ」


 北の最果て、シベツ・ケンブチICの脇にある警備小屋にいた六十絡みの男は、悪びれもせずにそう答えた。


 だが、狭上には確信があった。もしも未唯がここを通過するのを見かけたなら、忘れられるはずはない。この時勢、小娘一人でハイウェイに出入りする車がどれほどあるものか。まして都会から遠く離れた片田舎のICに、真っ赤なクーペに乗って現れたとしたら。


 ともあれ手がかりらしきものは得られなかった――というのは、無駄足だったということではない。直感していた通り、未唯はスナガワより先へは行かなかったのだ。


 サッポロICから入り、イワミザワSAのほか二つのPAと六つのICを通過してスナガワに至った、そこで足跡は途絶える。おそらく、一般道へは戻っていない。もしまだ生きているとするなら、このハイウェイのどこかに潜伏しているのだ。それが彼女自身の意思によるかどうかはともかくとして。



 ガードレールの向こうに横たわる車道に目を向ける。昨夜の襲撃事件のこともあってか、日中だというのに他の車をほとんど見かけない。ケンブチで一度ハイウェイを降りて、朝とも昼ともつかぬ飯を食い、また入り直して戻ってくる間にすれ違ったのは、十指に足りるほどの台数だった。中の一台はハイポリの巡回車だったが、時間帯と言い場所と言い、本気で賊を取り締まる気があるとは思えなかった。


 ましてや半年も前の失踪事件を、彼らが追い続けているはずもない――。狭上は、尻のポケットから皺だらけの雑誌記事を取り出した。質の悪い紙に単色刷り、見出しも写真も活字も無駄に大きい三流誌の切り抜きだ。


 春先に出まわったその雑誌記事は、当時話題になっていたある交通事故について、出処の怪しい情報を書き立てていた。一人の若者の運転する乗用車が走行中に突如爆発し炎上、道路脇の商店に突っ込んだ――店員や客は軽傷で済んだが、運転手の若者は意識不明の重体で病院に搬送された。警察の調べでは発火の原因は明らかにされず、不安がる一般市民のために自動車メーカーが同型の製品を回収する騒ぎにまで発展した。


 それがハイウェイで起こったことならば、誰もそれを故障だとは考えないだろう。何者かがエンジンに細工をした、そうでなければ安物の起爆装置を駐車中に取り付けられたに違いない。その手の悪戯は、どこであれ珍しくない。爆発を利用して獲物やハイポリの動きを封じる戦法を、好んで用いる賊もある。


 しかし一般道の市街地で起こったその事故は、ちょうど目ぼしい芸能ゴシップを切らしていたマスコミにとって、格好のネタとなった。事故ではなく殺人事件だったのではないか、とある週刊誌が当てずっぽうで書いたのを発端に、運転していた若者の過去や周囲のことが闇雲に暴かれ始めた。


 名は新堂尭生、二十四歳。元は本州東名高速トウメイ担当のハイポリだったが、事故の五か月ほど前に退職し郷里のサッポロに移住、婚約者と同棲。事故は、二人で新堂の実家を訪れる途中に起こったという。


 だがどういうわけか、現場に婚約者の姿はなかった。それどころか彼女は、その日を境に行方不明になっていたのだ。となれば、ゴシップ誌がこの女を標的にするのは当然のことだった。曰く、


 ――婚約者M・Kは着のみ着のまま姿を消した。携帯電話は車中に残されていたが、事故の際に破損したらしく着信履歴等の復元は不可能。


 ――彼女には身寄りがなく、新堂氏と同棲する前の経歴は不明。新堂氏の遺族も彼女について多くを知らず、警察の取り調べにも、行方に心当たりはないと答えている。


 ――彼女の失踪とほぼ同時に、近所の路上に違法駐車されていた赤いクーペが何者かに持ち去られた。


 ――同日、盗まれたものとよく似た車を若い女が運転し、サッポロICから道央道ドウオウへ入っていくのが目撃された。


 つまり婚約者は事故の、あるいは事件の真相を握ったまま逃走しているに違いない、という論調で煽り立てているのだった。論拠のほとんどは伝聞で、ミステリードラマの宣伝のような誇張が随所に見られ、お世辞にも信頼の置ける記事とは言えない。しかし狭上は、そこに記載されたすべてが誇大妄想だとは考えていなかった。


