名前をよんで

肥前ロンズ

名前をよんで

 セン国。

 北は大国シャン国、西はガオ共和国、東と南は海に囲まれた国。北地方では夏と冬が明確に分けられるが、南地方はほぼ一年を通して亜熱帯気候で、大陸を横断する大河・九龍川のデルタとジャングルで占められる。


 歴史史上最悪と呼ばれた世界大戦。

 それが終わった二十年後、同じ国でも気候や文化が違う南北は戦争していた。

 セン国同士の戦争と言うより、大国同士の代理戦争というのが正しい。南政府には、世界の覇者カリア国。北政府には、世界で最大の面積を誇るマトリカ連邦国。特に南政府はほぼカリアの傀儡政府であり、カリアに反発する国民も当然いた。そして、その中の過激派は統一戦線組織(抵抗軍)を形成する。西のガオ共和国など周辺他国も巻き込んだ戦争だった。

 その戦争も、十六年近くの時間をかけて、終わりを告げようとしている。



 四月。南地方は、そろそろ雨季が始まる。けれど、ここ一週間は一度も雨が降らなかった。

 ヤシとマングローブ林のジャングルと、大河の支流を汲む川の傍に、その農村はある。家の造りはとても簡単だが、市街地の近くなので、バスも通っており輸入物も入ってくる、比較的裕福な村だ。村の面積のほとんどが河川であり、平地には水田が広がっている。

 その中で広場として使われる場所には、火葬の炎が空へ向かって揺らめいていた。村人の何人かが、二胡を持ち寄って弾いている。幾度も繰り返される単調な旋律。お喋り好きな近所の女たちの声が、薪が割れる音と混じる。

「マイ、疲れてない?」

「ありがとう、トーおばさん。だいじょうぶ」

 肩まで揃えた髪をゆらし、今年十歳になったマイは力なく笑った。大きな目の下は、薄く隈ができている。村の人間よりも色の薄い肌は、いつもより青白かった。

「……あんまり、追い詰めるんじゃないよ。ミンも辛いだろうけれど――」

 トーは後ろを振り向き、息をのんだ。

「……おかあさん?」

 先ほどまでいた、ミンがいない。





 雨季が終わるジャングルに、何発も銃声が響く。

 撃たれた胸から、血は一滴も流れていない。代わりに、透明な滴がシダの上に落ちた。

 一拍遅れて、銃がシダの上に落ちる。

 兵士の碧眼の目は、落ちてしまうのではないかと思うぐらいに私を凝視していた。唇の端には、唾液が泡になって流れている。私と兵士の間は結構な距離があったが、兵士の額に汗が流れているのが見えた。

 私は、ただ兵士を睨みつけ続ける。すると兵士は、言葉にならない悲鳴をあげながら、よつんばになって森の中へ逃げていった。

 取り残された私は、撃たれた胸の穴を見た。身体にできた穴は、透明な水が生き物のようにうごめいている。それに手を当て、少ししてはずすと、左胸にあいた穴は塞がった。青色の長衣に穴が開いてしまったが、これぐらいなら後で繕える。

「……躊躇いもなく撃った割に、ずいぶん情けなかったな」

 殺すつもりで撃ったのに、死ななかった化け物がそれほど怖いか。それとも、仕返しで祟り殺されるとでも思ったのか。理由がどちらであろうと、情けないことには変わりない。

「足元で死んだふりをしている男のほうが、よっぽど度胸がある。なあ?」

「……ばれたか」

 しっかりと開かれた目は、黒い髪と同じ色だった。



 男は桜木国から来た医師だった。桜木国は東の海にある島国だ。そんなところからわざわざこの国へ仕事に来たのに、空爆で病院がなくなり、別の病院へ向かおうとして半狂乱の兵士に襲われたという。

 桜木国の人間は童顔とよく言われているが、彼の目元の皺を見る限り、青年とは思えなかった。三十代後半、と言ったところか。

「ねえちょっと。普通に歩いているけど、本当に大丈夫?」

「見ればわかるだろう」

「皮膚は塞がっても、内出血しているかもしれないじゃんか。痛くないならいいけど……」

 ジャングルの中、私の後ろをついてくる男は、下手なセン語でよく喋る。これだけ喋る三十代後半がいるのだろうか。見た目は大人でも頭は小学生。そう思ってしまうほどうるさい。

 苛立ちを含めて、荒く言い放つ。

「お前の身の上話はどうでもいい。どこまでついてくる気だ?」

 このままだと私の住処についてしまう。人間に住処の場所を知られたくない私は、「ついてくるな」という気持ちを込める。だが、後ろを振り向くと、男は丸くて大きな目を更に丸くした。おい、「言っている意味が分からない」という風な顔をするんじゃない!

