代わりがあるとすれば
今日こそはと牛乳瓶をバッグに入れ、会社を出た。別に急ぐようなものでもないだろうが、他人の持ち物を手元に置きっぱなしにしておけない性分だ。地下鉄のガラスに映る自分の顔から、思わず目を反らす。いくらなんでも、多分ここまでは老けていないはず。
中途半端に混雑している駅を出て、溜息を吐こうとして息を止めた。後輩の言葉を急に思い出したからだ。
だめだめ、溜息をひとつ吐くと、そのたびに幸せが一メートルずつ遠ざかっていくんですよ。その代りに笑うと、幸せは五十センチずつ近づいてくるんです。
その言葉を信じているわけでもないが、きっと間違ってはいない。幸不幸が自分の心持だけの問題なのだとすれば、深刻になるより笑い飛ばしたほうが気分が良い。もともと大層な悩み事なんて抱えていないのだ。せいぜい責任感の希薄な後輩を、どう指導していこうかと思っているくらいなもの。
ただ漠然と、疲れたなあと思う。温泉とか景色の綺麗な場所に行って、何も考えずにぼーっとしていたい。けれどそうするには仕事を調整して、休んでいる間に想定される事案を引き継ぎして、そして休暇から帰るとデスクに貼り付けてあるだろうメモ類を片付けて。余計に疲れる想像しかできずに、思考がストップする。
一生懸命仕事をして、評価されるのは嬉しい。自分の采配で滞りなく流通が回るのは、快感だ。けれど、それが何?
不満なんかない。あの仕事を一生続けたっていい。それなのに、違う自分を想像する。どこか違う場所で、たとえば伝統技能を受け継ぐ人だとか、半農の生活をしてみるとか、あまりリアルでない想像だ。
そんなことを考えながらでも、ちゃんと目的地には到達するものだ。懸崖造りの菊は、蕾が淡いピンクに色づいていた。色味的には華やかじゃない。一体人を寄せる気があるのやら、疑問に思うところだ。
「いらっしゃいませ」
穏やかにカウンターから聞こえる声は店の佇まいと非常にマッチしている、つまり華やかじゃないってことだ。
「こんばんは」
買い物をするつもりでもないので、遠慮がちに入って行く。
「先日お借りした牛乳瓶をお持ちしたのですが」
店の奥から顔を見せた店主は、小さく笑った。改めて見れば、佑香と年齢は大して変わらないようだ。誤差を考えても、五歳は離れていないだろう。
「それは却ってお手間を掛けました。律儀なかたですね」
やっぱり返却の必要はなかったらしい。店主は瓶を受け取り、もう一度微笑んで見せた。
店の一角が、不思議に明るい。そちらに目をやると、黄色い花が大きな壺に入れられている。ゲッと思わず声が出た。
「ブタクサ? アレルギーの人、多いんじゃないですか?」
佑香が言うと、店主は笑いながら否定した。
「ブタクサっていうのは、全然別の植物ですよ。セイタカアワダチソウは、花粉が重くて飛散しません」
そう言われても、俄かには納得しにくい。子供のころから、これをブタクサと呼んで来たのだ。
「っていうか、これって空き地にいっくらでも咲いてませんか?」
秋になると、川原の土手が黄色一色だった記憶がある。
「今はね、減少傾向です。まあ植物の特性云々って話になっちゃうんで、詳しいお話はしませんが。切り花にも使いますよ。萩の花の代わりに使われるから、ダイハギとも言いますね」
萩の花と言えば、先日サービスに付けてもらった。ピンク色の小粒な花と黄色い花では、代わりにならないような気がする。
「代わりなら、もっと似た花がありそう」
そう言いながら、花を覗きこむ。花の形なんてしみじみと確認したことはなくて、邪魔な草だと思っていたそれは、色も形も美しい。
「似たものだと、比較してしまいませんか」
そんな返事があった。
「代わりに似た花を求めたら、偽物みたいな気がして、却って不満になりませんか」
確かに。似ていれば、本来は違うものだと見るたびに思う。それよりもいっそ、はじめからまったく違うものを手にしていれば、納得するかも知れない。
「そう言われれば、それが正解のような気がしないでもないです」
何も買わずに店を出て、看板を振り返ってはじめて店名を知った。
『みやこぐさ』と古い所帯で書かれた木の板が、ライトアップもされないで、素っ気なく壁に打ちつけられていた。
みやこぐさっていうのも、草の名前なんだろうか。それとも、都会に不屈に咲いて見せるって気概かしら。いや、そんなタイプの人じゃないなあ。
うん。私ももし代わりの人生があるなら、まったく別のことをしたい。花瓶の中のピンクの花を黄色に 代えるくらい、大きな変化がいい。ハギも綺麗だけど、セイタカアワダチソウもいいねって、他人からも見えるくらいに。
辞める気のない仕事を思い、じゃあ何を変えるのかと一人で呟く。そして溜息を飲み込み、一日が終わる。
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