第3話 紅子ちゃんin新宿のオシャレな喫茶店 2

「――晴れて自由の身になったんですね」


 むつみの言葉に、恵人が頷く。


「冴さんにも洗いざらい話したよ。でも、こっちの常識が向こうの常識じゃない、というか――僕としては当たり前にやっていた作業が、幸か不幸か、証拠隠滅になっていたみたいで。冴さんのいる今のチームでは、どうにもできないみたいだ。僕自身は証拠不充分で不起訴だし、むしろ、理世に関する情報提供で感謝されたりもした。拍子抜け」


 「実際僕はそこまで危ない橋を渡っていたわけじゃないし」と溜息をつく。


「理世の言うとおりにしていれば、アシがつかない、というのは、本当なんだ。僕も毎日ハッキングはしてたけど、ハッキングであってクラッキングではなかったんだよね。まして僕が一番弾けてた大学前半の時代には、サイバー犯罪に関する法律がザルだった。いまさら遡って罪を問うということもなく」


 コーヒーを、一口、口にする。


「理世と知り合ったのは、大学に入った頃なんですか?」

「そう、東京に出てきたばかりで、都会にも馴染めないし、田舎にも帰れないし。何となく新宿に憧れてふらふらしていたら、声をかけられて、そのままずるずる、という感じかな」

「てことは、十八、九の頃ってことですよね。理世と恵人って、年――」

「僕が今二十五、理世は確かまだ二十三のはず」


 「だから当時はまだ十七くらいだったんじゃ」と、恵人は言った。今の紅子と同い年だ。


「その頃から新宿をうろついて、今みたいなことを?」

「そうだよ」


 恵人は苦笑した。


「そういう意味では、理世も、孤独な人だよ」


 最後の厨房で理世が話していたことを思い出した。

 理世の母親は理世の出生届を出さなかった。彼は無戸籍児のまま成長し、十四になってから戸籍上の両親が今までとはまったく異なる名前をつけて戸籍を作った。

 壮絶な生い立ちだ、と思う。だから理世には人間として大事な感覚が欠落しているのかもしれない。


 けれど――一歩間違えればと、紅子はうすら寒くなる。

 紅子は血のつながった両親を知らない。

 気づいたら乳児院におり、そのまま児童養護施設に移行した。小学校へ上がった頃に今の両親に引き取られた。以後、今の両親に気に入られるため必死にイイコを演じ続けてきた。

 産みの親の話に触れることはできない。禁じられているわけではない。けれど、育ての両親のことを思ったら気がねしてしまう。想像することすらできない。何不自由ない経済的に潤った暮らしと実の家族と錯覚するほどの深い愛情を与えられてきた。こんなに大事にしてくれる新しい親がいる以上は、紅子は紅子を捨てた実の親のことを忘れなければならない。

 理世が紅子に優しかったのは、紅子のそんな立場を知っていたからだろうか。


 長野から帰ってきた時、警察に連れられて現れた紅子の頬を、養母は初めて平手打ちした。そして、紅子を強く抱き締めて、声を上げて泣いた。養父と祖母も、良かったと呟いたきり、沈黙して涙をこらえていた。義兄などは自責の念に駆られてしばらく紅子より情緒不安定だった。

 お盆に家族でスイス旅行に行って以来は普段どおりである。


 理世はどちらの親ともそういう経験をしてこなかったのだろうか。


「知ってるかな。理世、こどもの頃火事にあって、背中にすごい火傷の痕があるんだ。ケロイドで、ぼこぼこの。初めて見た時は吐きそうになった」


 紅子は「本人から聞きました」と答えた。


「あやと三人でオフ会の打ち合わせをしてた時、理世、火が怖くて、コンロが使えない、って言ってて。火事に遭ってからダメになった、って」

「それ、どうやら、理世の実の母親が、理世が建物の中にいるのを無視して放火したせいみたいなんだ」


 紅子もむつみも黙った。


「火傷を看た開業医の夫婦が理世を引き取ったんだって。それで、今の両親に感謝はしているけど、そもそも親を信頼するという感覚がないから、申し訳ない申し訳ないと思いつつ、言うことぜんぜん聞いてない、って言っていたっけね」


