第2話 紅子ちゃんin新宿のオシャレな喫茶店 1

 辿り着いたところは、新宿駅からさほど離れていないとは思えないほど静かな店であった。都会の喧騒どころか、平成という時代をも忘れそうなくらいの、クラシックな喫茶店である。

 ビルの地下一階ワンフロアを丸ごと使用しているだけあり、客数はそれなりに入れられそうであった。

 しかし、現在店の中にいるのは、ロマンスグレーの男性客がそれぞれ一人ずつ、白髪に着物姿の上品なマダム二人が一組、セレブの三文字のよく似合うドレスのようなワンピースを着た女性グループが一組、そして、紅子とむつみと恵人の三人、以上である。

 ピアノのクラシック音楽が流れる。腰掛けた赤いビロードのソファも、店内の壁を飾る版画と思しき映画のポスターも、年代を感じさせられる。


 恵人が何気なくメニューを開いた。そして、紅子とむつみの前に置いた。

 紅子は、両膝に両手をついた。


「あの」

「どうかした?」

「あたし、あんまり、お金、持ってないんすけど」


 紅子が学校帰りに友達と寄るコーヒーショップとは、金額が三倍違っていた。

 恵人が声を上げて笑った。


「紅ちゃんもノンくんも学生さんでしょ? 僕がおごるよ」


 思わずむつみの顔を見た。

 むつみはしばらく唇を横一文字に引き結んでいたが、ややしてから、小声で「ごちそうさまです……」と呟いた。


 のりのきいている黒いエプロンをつけた壮年の男性が、「ご注文はお決まりでしょうか」と問うてくる。

 恵人は慣れた要領で「オリジナルブレンド、ホットで」と告げた。紅子は恵人からおとなの余裕というものを感じてさらに身を固くした。

 余裕がなくなったのはどうやら紅子だけではないらしい。むつみが、やはり小声で、「僕も同じで」と言った。心の中で、ざまあみろ、と呟いた。


「え、えと、じゃっ、じゃあ、あたしもおな――」

「ホットのコーヒーが来ちゃうよ?」

「……アイスカフェオレとか、ありますかねぇ」


 店員が「もちろんでございますとも」と微笑んだ。紅子は胸を撫で下ろした。


 三人分の注文を繰り返してから、店員が静かに去っていく。


 店内の雰囲気に圧倒されてしまう。

 紅子は小声で恵人に「ホントにこんなトコ高校生が入って大丈夫なんすかね」と問い掛けた。恵人が「小声じゃなくても大丈夫だよ、音楽もかかってるし」と苦笑した。


「こんないいところよくご存知で。本当に新宿に詳しいんですね」


 むつみが言う。恵人がのんびりとした笑顔で「何年も通い詰めてるしねぇ」と答える。


「ちょっと、オトナな気持ちを味わいたい時に。あと、康平こうへいがたまに商談で使ってるみたい」


 『コーヘイ』というのは恵人のパートナーの名前だったようだ。恵人は最近その固有名詞を口にするようになった。

 紅子はそれを聞くたび、恵人の戦いもようやく終わったのだろうか、と思う。それから、恵人は自分たちを敵ではないと思ってくれているのだろうか、とも考える。


「康平さんって何をしている方なんです?」

「社長」


 恵人の即答にむつみが絶句した。恵人が「ごめん、今勢いで大きく出ちゃったけど、社員十人くらいしかいない会社だから安心して」と手を振る。


「しかもIT部門担当者が僕一人。僕がいないと誰もシステムの保守どころかホームページの社長ブログすら更新されないという時代の波に乗り遅れまくったベンチャー企業だよ。ツイッターの中の人も僕だよ」

「でも……社長は社長ですよ……」

「そう、だねぇ……まあ、名刺にはでっかく代表の二文字が肩書きとして載ってはいるよ」


 紅子が「すごい優良物件っすね」と言うと、恵人が「一生離さない」と呟いた。その時の恵人の声からは普段の穏やかな彼の声にはない粘着質なものを感じたが、ここも紅子には口を出せなかった。


