湯気と一緒にただようのは
強い風の吹いた日、佑香のバッグの中にはコーヒーのドリップパックが入っていた。前日に試飲販売が気に入って、買ったものだ。家で淹れてみて、やはり美味しいと思い、誰かに飲ませたいと会社に持って行ったが、社内を見回しても全員違うような気がした。けち臭いことを言うようだが、自分が気に入ってお金を出したものなのだから、ぞんざいにゴクゴクッとのんでお終いじゃ悔しい。コーヒー好きはいるのだろうが、飲ませるためにわざわざ探す気にはなれない。
うーんと言いながら、自分のデスクの引き出しに数個入れて、家用に持って帰ってきた。重いものでもないのに、無駄な労力を使った気がする。
駅を出たら、ひときわ強くて冷たい風が吹いた。思わずジャケットの襟を立て、胸元にバッグを抱える。自分の部屋に到着する前に、凍えそうな寒さだ。こんなときに逃げ込む先があるのは、とてもありがたい。
路地の隅にぼうっと灯る光は、冬の夜の灯台みたい。花を扱っているのだから過剰な暖房はしていなくとも、室内に冷たい風は入って来ない。用もなく立ち寄るのにすっかり慣れ、古臭いと思っていた印判の皿がモダンに見えてきたばかりだ。
そうだ、酒見さんにコーヒーを飲んでもらえば良いな、そうすれば感想が聞ける。そう決めて、路地に入って行く。
店に入る前から、甘くて香ばしい香りはしていた。こんばんはと入って行くと、カウンターの上にアルコールの青い光がある。
「良い香り!」
声に出して言ってしまってから、他に客がいたら失礼だと気がつく。
「ごめんなさい……」
「どうして謝るんです? 他にお客はいませんよ」
カウンターを見れば、丸いフラスコにコーヒーが落ちるところだった。
「わ、コーヒーサイフォン。綺麗!」
レトロなイメージのコーヒーメーカーは、とても優雅で贅沢に見える。そしてそこから立つ香りは、ドリップよりも甘く感じる。
「祖母の家にあったものを、持って来たんです。祖父が道具に凝る人だったもので、ミルなんかも一式。アパートでは面倒で、こんなものは使いませんが、ここでなら話のタネにもなるかなと思って」
「少なくともこの香りは、誰でも反応しますよね」
真はマグカップを温めていたお湯を捨てたあと、売り場から蕎麦猪口をひとつ持ってきて、それにお湯を注いだ。一回ししてからすぐお湯を捨て、フラスコからコーヒーを注ぐ。
「お嫌いでなければ、どうぞ。実は僕、サイフォンを使ったのははじめてで、もしかしたら美味しくないかも」
そう言って佑香の前に蕎麦猪口を置き、自分のマグにもコーヒーを注いだ。
売り物にコーヒーを入れて良いのかしらと思いながら、香りの誘惑に勝てずに、いただきますと手を合わせた。鼻先で香りを楽しみ、ゆっくりと口に含む。口腔から鼻に抜ける濃厚な香りと、もうひとつ。
微妙に首を傾げる佑香を見ながら口に含んだ真が、笑い出した。
「えぐいですね、これ。混ぜ過ぎたみたいだ」
サイフォンでコーヒーを淹れるのは、手加減が必要らしい。普段馴染みのない器具だから、おそらく感覚が掴めないのだろう。
「でも、良い香りですよ。適当に買ったドリップパックとは、全然違う」
それだけは確かで、間に合わせにスーパーマーケットで購入して、損したと思うことは確かにある。
「次の機会までに、練習しておきます。藤崎さんに褒めてもらうのを目標に」
その言葉を聞いて、佑香ははじめて思った。自分は真のことを、何も知らないのだと。そして真も佑香のことを、まったく知らないのだ。
不思議な店の店主と客の関係だけで、たとえば結婚しているのかみたいな基本的なことまで知らない。年齢も知らないし、出身地も知らない。そう考えると、友人ですらないのかも知れない。
今更何か質問するのもアレだし、ただの図々しい客の立場が心地良い。けれど湧いてしまった質問が、前頭葉のあたりに雲をかけているみたい。
家で一緒に飲む人は、いないんですか。
バッグの中に入っていたものを思い出し、ふたつだけ出した。
「次の機会の美味しいコーヒーに、先にお礼します。おうちで飲んでくださいな」
カウンターの上に置くと、真はまた笑って礼を言った。
「こちらは間違いなく美味しそうですね。今晩早速、ひとついただいてみます。ひとり分だとついインスタントになってしまうから、嬉しいです」
ひとりで生活しているのか、それとも同居している誰かはコーヒーを好まないのか。
それが気になる程度に、佑香は真のプライベートに近寄りたいと思っているのか。
咲いてゐるのはみやこぐさ 春野きいろ @tanpopo
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