「だって俺、迷子だし」

「私は村人じゃない。村を探しているなら他をあたれ。殺されるかもしれないが」

「じゃあキミに付いていくよ」

 私はこの男ののんきな返答に、怒るよりも呆れた。

「……お前、死にたいのか?」

「まさか」

 男は肩をすくめた。

「死にたくないよ。だからキミについていくんだ。キミはふしぎな力があっても、俺を殺すつもりはないみたいだからね」

 ……この男、仕草はおどけていても、声は真剣だ。

 ジャングルの中、誰もが人影を見ると、何も考えず、ひたすら撃つ。無暗に撃つ方が逆に隙が生まれる。そんな事、少し考えればわかるだろうが、考えることを放棄しないとやってられないのだろう。足元に地雷はないか、空気や飲み水には毒が含まれていないか、空からは爆弾が降ってこないか。考え始めるとキリがない。

 少なくともこの男はこの状況で、誰が自分の害になるのか見極める力はあるようだ。

「勝手にしろ」

 短く言い放って、背中を向けた。シダを掻き分け、ツタに巻き付かれた大木の根に気を付けて歩く。薄暗い樹林の視界に、眩しい光が差し込んだ。そこに広がるのは、白く眩い滝。滝の傍は、ほんの少し気温が下がった。溜まった透明な水は、雲母の砂が見える。その滝の向こうの窟が、私の住処だ。

 適当な岩に座って、男は言った。

「ところで、俺の名前はヒデキっていうんだけど。キミは?」

「ない」

「ない? 忘れたってこと? 名前がないってこと? なんで?」

 ヒデキは、矢継ぎ早に質問してくる。

 初対面でここまで図々しい奴に、答える義理はないはずだ。そう思ったのに、なぜか私は答えていた。

「この肉体自体は、人間の娘のものだ。けれど、肉体の持ち主の魂と、水の精霊が融合していて、元々の持ち主とは別人になっている」


 大陸を横断する大河の精霊と言っても、川からこぼれた雫のようなもので、私のような水の精霊はたくさんいる。古い歴史を持つ九龍川の主は、その名の通り龍神なのだそうだ。

 私は龍神を見たことはない。この知識は、私に最初から宿っていた「ほかの水の精霊」の記憶。

 元々水の精霊に、魂はない。魂を持つようになるのは、美しい女の姿をした精霊に、心を奪われた男が現れた時。しかも男が別の女を好きになると、せっかく持った魂が壊れ川に還る、ちっぽけで頼りない存在だ。その精霊が還った時、記憶だけが大河に蓄積され、私もその記憶の恩恵を受けている。


 けれど、ある水の精霊は、最初から魂を持っていた。

 魂の定義を正確に理解しているとは言い切れないが、少なくともその水の精霊は『死にたくない』と思っていた。

 戦争に使われた毒で、九龍川の支流が汚れた。大河の恩恵を受ける存在は、すべからく弱り死にかけていく。何よりも水の精霊は、水の汚れにとても弱い。川から逃れ、魂のみで空気を漂っていた時、川の付近で倒れている女を見つけた。

 まだ二十歳ぐらいだった。服が破れ、胸元が晒されていた。珍しいことではない。こういう女は、このジャングルにどこもかしこもいた。

 疲労の色が濃く、まさに死にかけていたその女は、それでも『死にたくない』と願っていた。

「互いに同じ願いを抱いていたからか、水の精霊の魂と娘の魂は融合できた。それが今の私だ」

「……魂の定義は俺にもよくわからんけど、つまりどちらの記憶もあるっていうこと? じゃあ、娘には名前があるんじゃない?」

「あっただろうな。けれど娘の『思い出』に当たるものは、大河の膨大な歴史の記憶に押し流されたのか、おぼろげにしかない。この体の持ち主だった娘の名前はわからない。おかしな話、人間の教養や知識にあたるものは覚えているが」

 知識階級の娘だったのかもしれない。農民や漁民にしては、ずいぶん外国の事情も知っているようだから。

「記憶と思い出の違いだね」ヒデキは言った。

「知識を覚える場所と、思い出を覚える場所は違うんだ。人間の記憶喪失も、すべてを忘れるんじゃなくて、知識を覚えていることは結構ある」

「そうなのか」

私が納得して言うと、ヒデキは笑顔でうなずいた。

「でも名前がないと、不便だねえ」

「不便?」

「うん、俺が話しかける時とっても不便。名前を考えよう」

 そう言ってヒデキが考え始めた。真剣に考える姿を、私は頬杖をついて眺める。

この男は、随分ゆっくりと物事を見たり考えたりするな。本当、こんなのんびりとした人間が、どうしてこんなところに来たんだろう。桜木国は、世界大戦が終わった後は、直接戦闘に関わっていないという。つまり、平和な国からわざわざ戦乱の地に来たということだ。それも、そう近くはない外国に。

何故だろう――と考えを巡らせていた時、ヒデキがこう言った。

「よし、今日からキミのこと、ミンって呼ぶよ」

 この国じゃ男にも女にも使われる名前だ。ひょっとしたら、この身体の持ち主の名前も、『ミン』だったかもしれない。それほどありふれた名前。

「それじゃあミン。少しの間、よろしくな」

 ……どうせこの男が勝手に呼ぶ名だから、こだわる必要はないか。

 あまり深く考えず、私はヒデキがつけた名前を享受した。




 水に換えた腕を振り上げ、水の刃を放つ。鋭利な水の刃は、ココナツの緑の殻をきれいに割った。穴を開け、汁が飲めるようにする。

 こうしてヒデキの食事を作るのも、七日目である。

 私は食べても食べなくても変わらないが、ヒデキは食べなければ死ぬ。なので、ジャングルに生えるココナツや、まだ汚されていない川で魚をとっていた。

「食べてみなって。食事を一緒にするっていうのは、精神衛生上よろしいんだよ?」

「食べなくても生きていけるなら、食べる必要がどこにある? 必要なのはお前だけなのだから、お前が食べればいい」

「えぇ? だってこの食事、全部ミンのおかげじゃんか」

 水の精霊は、水流を操ることも、自分の身体を水に変えることもできる。魚の群れはヤシの影に隠れる。水に衝撃を与えれば魚はショックで気を失い、腹の方を上にして浮かぶ――これは、大河の方の知識で知った、古来からの漁の仕方だ。