「もともとは高校の同級生だし、社長と社員、という感じでもないんだけどね。康平が完全にオープンだから、オフィスでも平気で、恵人今日の夕飯なにー、とか聞いてくるんだよ。本当にやめてほしい」

「リア充爆発しろ」

「高校の時から付き合ってるんすか? 長くないすか?」

「いや、付き合い始めたのは康平が大学三年生の時に起業するしないって話をし始めた頃」


 「高校の時からずっと付き合ってたら理世みたいなのにひっかからないよ」と溜息をついた。

 先月の別荘での理世の言葉を思い出して紅子は緊張した。

 しかし、恵人自身が開き直っている。


「帰っていきなり康平にグーで殴られた時は本気でお終いだと思ったけどね。まして、冴さんとも警察署で会う話になってたし、これで僕が逮捕されたら康平の仕事や生活にも差し障るから、年貢の納め時だと思って。本当に何もかも洗いざらい喋った。逆にすっきりした」


 開け放ったような笑顔で語った。


「康平は体育会系で、細かいところを気にする奴でもないし。過去は過去、今は今、とか言って――康平にスマホをチェックされるという屈辱的な初体験もありましたが、それっきり」

「理世からは何の連絡もなく?」

「ないよ。康平が着拒したというのもあると思うけど、理世が本気になればぜんぜん違うルートで接触してくるのなんて簡単だから、本気で僕を捜し出そうとは思っていないんだと思う」


 紅子も同じだ。紅子と理世のつながりは、今、完全に断たれている。


 関東平野に戻ってきたあと、恵人は初めに誰ひとりとして《P2》にログインできないよう設定した。

 その上で、残った紅子、むつみ、晴太に自分のスカイプのIDとLINEのIDをばらまいた。

 そして、万が一のことがあったら教えてとだけ言い残し、しばらくの間音沙汰がなくなった。

 むつみと晴太と紅子は、最初のうち、恵人はこのまま自殺してしまうのではないかとスカイプで話をしていた。彼の思い詰め方は尋常ではなかったように見えたのだ。最後の最後に綾乃の遺した手紙を読ませてしまったのがとどめになったのかもしれない。さんざん気を揉んだ。

 しかし先週、恵人本人から、あっけらかんとした文面でオフ会をしようというメッセージが届いた。


「ほんと、もっと早くこうすれば良かった。何年も悩んでたの、何だったんだろうな」


 先ほどの店員が、コーヒーカップを二つと、大きなグラスを一つ、砂糖やミルクなどをテーブルに置いていく。砂糖は小さなポットに、ミルクは小さなピッチャーに入っている。


 紅子は感動した。アイスカフェオレの上に白い生クリームが山と盛られていたのだ。知らず笑みをこぼした紅子に、店員が「サービスでございます」と言った。

 むつみと恵人も、コーヒーを口にする。二人とも、ブラックのままだった。生クリームに喜んでいた紅子は、二人が何も入れずに口をつけたところを見て驚いた。苦そうな顔をすることもないし、砂糖やミルクを追加する気配もない。


「すごい。豆から違うんですかね」

「でしょう」

「値段を……感じますね……」

「あっはっは。でしょう、でしょう」


 「ハレくんが来れないの、残念だったねぇ」と恵人が言う。

 晴太は数日前にアメリカへ戻ってしまった。九月の頭から大学が始まるらしく、八月でも下旬まで日本にいると履修登録に間に合わなくなるらしい。


「話、聞きたがってましたよ。あいつ、先週僕の家に来て、成田からアメリカに帰りましたからね。で、うちにいる間ずっと今回の話ばかりしていました」

「そうかぁ。晴れて自由の身になったから、今度通話でも――って思ったけど、時差すごいんだよね……」

「僕はわりと気にせずオンラインの時は話しかけてますけど――ああそうか、康平さんが……」

「そう……康平がね……誰と喋ってんだよ俺と喋れよとか言うからね……あのひとほんとこどもだからね……社長なのにね……」


 紅子が「ギャップ萌えっすね」と呟いた。恵人が突然「そこが可愛いよね!?」と大きな声を出したので、むつみが「紅ちゃん、今後恵人に康平さんの話題振るの禁止で」と言ってきた。

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