 M・K――木佐内未唯ならば、エンジンキーのない車両を奪って乗りまわすことなどたやすいはずだ。何しろ彼女は、新堂と出会うまでは、東名高速を我が物顔で駆けまわるハイエナだった。それも本州の、いや全国のハイウェイにその名を轟かせた賊団〝飛龍ひりゅう〟の一味だったのだ。


 若きハイポリが職を辞し、賊くずれの少女を故郷に連れ帰ったとは、ゴシップ誌には誂え向きの茶番だ。しかし、幾度も読み直して擦り切れた紙片には、そこまで踏み込んだ内容は載っていなかった。どうやらまともに取材したのは、サッポロICでの目撃証言までらしい。当時はSAの店員でもキャラバンの運転手でも、中部日本のハイウェイに出入りしている人間なら誰でも二人の噂は聞き及んでいたはずだが、それを収集する労を惜しんだというのは、つまりさほど価値のあるネタではなかったということだろう。


 謎の失踪者は、夜の高速ダーク・ハイの深い闇に消えていった。それで終わるほうがむしろ、一般の読者には煽情的に響く、と考えたのかもしれない。



 雑誌から破り取った記事が、もう一枚ある。こちらはごく最近のもので、全国のハイウェイにある妓楼の情報を伝える、好き者をターゲットにした連載の一部だ。


 日本最北のオアシスはスナガワにあるが、周辺に新興のハイエナが出没するので通うなら注意が必要だ……としながらも、首領が若い娘であるらしいと書き添えるあたり、その危険すら劣情を掻き立てる材料にしようとする魂胆は明白だ。


 間違いなく〝赤烏〟を指しているであろうその賊団は、チトセ周辺を中心に勢力を拡大しつつある別の賊団と抗争を繰り広げていると、任侠映画評さながらに記事は書き募っていた。


 昨夜、気を失った狭上のポケットを調べた賊たちが、これらの記事を読んだかどうか、狭上は知らない。いずれにせよ奪われていないということは、連中にとってはただの紙屑に過ぎなかったようだ。



 二枚の紙片をまたポケットに押し込むと、狭上は停車場を横切って、道路脇のガードレール手前まで歩いていった。


 相変わらず、上下線とも閑散としている。いかに危険地帯とは言え、まだ日が高い。サッポロとアサヒカワを結ぶ主要路線であるからには、多少なりとも通行車両を見かけそうなものだが。


 昨日のキャラバンの走行計画を思い出す。彼らもアサヒカワ方面に向かっていたが、途中のフカガワで一般道へ降りると話していた。そしてそのわずかに手前、タキカワの近くで難に遭った。この路線には、スナガワの少し先辺りから特に危険度が増すといったような暗黙の了解があるようだ。


 ポケットの中で、携帯電話が唸った。


 あの若者に頼みたいことを、ちょうど思いついたところだ。

 



●スナガワHWO 18:30


 球形の屋根の上には、尖塔が突き立っていた。縦長の窓、桃色と水色に彩られた外装。正面玄関の両脇には、プランターが隙間なく嵌め込まれた花柱。童話にでも出てきそうな、異国の城を思わせる建物だ。


 もっとも塗装はところどころ剥がれかけていて、明るい日中であれば見るに堪えない代物だろう。プランターに生えているのも、ほとんど雑草だった。しかしこの建物は、白い太陽光とはとうの昔に決別している。闇を従え、ネオンに照らされているかぎり、訪れる客にとってここは魅惑の不夜城なのだ。


 城の前には広大な駐車場が広がっている。ファミリーカーで埋め尽くされた時代も、かつてはあったのだろう。しかし今、夕闇の中に停まっている数台の車に、チャイルドシートを備えたものはありそうもない。


 玄関前に立つと、自動ドアが開いた。今どきのハイウェイで、電動装置が無事に作動する建物は珍しい。通電が絶え、手で押し開けなければならない場合が大半だ。全国各地の高速妓楼HWOの中でも、ここは羽振りのよい部類なのだろう。


 建物の中には、甘ったるい香水と化粧と煙草の匂いが入り混じっている。一階はひと続きのホールになっているようだが、カーテンで仕切られて、幅一・五メートルばかりの通路が作られていた。天井の照明はなく、足元灯がいくつか置かれている。