 ヒデキは両手でココナツを持って、汁を飲んだ。

「ミンは仏頂面だけど、優しいな。いつもいつも世話してもらってるし」

「そうか」

「きっと、村で生活したら結婚したい野郎が群がるな!」

「そうか」

「……もう少し反応をください」

「無駄口叩いてないで、さっさと食べろ」

 ココナツを置いて、ヒデキは串で刺した魚を食べ始めた。

「うう、塩が欲しい……」

「村までいかないとないな。山を越えないといけないが」

 この台詞も、ここ数日で何度口から出ただろう。だからさっさと村に行け、と最初の頃はそういう意味を含んで言っていたが、見事なまでに無視された。わざとなのか天然なのか、けれどなぜかその後の会話が続いて、今となっては、なんの意味もなく反射神経で答えていた。

 ところが、今日はその後、なにも話さない。ヒデキは黙々と食べる。

 身をきれいに食べ、骨が残った串を置いた。ミン、と私を呼ぶ声が、先ほど冗談を言っていたとは思えないほど、落ち着いていた。

「そろそろ本気で村を目指すよ」

 落ちる前の、美しく変わった葉のような炎。炎の光が揺らめくたび、ヒデキの黒く丸い目が七夕の夜のように煌いた。

「村に向かうには、川を辿ればいいんだよな」

「本当に、行くのか」

「行くよ。そのために来たんだから」

 微笑むヒデキの目じりは、いつもやさしく皺が出来ている。

「明日、ここを出るよ」

 そうか、と私は返した。

 人間には、早くここから出て行ってほしかった。それは本心からの願いだったはずなのに、ヒデキが本当に行ってしまうことに、私はとても戸惑っていた。



 水の中を漂う夢を見ていた。

 口からこぼれた泡が、水面の方へ向かってのぼる。

 温かくて、気持ちいい。水中で広がる薄絹のような陽の光を、私はぼんやりと眺めていた。そうしてヒデキのことを考える。

 最初私は、ヒデキを警戒したはずだった。

 人間の男は、出会うたびに銃を撃つ。死ぬことはないが、痛くないわけではないし、足跡をたどるように繰り返す悪意の行為に、正直辟易した。

 だが、『水の精霊』としては激しい憎悪を抱いているわけじゃない。元々、水の精霊は『死にたくない』という生存本能以外の激情を抱かなかった。

 『男』に憎しみと怒りと恐怖を抱くのは、『人間の娘』の部分だった。

 人間の娘の、唯一と言っていい記憶。八つほどの真っ青な目。または、黒い肌。唇になすりつけるように付けられ、頬に落ちた汚らしい唾液。腕や太ももに食い込む指。乳房の先や秘所につけられた痕が今も消えない。記憶を思い出すたび、死にたい、と心の隅で訴える。――あれほど死にたくないと思っていたのに、矛盾している。

 そうだ、いくつも矛盾があった。

「よくわからない存在に関わりたくない」と考える意識より、もっと、もっと深い場所で、ぬるい水の中を揺蕩たゆたう自分がいる。それは本能に近かった。

 低くなめらかな声に、ずっと心地よさを感じていたい。

 笑う時にできる目じりの皺を、ずっと見ていたい。

 鏡のように映す黒くて丸い目に、私を映してほしい。

 あの男と一緒にいたいと叫んでいる。

 その感情は果たして、どちらの魂なんだろう?



 水面に到着した泡が割れたように、目が覚めた。

 すでに日は出ていた。思わず隣を見る。

 昨日まで、固められた土の上で、ヒデキが身体を丸めて眠っていた。起きている時はいつも笑っているくせに、眠っている時の表情は硬かった。どこか苦しんでいるようにも見えた。

 でも今は、誰もいない。すでにヒデキはここを発っていた。別れの言葉は、昨日の食事の時か。あれだけですませるなんて。

 図々しく人の住処に上がり込んで、去り際は別れを惜しむことすらしないなんて、なんて薄情な奴なんだ。あんな奴、さっさと忘れるに限る。――頭で思っても、身体は思う通りにならなかった。

 三日ほど、私は山を見ていた。行為自体に、意味があったわけではない。ただ、手持ち無沙汰というか、何もすることがなかった。少し前までは、ヒデキのために魚をとったりココナツを割ったりしていたのに、急にそれをすることがなくなった。

 茂みの方から少し物音がすると、反射神経のように窟を飛び出してしまう。音の正体は大概が鳥で、たまにリスだった。見上げてくる無邪気な目。ヒデキでなかったことへの落胆。そこで、「ヒデキは戻ってくるのではないか」と期待している自分に気づき、その羞恥に耐え切れず、足を振り鳴らして動物たちを追い払う。

 ……ずっとヒデキの安否が気になっていたとは、認めたくなかった。あんな薄情な男にここまで振り回されているなんて。


 そういうことが何度か繰り返された、四日目の明け方。背中の産毛が逆立った。泡立つ両腕を、それぞれ反対の手のひらでつかむ。

 慌てて起きて山を見る。


 黒い煙。


 煙がのぼっても珍しいことじゃない。

 でもあそこは、ヒデキがいるんじゃないか?