 「あのひとに本当に申し訳ないっていう感覚があるのか怪しいけど」と恵人は言ったが、紅子には、もう、理世を恨めそうにはなかった。

 理世がまるでもう一人の自分のように思えてくる。もしかしたら自分の人生もそうなっていたかもしれない。


 むつみが、呟くような、小さな声で言った。


「――傷つけられたからと言って……、傷ついたからと言って。誰かを傷つけていいわけでは、ありませんよ」


 恵人が苦笑して「そうだね」と頷いた。


「どんなにつらくても、そのつらさは、自分だけのものなんだ。良くも悪くも――いろんな意味で。共有は、できない」


 「慎悟さんも」と、恵人が続ける。


「逮捕されて、殺人事件として扱われることになって――その後どうなったのか、詳しいことは分からないけど――冴さんが言うには、これから、とても長い時間をかけて裁かれるんだそうだ。そして、そこからもっともっと長い時間をかけて、償っていかないといけない」

「日本は、法治国家ですからね」

「そう。どんな理由があっても、人殺しをしたら、当人や周りの人が嫌な思いをするようにできているんだ」


 画策した綾乃はすでにこの世にはなく、実行した慎悟だけは気が遠くなるほど長い時間を拘束されて孤独な生を過ごすことになる。


「それもこれも理世のせいだと僕は思うんだけど――理世のせいにしないとやっていられないというのはちょっと感じるよ。本当に、ちょっとだけだけどね」


 ところがそこで、むつみは急にあっけらかんとした声で「いいんじゃないですかねー理世のせいで」と言い出した。


「だって理世、ぜんぜん懲りてないみたいですもん」


 むつみの物言いに引っ掛かるものを感じて、むつみの方を見た。

 恵人も眉根を寄せてむつみを見た。


 むつみは、どこからともなく自分のスマートフォンを取り出した。

 何度かタップしてから、「はい」と言って差し出してきた。


 表示されていたのは、キャリアメールの画面だった。

 差し出し人は不明だ。登録されていないためにメールアドレスが直接表示されているが、初期設定のままと思われる長くて意味のない文字列だった。

 件名は、『のんのばか』になっていた。


『マジでむかつく!!!!!!!!!!

 本気でいい加減にしなさいよ!!!!!!!!!!!

 いつか絶対本物取りに行くから首根っこ洗って待ってなさい!!!!!!!!!!

 なくしたらぶち犯すからね!?!?!?!?!?』


 エクスクラメーションマークとクエスチョンマーク、絵文字と顔文字の乱舞――開いた口が塞がらない。


「……理世、だよね、これ」

「理世……っぽいっすよねぇ」

「まあ、理世でしょうね」


 むつみが笑う。悪戯そうでもあり意地悪そうでもある。邪悪な笑みだ。


「いつか取りに来てくれるらしいですよ」


 恵人が「怖くないの」と震える声で訊ねた。むつみは「ぜんぜん」と返した。


「いつどうやって来てくれるんでしょうね? 楽しみだなー再会!」

「それ冴さんに報告した?」

「するわけないじゃないですか、冴さんが間に入ってきたらつまらないですもん」

「つまらないとか面白いとかそういう話じゃありませんっ!」

「わーっ! 懲りてないのはこのひともだったーっ!」

「あっはっはっは。てへぺろー!」


 店内の他の客から視線を集めてしまっていたが、三人はついぞ気がつかなかった。


「大丈夫、大丈夫。また何かあったら連絡しますね」


 能天気なむつみを前にしていると紅子も恵人も溜息をつく他ない。


 たとえ夏休みが終わろうとも、二人のゲームはまだまだ終わらないようだ。







~紅子ちゃんの冒険の旅は終わりです。完~



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電脳カリカチュア 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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