 通路をまっすぐ進むと、円形のベンチに続いている。先客が二、三人。いずれも背中を丸めた中年男だ。明かりが薄くて顔や風体はよく見えず、禿げ上がった額や後頭部ばかりが目立つ。


 受付もなければ、案内係も出てこない。だが確かに、見られている気配はある。


 狭上はベンチの空いている席に腰を下ろして、脚を組んだ。開店してからまだ間もないためか、脇に設えられた灰皿には吸殻がない。周囲に吊られたカーテンを眺めると、襞の前側が奥に比べてひどく褪色しているのが目に付いた。


 それでも、訪れたことのあるいくつかのオアシスに比べれば、随分とましな部類だった。かつて長距離運転手たちの仮眠所だった部屋を利用したある地方のオアシスなどでは、扉を開けるとすぐに衝立もなくマットが並び敷かれて、生ゴミを漁る野良犬のような男たちの尻が見下ろせたものだ。


 ここはひとまず、視界を遮るものがあり、香水の匂いが漂い、それに、音楽がかかっていた。どこにスピーカーがあるものか、音は割れて曲調すら定かではないが。


 カーテンの裾が揺れた。サンダルを引きずるような足音が近づいてくる。


「初めてねぇ、おにいさん」


 女が一人、左隣に座った。ロングスカートのスリットから青白い脚がのぞいている。ラメの入った桃色の爪が、狭上の肘を摘んだ。


 他の客が振り向く気配がある。


「『スズシロ』はいるか」

「あらぁ、ご指名なの」


 女は露骨に声の調子を落とした。しかしすぐに、狭上の腕に身をすり寄せ、強烈に紅い唇を横に広げた。


「でも、スズシロはやめておいたほうがいいよぉ。お得意さんがいるからさ。あたしならフリーよぉ」

「とりあえず今日は、スズシロに会わせてくれ」


 急に冷めた顔をして、女は狭上の腕から身を離した。周りに張られたカーテンの一方向を黙って指差すと、そのまま立ち上がり、ベンチの反対側へ歩いていく。先に来たのに後回しにされていた男たちが、涎を垂らす犬のような目で近づいてくる女を見上げていた。


 待合所を後にし、女の指し示したほうへ歩み寄る。そこにはカーテンの切れ目があり、くぐり抜けると、パーテーションのような板で区切られた細い通路があった。体を斜めにして進んだ先に、ほの暗い上り階段が現れる。幾段か昇ったところで、ようやく追いすがる監視の眼から逃れた気がした。


 二階も同じく古ぼけた仕切りが立てられ、設けられた小部屋の入り口に暖簾が垂らされていた。その脇に、穴を開けたプラスチックの小さなカードが鋲で留められていて、娼妓たちの源氏名が手書きで記されている。


 耳障りなBGMが流れる中を、奥へ進んでいく。スズシロと記された表札は、通路の突き当たりにあった。


 二畳分ほどのカーペット敷きのスペース。隅に煎餅布団が畳まれ、その脇に玩具のように小さな卓袱台がある。女はそれに肘をかけて横座りし、狭上の顔を見上げた。


 座っているので体格はわかりにくいが、丸顔のせいかふくよかな印象を与える女だ。髪が長く、緩く波打って、肩を覆っている。薄い素材のワンピースを着ていたが、階下で会った女と違って襟が詰まり、肌の露出が少ない。


「待っていたわ。どうぞ、座って」


 落ち着き払った声で、スズシロが促す。


 間近に視線を合わせると、眠たげな瞼の下の眼がまっすぐに見返してくる。おそらく三十代、自分とそれほど変わらない歳であろうと、狭上は推し量る。


「ダイちゃんに言われてきたんでしょう」

「ここにいるのか」

「いいえ」

「どこにいる?」

「まだ少し早いかもね。お茶でもどう?」


 返事を聞かず、女は卓袱台の下から小さな保温ポットと茶碗を出した。血管がうっすらと浮いた手の甲を、ほのかな湯気が包む。


「常連なのか」

「ダイちゃん? そうね、よく来てくれる」


 言ってから、スズシロは狭上の顔を見て笑った。その笑い方も、なかなか堂に入ったものだ。


「意外かしら? あんな若い子が、こんな年増にって」

「わからないでもない。あいつはマザコンなんだろ」

「あら、ひどい言いようね。まあ、確かに、あれくらいの息子がいてもおかしくないけど」


 差し出された番茶は、予想に反してそこそこに美味かった。


 昼間、ダイジはメールで、日が落ちたらオアシスにいるスズシロという女を訪ねるようにと指示を寄越した。返信をしたが、それきり追伸はなかったので、ここで待ち合わせるつもりなのか、それともこの女に伝言でも託しているのか、わからない。