 根拠があったわけじゃない。けれど気づくと私は、ジャングルの中を走っていた。

 流れる川の情報を聴いて、山のどのあたりで煙が上がっているかを尋ねる。窟から大して離れていない。

 ヒデキ、もしそこにいるなら、お前は一体なにをモタモタしているんだ。四日もあれば十分村に着くだろう⁉ それにここは抵抗軍地区で、お前みたいなのん気な奴がうろうろしていたらあっという間に殺され――。

 ぬめり、と足が滑るような感触が、履物ごしに伝わった。感触の正体は、血だまりだった。南政府の兵士の死体だ。目元は黒ずんでいた。多分、抵抗軍に目を潰されたのだろう。それを見て、私は怖い、というより、もう、これが現実だという感触がなかった。草で血をふき取って、私はまた駆け出した。

 走っている時、おそらく、嗅覚が消えた。硝煙の匂いも、人の血と脂の匂いも、今に降る雨の匂いも、その時にはしなかった。

 辿りついた場所は、抵抗軍の基地だったのか、窟が崩れていた。爆弾で壊されたのか。落下してきた岩盤に巻き込まれて死んだものもいるだろう。

 その入口らしき場所で、岩を覆うようにうつ伏せになっているヒデキがいた。



 ヒデキを住処に運ぶ前に、スコールが降り出してしまい、足止めを喰らった。ヒデキは意識を失っているし、身体は擦り傷だらけだ。多分この雨は彼の身体に障るだろう。スコールが止む間を狙って、私はヒデキを抱えて窟にたどり着いた。

 ヒデキが目を覚ましたのは、雨がやんで、蒼い月が出てきた時の頃だ。

 あれぇ、と舌が回らない風に、ヒデキは言った。

「なんでここにミンが?」

「第一声がそれか」

 私は呆れた。なぜこの男はこうも間抜けなのか。

 私は竹筒に入れた水をヒデキに渡した。ヒデキは両手で受け取る。指に力を込めるのも辛そうだったが、水をこぼさないよう慎重に口元に運んだ。

 見計らって、私はヒデキを発見した時のことを説明した。

「手榴弾に巻き込まれたようだ、お前は。どういう状況だったかわからんが、五体満足で済んでよかったな」

「……ああ、そうだ。抵抗軍の野戦病院にいたら、政府の兵士に見つかって投げられたんだっけ。……なあ、看護兵の少年がいたと思うんだけど」

「肉片が散っているだけだった。後はわからん」

 ヒデキは視線を下にやって、そうか、とか細い声で答えた。

 ……本当は、それらしい死体があったけれど、それを伝えてもどうしようもないだろう。

「また、助けられたな。ありがとう」

 顔を上げないのは、疲労と落胆した顔を見せたくないためか。無意味な行為だ。落ち込んでいると言っているようなものじゃないか。

こんなことになるのは、この国に来る前からわかっていただろうに。

「もう、人助けはやめておけ」

 こぼれるように、その言葉が出た。

 私は、ヒデキを見つけて、生きているとわかって、本当に安心した。それまで、ずっと緊張していたのだろう。

 死んでいたらどうしよう。――どうしようもない。私に死者を蘇らせることなんてできやしないのだから。

 死んでいたらやだ。死んでいないで。生きていて。

 ……知人が死ぬ恐怖を、『私』は初めて知った。

「川から聴いた。お前は、誰に対しても平等に治療を施しているんだろう。極端な思考に走る奴らからしたら、許せない行為だ。それだけでも狙われやすいのに、桜木国人の顔は、ファグム人と間違えられてもおかしくない」

 よく、抵抗軍の野戦病院にいて無事だったものだ。桜木国に一番近い、大陸の国木国ファグム。その兵士たちがいる外国軍は、南政府側の軍だ。その評判は住処に引きこもっている私にも届いている。センの女たちを慰み者にするだけじゃなく、膣に木の杭を打って殺したとか。「抵抗軍と関わりあり」と、証拠もなく村一つを残虐の限り破壊したとか。噂は噂にすぎず、真実かどうかはわからない。だが、嘘なのか真実なのかはこの国の者たちには関係ない。奴らに対して抱いているものは、憎悪なんて生ぬるい感情じゃないだろう。もっともらしい理由が欲しいのだ。同じ大陸にあるファグムへの憎しみは、カリアへのものとは違う怒りを伴っていた。

 ファグム人とよく似た顔の桜木国人。抵抗軍じゃなくても、センの人々に勘違いされ、殺されてもおかしくない。

「お前がとばっちりを受ける必要はない。この国から出てい――」

「……その木国ファグムの人たちを、俺たちが虐げてきたんだよな」

 ポツリ、とヒデキが言った。

「もっと言えば、二十年前ぐらいは、この辺の国の人たちを虐げてきたんだ」

 二十年前の世界大戦。小さな島国の桜木国は、マトリカ連邦を打ち破り、大陸内では勝者だった。軍事力を誇る国が、他の国を支配することは不思議なことではない。現に、今だってセンは大国に支配され続けている。桜木国を憎むものも、この国の中にいないわけではないだろう。今は昔のことを振り返られるほど、余裕がないだけで。その桜木国は、大戦でカリアに負け、今はカリア側の国という立ち位置にいる。

「桜国にいた木国ファグムの人たちが、どんな扱いを受けていたか。全部知るわけじゃなくても、俺は助けることもしなくて、間違っているとも言えなくて、見ているだけだった。俺たちほど人でなしはいないって思ったのに。木国ファグムの人たちは、センの人たちを。……センの人たちは、ガオの人たちを」

