聞きたい言葉
おかえりなさいって言葉は、癒しの魔法のようだと佑香は思う。仕事が早く終わった日に、ふらりとみやこぐさを訪れる。こんばんは、と入って行くと、真が答える。
「おかえりなさい」
普段なら、自分の小さなダイニングテーブルに買い物袋を投げ出して、黙ってテレビのリモコンを操作する。その音の中で着替え、化粧を落とし、調理し、食事する。一連の動作に、自分に向けられた声はない。寂しいのかと問われれば、そうでもないと返事はできる。自分ひとりで誰もいない空間は開放的だし、どんな顔をしていても構わない。けれどときどき、無性に他人の言葉が聞きたくなる。
実家に電話すれば母が相手してくれるし、友人だっていないわけじゃない。ただ長々と話したいわけではなく、たった一言二言の自分に向けられる言葉が、妙に懐かしくなることがある。
「いいじゃない。こっちはひとりにしてくれって思っても、1LDKじゃ逃げ場所なんかないの。どこか長期出張とかしてくれないかしら」
「何言ってるのよ。離れていたくないって結婚した人が」
つい最近の友人との会話だ。結局はお互い、無いものねだりなだけかも知れない。
買いたいものもないくせに店に訪れるのが心苦しくて、つい実だけになったハナミズキの枝を一本とか手に取る。枝が枯れれば捨ててしまっておしまいだから、別に躊躇はない。おかげで、秋の庭木や野花にやけに詳しくなった。
「無理に買われなくても、ただ来てくださるだけでありがたいので」
「無理はしてないです。食卓に花が一輪ある楽しみを覚えました」
気を抜くこともなく仕事をしているのだから、週に一度か二度コーヒー一杯分にも満たない金額の無駄遣いくらい許されたっていい。それに、真との会話。本を読むポイントが似ているらしく、同じ本を読むと記憶するフレーズが一緒だったりする。そしてなんとも懐かしい『祖母の家』の話を聞くのが楽しい。
襖を開け放すと一間になってしまう座敷、家をぐるりと回る廊下、透かし彫りの欄間、そして玄関の横から入る土間には古い甕。
「何度かリフォームはしてますから、トイレとか台所は現代風です。ただ全部風が抜けてしまうので、空調が効かない。昔応接間だった洋間だけがドアで仕切られているので、そこにエアコンをつけました。まあ男一人だし何もないので、真夏は窓を全開にして蚊帳だけ吊って、裸で寝てましたけど」
「蚊帳って、今でも売ってるんですか」
「売ってるんじゃないですか? 僕が使っているのは、年代物ですが」
線が細く、その分少々神経質に見える真が、安心して裸で眠れるような場所。
猫でさえも退屈のあまり大欠伸しそうな時間の止まった風景の中で、真がホースで水撒きをしている風景が、見えるような気がした。空想の中の真は満ち足りた顔をしている。うっとりするほど懐かしく、穏やかな光景だ。
「過去にトリップしたようですねえ」
「開発から残されてしまっていますが、住民の多くは都会勤めなので古臭くはなっていないのですよ。古くから土地を守って来られた人たちの繋がりは強いので、それを鬱陶しいと感じる人も確かに多いですしね。僕は楽しんでますが」
田舎の繋がりは、佑香にも確かに煩わしく感じる。子供のころから自分を知っている人と話すと、その後努力して変わった部分が無駄になってしまったような気がする。彼らの頭の中にあるのはいつまでも、本を読みながら歩いて用水路に落ちた佑香ちゃんがいるのみで、同級生ですら今でもそれを持ち出して来るのだ。それは佑香も同じで、幼馴染は自転車で転んで足を折ったとかブランコから飛び降りてスカートを裂いたとか、そんな記憶に直結するし、実際に会えば言葉に出してしまう。
煩わしさとは逆に、そんな繋がりが懐かしくも心地良いと感じることもある。何も取り繕わず、気取る必要もない気楽さは、例えれば化粧を落とした姿で、眠くなるほど安心していられる。これから生きていく中で、新しくそんな関係は築けないだろう。
たとえば過去の恋愛中に、そんなに安心して素の自分を曝け出したことがあったか。結婚しようと考えていた相手にでさえ、できれば美しく賢く見せたかったし、それがお互いを高めあうことだと思っていた。それは今でも、間違っていたとは思えない。
「僕が祖母の家に住んでいたのは、小学校の五年生の間だけなんです」
真は言う。
「父が起業したばかりで母も一緒に飛び回っていて、僕が夜中までひとりで過ごすことが増えてしまったんですね。それで、生活が落ち着くまで祖母と一緒にいました」
「寂しかったですね」
「あとから確認したら、僕が自分から行くと言ったらしいです。学校が荒れてましてね、いわゆる学級崩壊の状態になってしまっていて、僕は友達や両親と離れるのが辛いよりも、あの教室に座っているのが苦痛でした。六年生になって戻ったときには落ち着いていましたし、そのあと中学受験の準備に忙しくなったので、上手い具合に逃げられたというか」
意外にプライベートなことまで話のタネにする真に、親近感を抱く。買い物に来ているのではなく、友人の家に寄り道しているみたい。
「大抵の同級生は勤め人になっていて、祖母の家に行っていても会うこともないんですけど、この前少し嬉しいことがあって」
真は言葉を続ける。
「古い家具を始末したいという家に伺ったら、子供のころに何度か遊びに行った家だったんです。その家から出てきた同級生が、『おう、真じゃん。おかえり』って挨拶してくれて。いらっしゃい、ようこそ、みたいな外部の人をを迎える言葉じゃないでしょ。おかえりっていうのは、ここに居場所があるって言葉だなあと。その人の手引きで、何人かの同級生と再会しました」
外部の人を迎える言葉じゃなくて、戻るべき場所に戻った人を歓迎する言葉。佑香も実家に帰れば、両親や友達が『おかえり』と迎えてくれる。
「おかえりなさいって、美しい言葉ですねえ」
佑香の口から感想が漏れた。懐かしくて穏やかで、とても優しい言葉を再発見した気がする。自分がそこにいることを、肯定してくれる言葉。
人にはそれぞれ帰るべき
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