 他の人に知られたくない相手と会うときにはよくここに来させるのと、スズシロは言う。今日は仲間たちとの集会がある日で、終わり次第、連絡をくれるはずだ、と。その仲間というのが〝赤烏〟であることを知っているのかいないのか、表情からは読み取れなかった。


 茶を啜りながら、墨滴のようにカーペットに散った煙草の焦げ跡に目を落とす。卓袱台の下に、タールのこびりついた灰皿が見えた。吸殻がないところを見ると、スズシロ自身のためではなく、客に使わせているものらしい。


「吸う?」


 狭上の視線に気づいた女の手が、灰皿に伸びる。爪は短く切り揃えられていた。


「いい。やめたんだ」

「そうなの」


 スズシロは、物珍しそうに狭上を見つめた。格別の美人というほどでもないが、色の深い瞳と、左目の脇の泣きぼくろが色気を感じさせる。


「内地の人ね。でも東京じゃない」

「なぜそう思う?」

「さあ、話し方のせいかしら……」

「訛っていると言われたことはないんだがな」

「誰かを探しにきたの?」

「あいつから聞いたのか」

「いいえ、そんな気がしたから」


 相変わらず眠そうな顔で、スズシロは言った。その表情と鈍そうな口調に、問いの鋭さを見逃しそうになる。


 この女は知っている、と直感する。ダイジが賊の一味であることも、今の立場に不満を持って何か企んでいるらしいことも。たとえ本人が話さなくとも、彼女は容易にそれを悟るに違いない。何しろあの若者は、非常にわかりやすい部類の人間だ。


 狭上は問いに答えずにスズシロを見返していたが、彼女は気に留めるふうもなく、自分の湯呑みから茶を啜った。それから卓上の置き時計に目をやって、「そろそろかしら」と独りごちた。


「あなたのこと、どんな人なのかって思っていたけど。なんだかわかる気がするわ――」


 女がそんなことを言いかけたとき、ポケットの中で携帯電話が震えた。取り出すと、昼間と同じアドレスからメールが入っている。五分後にオアシスの裏口に出ろ、という指示だ。ただそれだけの短い文面に、誤字が四か所もある。


 裏口の場所をスズシロに尋ねる。彼女は案内すると言って、ストールを肩にかけ、立ち上がった。狭上も腰を上げ、暖簾をくぐって通路に出た。


 上ってきた階段とは逆方向へ、スズシロは歩きだす。狭上は後に続きながら、薄紫色のストールを羽織った背中に向かって問いかけた。


「何がわかるって?」

「え?」

「何か、言いかけていたろう?」

「ああ……」


 スズシロは歩きながら、肩越しに狭上を振り返った。その角度から見たときの彼女は、急に若々しく、一層艶めかしかった。


「ダイちゃんが男の人に懐くなんて珍しいのよ。でも本当は、母親だけじゃなく、父親にも飢えてるんじゃないかって。あなたを見て、そんな気がしたの」




●チャシナイPA(上り) 19:20


 こっち側はオレらの縄張りじゃねえんだ、とダイジは言っていた。スナガワから、上り車線を十分足らず走った辺りにある停車場だった。


 暗くてよくは見えないが、昼に立ち寄ったオトエPAよりも広く、アスファルトのひび割れも目立たない。隅のほうには錆びた標識がぽつりと立っていて、かつて高速バスが走っていたころの名残が見て取れる。便所の脇には何か絵柄が彫り込まれた、いびつな丸い石のオブジェが立っていた。


 〝赤烏〟の標的となるのは、主にサッポロから地方へ物資を運ぶキャラバンだ。近年の運送会社は、短距離の輸送にわざわざハイウェイを使う危険など冒さないから、大抵はアサヒカワか、それよりも遠い町を目的地としている。だから襲うなら、運転手に疲れが出て油断し始めるフカガワ辺りのほうが都合がよいのだろう。昼間走った道の空き具合を思い出しながら、狭上はそう推測する。