 西の国、ガオ共和国。元々はガオ王国だったが、クーデターにより、王家を追放しカリア寄りの政府が誕生する。それを気に入らなかった北政府は、ガオを蹂躙した。多民族国家であるセンにも、多くのガオ人が住んでいる。抵抗軍は、彼らを見つける限り虐殺した。

 ――全部、『人間の娘』の知識だ。

「我にかえる前に、あっという間に、誰もが加害者なんだな。……だから、『俺たちだけじゃない、他の奴らもやっていた』って、言い訳が出来てしまうのかな」

 俺はな、とヒデキは言った。

「国が無条件降伏を引き受けて、それからずーっと戦争しないって約束させられたんだ。だけど、ずっと、俺の頭の中は戦場の中だ。ずーっとぼんやりしていた。あれから二十年しか経っていないのに、俺はすっかりおっさんになっちまった」

 ゆっくりと話すようでいて、言葉に途切れがない。息をすることも忘れているぐらいに喋る声は、硬い。

 ヒデキは緊張している。私に、他の人に明かしたことのないことを、話す気なのだ。

「治療なんてできるわけがない。物資もすでに尽きて、本部からの連絡もなくて、腹がすいているなんて生易しい渇きじゃなくて。それでも戦場だから、当たり前に死にかけの怪我人がいる。そんで、一人がいったんだ。『俺たち全員で、あいつらを喰おう』って」


 その言葉の続きは、もう、聞いてはならないと、頭の中で何かが警告した。

 切れるような息とともに、あのな、とヒデキは言った。


「俺は、死んだ仲間を、」

 言いかけたヒデキの唇を、私は手でふさいだ。なぞったヒデキの唇は薄く、岩肌のように冷たかった。なのに、指の隙間からこぼれる息は、とてもあたたかい。

 生きている人間の、吐息だ。

「もう、やめて」

 私は懇願した。だれかに懇願する事なんて初めてだ。それをする声も、自分の声とは思えないぐらい、柔らかかった。

「そんなこと言われても、私にヒデキの気持ちはわからない。共感できない」

 何が言えるだろう。私には、ヒデキの苦しみがわからない。生きたいと思うのは、魂あるものには当然のことではないのか? 死にたくないと思い、すでに死んだ肉を食べることは悪いことなのか? 生きていないのであれば、何をためらう。生きていたイモを掘り出して喰うより、わざわざ殺した魚を喰うよりいいじゃないか。――死にかけの娘の魂を喰らった、死にかけの精霊の行為と、何が違う?

 ……そんなことを尋ねても、ヒデキを傷つけることしかできないだろう。

「ずっとひとりだったの。だから、ヒデキの欲しい言葉がなんなのか、わからない。……嫌われる言葉しかみつからない」

 涙が流れる。悲しいわけじゃなかった。

 この人の痛みを、私は理解できないのだろう。この人に、私のことがわからないように。その事実に、涙を流した。

 でも。

「わたし、ヒデキに嫌われたくないわ」

 嫌われることを怖がることも、初めてのことだ。

 ゆっくりと、自分の唇とヒデキの唇を重ねる。

 傷だらけの短い指が、私の髪を梳いた。合図のように、後頭部にあてられた手と、腰を掴んだ手の力が、ゆっくりとこめられる。その力は、決して乱暴なものじゃなかった。

 夏の太陽に暖められた水のように、心地よいなにかが、身体全体にじわじわと湧き出る。

 もう言葉は、いらなかった。



 一か月が過ぎた。この時期になると、セン国の南は、雨季から乾季へ移る。肌にまとわりつくような湿気も、少しずつ減っていく。人間には過ごしやすい時期だ。

そろそろだな、と私は思っていた。

「……何見てるの?」

 今朝からずっとヒデキは私を見ていた。

「あ、ごごめん!」

 別に見てもいいのだが、魚を食べる時もこちらを見ているから、ボロボロ身が落ちている。

「……そ、その。最近、魚食べるね?」

「そうね。食べるわ」

「ココナツも、飲むね?」

「飲むね」

「……言葉遣いも、ずいぶん柔らかくなったね?」

「なったね」

 ……一応、変化に気づいているんだな。まあ、気づかないほうがおかしいぐらい、変わったのだろうけれど。

「だって、村へ行くんでしょう、ヒデキ」

「うっ、それは」

「だったら、『人間の』生活の予行練習ぐらいしようと思ったの」

「……え?」

 ヒデキが目を丸くしてこちらを見る。真正面から見つめられる方が気恥ずかしい。

「ついていくよ。村でもなんでも」

「え……えええ⁉ いいのぉ⁉ 本当に⁉」

 ヒデキが驚きのあまりのけぞって立ち上がった。かと思ったら、落ち着いた声でこう言う。

「……ミンにとっては、この窟にいた方が、いいかもしれない」

「でも、ヒデキは村に行かないといけないんでしょう」

「人間は、好きじゃないんだろう?」

「むしろ、簡単に『好き』と言える方に問題があると思うわ。私が他の男と浮気してよろしいの?」

「よろしくありませんっ‼」

 良かった即答で。ちょっと胸をなでおろす。

「移動するのにちょうどいい時期になったし、それに、お腹が重くなる前に動いた方がいいだろうし」

「……は? 『重くなる』?」

「多分ね、妊娠した」

 ……ジャングル中に、叫び声が響き渡った。

 泡くってヒデキが無意味に腕を振り上げたり膝を上げたりしている。

「ななななんで⁉」

「なんでって……心当たりがないとは」

「言わないけど! じゃなくて、まだ一か月で、え、ていうか」

「生理の方は信用ならないけれど、水の精霊としては、自分の身体に別の『何か』があったら異変に気付くというか。初めてだけど、知識ではそうだって言っているし」

「知識⁉ 知識ってなにさ⁉」

「水の精霊には私以外にも、人間の男と子をなす例があるから」

 そう言うと、ピタ、とヒデキが動きを止めた。


「ほら、あそこに祠があるでしょう。あれは、水の精霊を祀っているの」

 元々遺跡があった場所なのか、ところどころ石造物が立つ草むら。そこには、簡単な屋根と柱で作られた祠が点在している。線香の煙が立っていた。

「なんか、桜木国みたいだ」

「桜木国にもあるの? 祠」

「あるよ。なんか、すごくなつかしい……」

 ヒデキが目を細める。

「祠があるってことは、伝説でもあるのか?」

「あるよ。水の精霊が人間の男に見初められて、結婚した話」

「へえ。俺たちみたいだな」

「でも、男は人間の女が好きになって、ふられた水の精霊は魂を失うんだけどね」

 そう言うと、笑っていたヒデキが石のように固まった。

 最初はちょっとからかうつもりで言ったのだが、はた、とその『終わり方』も他人事ではないことに気づく。

「大抵の水の精霊は、そうやって終わったわ」

 水の精霊が人間の男と結ばれる話は、少なくない。けれど、大体は男が別の女を愛するようになり、男が精霊を疎ましくなる。男に愛されたことによって魂を手に入れた水の精霊は、男の愛を喪うと同時に魂を失い、水へ還る。最後まで添い遂げたものはほんの僅かだ。

 私の場合は、ヒデキに出会う前に魂を持っていたから、本当にそうなるかはわからない。けれど、ヒデキを喪って、生きていくことが想像できない。


 子どもをなしたのも、あの窟を出たのも、この人を繋ぎ止めたかったからだ。

 今までの自分を変えてまでも、この人の傍にいたかった。

 少し前まで一人が当たり前だったのに、あの日々が遠い昔に思えてしまう。

ずっとこの人と一緒にいたい。『ずっと』なんて、存在しないことは知っているのに。世の中の道理を曲げても、この人に執着したいと思っている。


 私は、ヒデキの手を握る。

 ヒデキも、私の手を握り返す。

「ところで、生まれた子もなんかふしぎな力を持つの?」

「私の肉体自体は人間の娘だから、多分持たないと思う。ふつうの子だよ」

「そっか。楽しみだな」

「……うん」

 大きくてあたたかい手だと、思った。

 この人の熱を、自分の身体に取り込めたらいいのにと、思った。





 ◇


 南政府の拠点地である市街地フォレヴィル。その近隣の村に住み始めて、十一年。

 娘のマイが生まれて、十年が経った。

 朝ごはんは、いつも村の食堂で済ます。私とマイは、村に来て初めてできた友人のトーと一緒の卓子で食事をとっていた。

「今度のケンカはなんなの?」

 トーが、これ見よがしにため息をついて言う。隣にいるマイの前で原因を言うのも気まずいが、トーはそんじょそこらの男よりも腕っぷしが強くて威厳ある。逆らって無視することは出来ない。母のような友人なのだ。

「だってこの子、勝手に私の髪飾りを使って、無くすから」

「無くしてない! どっかいっちゃっただけ!」

「あんたたち、平和だね……」

 もう一度、彼女はため息をついた。これ以上巻き込むのは申し訳ないので、そろそろ喧嘩の着地点を決めることにする。

「あれ、ヒデキが買ってくれたものなんだけどなあ。……ヒデキ今、フォレヴィルにいるし。買い物がてら別の物買って貰おうかしら」

「じゃあ私もついてく!」

 そう言って、マイは食堂から出て行く。家に帰って、準備をするつもりなんだろう。

「……もうケンカ終了?」

 トーの言葉に、私は肩をすくめる。娘とは些細なことでケンカすることが多いが、ヒデキのおだやかな性質を受け継いだマイは、基本的には明るく単純だった。癇癪を起しても、すぐに機嫌を直す。

「たぶんね、あの子寂しかったんだと思うよ。ヒデキ先生はなかなか帰ってこないし。あれぐらいになると、娘にとっての母親はライバルみたいなものだからねえ。素直に言えなかったんでしょ」

「そういうもの?」

 まだ十歳だと思っていたけれど、娘の心持は既に妙齢の女性になっているのだろうか。一番近くにいる私でもそう思うのだから、ヒデキはもっと幼いように思っているだろう。

 ここ二年、激しかった抵抗軍と政府軍の銃撃戦も、ほとんどなくなった。南政府の勝機は限りなくゼロに近くなって、南政府を支配していたカリア軍が、次々とこの国を去っていく。そんな中、街の病院は今この国を出られない外国軍の人々で溢れていて(抵抗軍に殺されるかもしれないからだ)、ヒデキは医者として頻繁にフォレヴィルへ足を運んだ。