 もっとも狭上には、彼らがスナガワの手前で狩りをしない理由にもう一つ、心当たりがある。オアシスだ。


 一般道の風俗店が暴力団を背後に持つように、どこの地方の妓楼も大抵、ハイエナと何らかの形で癒着している。交通量の落ち込んでいるハイウェイでは、賊とは言え盗品だけで生計を立てるのは難しい。一般道にまで手を伸ばすなら他に稼ぎ口もあろうが、シャバにはシャバの裏世界があり、下手な真似をすれば大きな危険を伴う。高速道路でしか生きられないハイエナにとっては、景況のオアシスからの上納金こそ、最も安全で割のいい収入源なのだ。


 オアシスの女たちにとっても、安心して客を取るために、勢力の強い賊団の庇護を受けるのは理に適っている。客層の質を考えれば、安くはない謝礼を支払うだけの意義はあるはずだ。それに、ダイジのような男のポケットから、いくらか回収もできる。


 だからスナガワよりサッポロ寄りにあるこのPAの付近までは、運転手からすれば安全地帯なのだ。昨日行き合ったキャラバンがこの一つ手前にあるイワミザワで休憩をとっていたのは、そういう事情からだった。



「これなぁ、貝殻のカタチしてんだよ」


 オブジェの前に突っ立っていると、便所の裏で用を済ませたダイジが戻ってきて、なぜか得意げにそう言った。無人の停車場に備え付けられた便所には、今はもう、ほとんど水は通っていない。ここも例外ではないようだ。


 ダイジが煙草に点火したライターを、そのまま彫刻の前にかざして見せるが、やはり絵柄はよくわからない。しかし言われてみればなるほど、その石の輪郭は、番を右にした二枚貝を象っていた。


「で、どうだったよ、スズシロは」

「どうって?」

「いい女だったべ? 年はいってるけど、オアシスの中じゃ、あいつが一番さ。して、またいい声出すんだ、これが」


 背伸びしたがる思春期の少年のように下卑た笑い声を立てて、若者は紫煙を吐き出す。


「けど、あんま入れ込むなよ。マジになって通ったって、馬鹿を見るぜ。なんせ、あいつはオレにベタ惚れだからよ」

「へえ」

「何だよ」

「それでおまえは、あの女を頼るのか。仲間に知られたら都合の悪いようなことをするときに」

「頼るって……まあ……」


 少し口ごもった後、ダイジはまだ半分近く残った吸殻を足元に落とし、踏み消した。


「とにかく、あいつから話が漏れることはねえから、心配は要らねえよ。それより、昼間の話。クルマの」

「ああ」

「赤いクーペ、な」

「何かわかったのか」


 人が消えるのは簡単だ。特にハイウェイでは、入構したまま行方知れずになる者は引きも切らない。借金取りから逃れてきたり家出してきたりと、シャバで行き場を失った人間はここで名を捨て、SAの残飯を漁り車盗をし、あるいはオアシスで体を売る。家族が捜索願を出しても、ハイポリが彼らの身元を突き止めて保護することはほとんどない。例えばそれが富豪の息子で、多額の礼金が見込めるということでもないかぎりは。


 だが、車はそう簡単には消えない。たとえ誰かが盗んだにせよ、運ぶ途中で誰かの目に触れるはずだ。


 未唯らしき女の目撃情報はあの胡散臭い占い師で打ち止めになっているが、乗っていた車の足跡なら追えるはずだ。昼間のメールへの返信で、ダイジにそれを依頼しておいたのだった。



「知り合いのスクラップ屋がいてよ。商売はシャバでやってんだけど、ここらでなくなったクルマのことは、大抵そいつに訊きゃあわかるんだ」


 ダイジは賊団に加わる前、車盗をしてふらふらと暮らしていたころからそのスクラップ屋と懇意にしていたのだという。ハイウェイで起こる盗難件数は、積荷や運転手の所持品よりもむしろ、車体やパーツのほうが多い。足が付くことなく売り払えるシステムが存在するからだ。