 少しずつ戦争が終わる。

 けれど、上澄みの水は透明に見えても、底はヘドロのような憎悪と行き場のない敵意が常にうずまいている。


 轟々と、戦闘機の音が、聴こえてきて。

 フォレヴィルの昼の空から、爆弾が降って来た。


 何もかもが唐突だった。

 落ちた場所は、国会議事堂。『宮殿』と称された、南政府の高位にいる人々がいる建物。

 真っ白になった街。飛び散る建物の破片。龍が唸ったように、とどろき渡る音。

ヒデキは、壊れた建物の下敷きになって、意識を失った。




 私たちが病院にたどり着けたのは奇跡的だったのだろう。

 病院の中は沢山の患者がいて、一つのベッドに三人が寝ているなんていう状態なのに、ヒデキの部屋は個室で、恐ろしいほど静かだった。ただ、私の聴覚が働いていなかっただけかもしれないけれど。

 顔、胸、太もも、両腕を覆う包帯。身体のあちこちに残った、痛々しい圧迫痕。それを見て、悲鳴を上げることすらできなかった。

 病院のベッドで、彼が目を覚ましたのは、深夜の頃だった。

「……ミン」

 雲が切れ、ヒデキの顔に月明りが差し込む。

 掠れて、気を付けないと聞き取れない声だった。

『今は意識を取り戻せても、何日か後に死に至ることがあります。覚悟してください』と、お医者様方に言われた。

 ヒデキと出会って、一人じゃなくなった時、知ったことは「言葉が一番嬉しい」ということだった。言葉は見えないし、形も重みもない。抽象的で曖昧なものばかりが溢れているのに、「愛している」という言葉が、とても好きになった。誰かに、心を込めて名前を呼ばれることが、幸福であることを初めて知った。

 もう、この声を聴くことはないかもしれない。口腔も傷だらけで、喉だって枯れている。わかっていても、私はワガママを優先した。もう言葉を交わすのも最後かもしれないし、ヒデキの指は骨折して筆記も難しそうだから。

「……もし」

 昔は、なんて図々しい男かと思った。

『ついてくるな』と言ってもついてくるし、『食べる必要がない』と言っても勧めてきた。

 なのに、一度も私に無理に求めてくることはなかった。いつだって私を気遣ってくれた。ヒデキが他の女と一緒にいるのを見て嫉妬するのも、娘やヒデキに対してままならないことで怒るのも、ワガママを通すのも、常に私だった。

 そして、今もそうしようとしている。


「もしヒデキが死んだら、私も死ぬよ」


 怒られる、とわかっていて言った。

 十年も一緒にいて知っている。「あなたが死ぬなら私も死ぬ」なんて言葉は、この男にとって一番嫌いな言葉のはずだ。それでも、言わずにはいられなかった。

「水の精霊が、男が愛することをやめて消えるのなら、愛する男が死んだ場合も、当てはまると思わない?」

 これも、添い遂げたことになるのだろうか。誰も彼もがいつかは死ぬ。相手の命が喪うことは、愛を喪うことと同じじゃないのか。

 この人に聞きたい。お願い、答えを教えて。怒られていいから。なんでもいいから、言葉が欲しい。

 そうか、とヒデキは言った。もう、笑顔をつくることもできないようだ。けれど、私の目には、いつものような笑顔が映っていた。

「すごく、ぜいたくだな」

 そして、私が思っていたことと反対のことを、ヒデキは言った。


「うれしいな……」




 四日間、ヒデキは生きた。意識を取り戻し、これからやるべきことを人々に伝えて、そしてまた意識を失う。水面に浮かんでは消える、泡沫のように。

 私はずっとヒデキの傍にいた。時折手を握りしめ、髪を撫でた。そうすることしか、出来なかった。

 そうして五日目の朝に、ヒデキは息を引き取った。



                   ◆


 ヒデキの遺体が、村で焼かれて。

 私は、川へ向かっていた。

 裸足で歩く道ならぬ道は、地雷が埋まっているかもしれない、と考えることもなかった。


 あの人は、最後の最後に、私に「愛してる」なんて言わなかった。最近は病院に通っていて一緒にいるときは必ず言ってくれたのに。窟にいた時だって、別れの言葉は淡泊だった。別れ際には、あの人は何も言わない。まるで、「また会える」なんて確信しているように。

 私も死後に縋りたかった。それなのに、どうして死ねない。

 叫び声のような嗚咽とともに、涙が流れる。私は堪えきれなくて、膝をついた。悲しいのか、怒っているのか、自分でもわからないまま右手で地面を殴る。

 もう会えない。私を呼んでくれる声も、言葉も、絶対に聴くことはない。笑顔も見れないし、あの黒くて丸い目と合うこともない。

 わかっていたはずだった。覚悟してくださいって言われていた。でも、全然理解していなかった。

 だって、一緒に死ねると思っていたの。

 腕を動かすことも出来なくなって、私はそのまま地面に寝転んだ。叫びすぎて、息をすることすら苦しい。

 仰向けになると、空が見える。戦争が始まる前は、マングローブ林や、ヤシなどの樹冠で覆われていた。空なんて見えるはずがないのだ。見えるのは、毒でここら一体の樹が枯れてしまったから。大国が、反発する地元の、ジャングルのどこから来るかわからない攻撃を恐れて、隠れる場所を失くそうとした。そうして、食糧の恵みも、水の恵みも、大河と樹林の恩恵を受ける生き物の命を根こそぎ奪った。

 今は、申し訳程度に植えられたゴムノキの、木漏れ日が鬱陶しい。腕で顔を覆う。キラキラと、純粋な光をこぼす葉。この木は、元々この国にはなかった種なのに、木を植えて元通りにしたつもりでいるの。それで、『なかった』ことにする気なの。

 抵抗軍が埋めた地雷で、カリアの兵士の命が散った。仕返しに、今度はカリア軍がセンの人間を殺す毒を振りまいた。そう言った報復が重なる度、屍は乱雑に積み重ねられてゆく。何もかもを奪いつくして、相手に仕返しされないよう必死に威嚇するくせに、ずっと怯えるのが人間。見えるはずのない空が、まぎれもない証拠だ。ここまで奪う必要もなかったはずだろう。奪う分だけ、奪われたくないと恐怖するぐらいなら、早く引き返せばよかったのに。

 結局、兵士が逃げても、飛行機が遠ざかっても、憎しみが消えることも、人を疑う心から解放されることもない。表面上「終わった」ことにしたって、簡単に新たな火種が生まれる。

 もういやだ。もう、終わりにしたかった。

 私はだるい身体を起こして、膝をついたまま手を伸ばす。

 大河の支流である川。私が生まれた場所。

 激しい川の流れが地面の砂を巻き上げ、茶色のように見える水。掬った水は、時間が経つと砂と水の二層に分けられる。砂で浄化された水はとてもきれいだ。そのことを知っている外国人は、どれだけいるだろう。

 そう思いながら、重心を傾ければ、頭から川へ落ちようとして――。




「――おかあさん!」



 私を呼んだ声が、叫ぶように響いた。

 腰を抱えるように抱き着くのは、大人より高い子どもの体温。

「……マイ」

 シャツにできたしわ。娘はそこにうずめた顔を、ゆっくり上げた。

丸くて真っ赤に染めた頬に、涙がつたっている。

「おかあ、さん、どこ、いくの」

 小さなしゃっくりを挟みながら、一文字ずつ話す。

「いかないで。おかあさんまでいなくなっちゃ、やだっ……」

 紙を丸めたような泣き顔に、私は思い出した。

 おぼつかなくて歩き始めた頃は、よくヒデキと一緒にマイの手を握った。小さかったので、包んだという表現が正しいかもしれない。その手のひらにさわるだけで、私は幸せだった。

 今だって、私より小さい手のひら。この手が、私より大きくなる日が、ちゃんと来るのだろうか。私の背丈より高くなって、大人になって。好きな人ができて、家族が増えて、親しい人たちが沢山できて、なりたいものになるのだろうか。

「ミン」

 少し離れた場所から、トーが遠慮がちに微笑んだ。

「帰ろう。今日はもう、疲れたでしょう」

「……トー」

 トーも、夫と、一人の息子を亡くしている。

 この国で、親しい人を亡くしたことがない人なんていない。それでも皆生きている。

 私を見上げるマイ。ヒデキによく似て、七夕の晴れた夜空のような、黒くて光が灯る瞳。そこに、私の情けないぐらい泣き崩れた顔が映っている。

「……ごめんね。心配かけたね」

 マイは何も言わなかった。代わりに、抱きしめる力が強くなった。

 マイを抱きしめ、マイを安心させるために私は笑って見せた。





 二日後。マイがどこかにやってしまった白い髪飾りが、いつの間にか机の上に置かれていた。

 その白い髪飾りは、私の真っすぐな黒髪によく映えると、花嫁衣装としてヒデキが買ってくれたものだ。私たちに親はいないから、村の中の年長者が代わりに父親代わりになってくれた。結婚式を挙げたのは、旧正月が来る二週間前。マイはまだ三歳で、私が身に着けた柿色の長衣の裾を、小さな手で握っていた。薄絹の布だったので、きっと感触が気に入ったのだろう。眠ってしまうまで、ずっと笑顔のまま触っていた。

 この髪飾りのことを、ヒデキは「雪の結晶」のようだと言った。南地方に雪は降らない。北の方はたまに降るので、言葉だけは知っていたが、実際にどういうものなのか、ヒデキが感嘆するほどの美しい雪景色を私は知らない。

 いつか平和になったら、北の方にも行ってみよう。そうヒデキと約束した。

 トーの飲みっぷりは、本当に豪快だった。戦争中でも、旧正月は皆、恐怖や義務とかから解放されて、楽しんで……。

 ふっと、雨の匂いを感じて、懐かしんだ思い出から現実に戻る。

 厄介だ。たった一つの髪飾りだけで、こんなにも、たくさんの思い出が溢れる。あれもこれも、線で繋がれたように思い出されていく。堪えきれなくなって、私は家の中にあるヒデキの面影を探した。ヒデキの服、ヒデキが使っていたシーツ、ヒデキのバック。それらをかき集め、抱きしめた。

 ヒデキの魂の一部が、宿っている気がした。

 例えば私は、ヒデキに「ミン」と名前が与えられたように。マイに、「おかあさん」と呼ばれるように。周りの人たちが、私を呼ぶことで、私は私になれた。

 名前を呼ばれるたびに、心の一部を貰った気がした。呼ぶ人の魂の一部を貰って、私は出来ている。

 ヒデキ。私が消えないことを知っていて、だから最後に「うれしい」なんて、あなたらしくないことを言ったの?

 あの人の匂いを覚えている。あの人の手のひらが、私の手を包んでくれたことを覚えている。湿気がまとわりつく、あの肌の熱さも覚えている。

 図々しく笑って心の中に居座って、今も私の魂の一部になっている。


 外を見ると、大粒の雨が降り出した。間もなく激しい雨となるだろう。

 そうしてまた、雨の季節がやって来るのだ。

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名前をよんで 肥前ロンズ @misora2222

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