 その流通経路を通じて、まさに半年余り前、それらしき盗難車がハイウェイからシャバへ流れたらしい。買い取ったのは、スクラップ屋の顔馴染みの同業者だった。その話によれば、クーペを売りに出したのはまだ少女と言っていいほど若い女で、赤い髪をしていたという。


 アカに間違いない、とダイジは断じる。


「そんでもって、Mのストラップをしてたってんだよ」

「エム?」

「あれだよ、ほら、英語のM。ミユイって、英語にするとMだよな? そうだろ?」


 イニシャルという単語を知らないらしい。少し不安そうに、狭上の表情をうかがってくる。


「ああ、Mだ」

「だべ?」


 ダイジは自信を取り戻して、鼻を膨らませる。


「それを聞いて、オレ、見てみたんだ、今日。あいつのストラップをよ。ホントだよ、今まで気づかなかったけど、確かにMって描いてあった。銀色の板みたいなのに、こう、崩したような字で」


 爪の伸びた黒い指先が、空中に筆記体の「M」を描く。


 Mから始まる女の名前など、無数にある。ダイジはすっかり満足しているようだが、アカがそのイニシャルを身に着けているからと言って、未唯と同一人物であるという証拠とするにはあまりにも弱い。


 しかし、彼が語ったストラップの形状は、狭上が忘れていた記憶の一片を瞬時にして蘇らせた。とうの昔につぶれた土産屋の、捨て置かれた売れ残り品の中から、そのアルファベットを選び、摘み上げた手。それを未唯に放り投げてやった手。いずれも狭上自身の手だった。


――あたしのお守りなんだ。これがあるから、あたしは事故らないし、捕まらない。


 未唯はストラップを誰かに見せびらかして、そんなふうに言っていたことがあったらしい。


 そのストラップを、アカが持っている。そして、未唯の乗ってきた赤いクーペを売り払ったのもアカらしい。確かに、有力な手がかりではあった。



「どうしたよ、せっかくいい情報を仕入れてきてやったのに」


 狭上の表情を見て、若者は幼児のように口を尖らせる。


「そのストラップは……」

「あん?」

「何に付いてた?」

「何って、そりゃ、あれだろ」

「携帯か」

「ストラップったら、普通そうだろうがよ」

「アカは携帯を持ってるんだな」

「持ってるさ。名義は別の名前だろうけどな。何だよ、それが何か関係……痛ぇ!」


 羽の硬そうな虫が一匹、ダイジの顔面に衝突して爆ぜるような音を立てた。腹立たしげに手で払おうとしても、既に虫は闇の中へ飛び去り、虚しく自身の頬を打つだけだった。


 未唯の携帯電話は、事故車の中で破損したはずだった。無論、後で新たに入手したとしても不思議はないが、どことなく引っかかりを覚えた。未唯は、携帯電話にストラップを付けるのを好まなかったのではなかったか。かつて彼女はそれを、バイクの鍵に結んでいたはずだ。


 狭上は体を停車場へ、その先にある道路へと向けた。車通りはない。まばらな外灯の下に、清澄な暗夜が沈んでいる。


 不思議なことに、息を大きく吸っても、排気ガスの匂いがしない。夜間の交通量がほとんどないのは全国どこのハイウェイも変わらないが、それを差し引いても、この土地の空気は新鮮に過ぎる。高架の下や両側に密生する木々の力か、開けた空に風が抜けるためか。あるいは単に、冷ややかな気温がそう感じさせるのかもしれない。どうにも、鼻の奥がむず痒かった。



 背後で、ライターの打音が聞こえた。ダイジがまた煙草に火を点けているらしい。


「オッサンさぁ。あいつのこと、どうする気?」


 振り返ると、彼は貝のオブジェに腰を預けるようにして、自分の口から立ち昇る白い煙を見ていた。


「その、婚約者だかダンナだかのところに連れてくつもりか?」

「それは未唯の決めることだ。俺は、事実を伝えに来ただけだからな」


 ダイジは眉根の辺りを少し曇らせたまま黙っていた。その表情は、初めて会ったときよりも穏やかで、より幼い印象を与えた。


「おまえはどうなんだ」

「何がだよ?」

「アカの正体がわかったら、それからどうする」

「どうするって……」


 その問題に初めて気づいたかのように、ダイジは言い淀む。要するに、気に食わない女の弱みを握ってやろうと企んだものの、その情報をどう扱うかまでは考えていなかったようだ。


 シャバにオトコがいる、ましてや元ハイポリの婚約者と知れれば、手下の中に言うことを聞く者はいなくなる。アカはリーダーの地位から引きずり下ろされることになるだろうと、彼はたどたどしく説明した。もっとも、実際にアカを失脚させたいのか、それともこのネタを本人に突きつけ、鼻を明かすだけで満足するのかは未定らしい。


「あいつを〝赤烏〟から追い出すわけじゃないのか」

「ん……まあ、オレは、どっちだっていいんだけどよ。オレに向かって偉そうなクチさえきかなきゃ」


 そう言ってダイジは、また長い吸殻を足下に落とし、踏みにじった。


 なるほどな、と狭上は口の中でつぶやく。この若者は、自分に指図する年下の娘を本気で憎んでいるわけではない。むしろ、執着している。青臭い欲求の赴くまま、彼女を屈服させたいのだ。アカの正体を知りたがっていると同時に、それが明らかになることで、アカが去ってしまうことを恐れてもいるのだろう。


 だからこうして狭上に協力しつつ、彼女を連れ去ったりしないか見張ってもいるのだ。もっとも、ダイジ本人がそれと意識しているか否かは定かではないが。


「けど、あれだな。あんたがあいつを連れ帰りに来たわけじゃねえとしたらさ」


 ふと思い出したかのような口ぶりで、ダイジは話題を戻す。


「アカは、あんたの話を聞いたのに何も言わなかったべ? 夕べから、特に変わった様子もねえし。オトコんところに帰る気があるなら、もうとっくにそうしてんじゃねえか。死にかけてるんだろ、そいつ?」

「まだ生きてるとしたら、そうだ」

「じゃあ、もうオッサンの役目は終わりじゃねえの」

「返答を聞かないことにはな。帰りたくないのか、帰りたくても帰れないのか。今、おまえたちは、他のハイエナと小競り合いをしてるだろう。敵は〝くま〟とか言ったか?」

「何で」

 知ってるんだよ、という述語を省略した若者は、闇の中で鋭く眼を光らせた。やはりポケットの中の三文記事は読んでいなかったらしい。


 狭上もその眼を見返し、答えを省いて続ける。


「そんな時期に内輪もめの種になるようなことは避けたいところだろう、首領アタマとしては。よからぬことを目論む奴もいるしな。おまえのように」

「……」

「未唯なら、それぐらいのことは考えるはずだ」


 ダイジは狭上から顔をそらすと、帽子を脱いで頭を掻きむしった。短く刈り込まれた髪は、薄い月明かりのせいか染めているのか、光沢のある銀鼠色に見えた。


「何なんだよ、それ。わかんねえ。あの女は何者だよ。あんた何を知ってるんだ」

「アカのことなら、おまえのほうが知っているだろう」


 一歩、距離を詰める。威圧したつもりはないが、ダイジは一瞬、わずかに身を固くしたようだった。


「何だよ……」

「アカの顔を見るには、いつどこに行けばいい。なるべく近くで見るには」

「ええ? どうするんだよ、今さら」

「アカが本当に未唯かどうか、まだわからない」


 ダイジのポケットの中で、携帯電話の着信音が鳴り始めた。


「この眼で確かめないことにはな。それとも、おまえが写真でも撮ってきてくれるか」

「オッサン、ふざけてんのか」

「ふざけているように見えるか」


 電話に出るためにダイジが視線を外したことで、対峙は終わった。


 かけてきたのは仲間の一人らしい。今どこにいるかを尋ねられたらしく、オアシスで一発ぶちかましてたところだと殊更下品に笑ってから、もうすぐ戻ると言ってダイジは電話を切った。その間、一度も狭上のほうを見なかった。しかめっ面をしているのは、考えているふりをしているのだろう。


「手引きをしろと言っているんじゃない。おまえは知らん顔をしてりゃいいんだ。俺も、おまえのことをチクる気はない」


 助け船を出すと、ようやくダイジは顔をこちらに向ける。


「ところでその携帯、俺の名前をそのまま登録してないだろうな?」


 そう言ってやると、慌てて携帯電話のアドレス帳を開いた。

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