雲や霞を食べる

 休日のスーパーマーケットで向かい側から歩いてくるのは、どこかで見た顔の人だ。誰だったろうかとしばらく考えていたら、向こうも同じだったらしい。同時に声が出て、慌てて頭を下げあった後にどちらからともなく笑った。

「お近くにお住まいなんですか」

 佑香から声をかけた。

「店の裏手のアパートです。一日の大半は店にいるので、寝るだけですけど。そちらはお休みですか」

「ええ、日曜は家の中のことをする日です」

 店主のカゴの中には出来合いの弁当とペットボトルのお茶が入っていた。生活感の感じられない人だとは思っていたが、当然のように食事はするらしい。店にいる

ときの黒っぽいエプロンの上に、軽いジャケットを羽織っている。

 ああ、男の人なんだなと、そのときはじめて思った。女の子が昼食の買い物に出るのなら、エプロンくらいは外すだろう。着替えが必要なものではないのだし、

ジャケットからヒラヒラさせている図を自分で想像してしまう。


「そのストール、使ってくださっているんですね」

 佑香が首に巻いていたストールを見て、店主が微笑んだ。

「ええ、会社でも褒められました。自然な良い色だって」

 白いシャツに映える深い色は、使い込んで水をくぐらせるうちに落ち着いた淡い色に変化すると、年上の同僚に教えられた。色落ちという言葉ではなかったから、その変化も草木染めの楽しみ方なのかも知れない。

「気に入っていただけて、嬉しいです。また遊びにいらしてください」

 その言葉で場を離れようとした店主が、ふと思い出したように振り返った。

「ヤマブドウのジュースって、飲んだことありますか」

「いいえ。なんだか渋そう」

 小さい声の笑い声があった。

「確かに。作ったものをいただいたんですが、まだ封を切ってないんです。もしお好きならと思って」

「興味は、あるような」

「じゃ、次に見えたときにおつきあい願います。僕一人だと勇気が出ない」

 知らぬものを口に入れることを、怖がる人はいる。一緒に確認してくれというこ

とか。

「良いですよ。では今週、早く帰れた日に伺います」

 佑香も愉快になり、そう答えた。


「今週は水木と仕入れで留守します。それ以外は開店していますので」

「仕入れって、まさか野原で草摘みですか」

 これはあくまでも冗談のつもりだった。

「それもします。あとは蔵を整理する手伝いと、染め物を見せてもらうくらいかな」

「え! 本当に草を摘んできてるんですか」

「野原でじゃありませんけどね。遊休地で咲いている花をいただいて、お礼かたがた草刈りしたり、蔵の整理をお手伝いして、必要のない小物を譲っていただいたり。古物商の資格は持っていますから、モグリではありませんよ」

「……えっと」

 言葉に詰まる。なんだか佑香の知っている商売の仕入れと違い過ぎて、頭に入って来ない。

「変なことしてると思ってます? まあ、店も持ち主も変わってるってことで」

 微笑んだまま店主は手を振って歩いて行き、佑香は呆然と買い物カートに手を掛けていた。

 本当にいろいろな意味で想像外で、でも面白そう。次に行ったとき、もっと話を聞いてみたい。仕入れはどこでしてるんですか? みたいな。  


 ワクワクしている事柄があるときには、大抵仕事が押し寄せてくるもので、今日かな明日かなと思っているうちに平日が終わってしまって、佑香が店を訪れたのは結局土曜日の午後だ。約束していたわけでもなく、欲しいものがあるわけでもなく、言うならば図々しくヤマブドウジュースのご相伴に与るだけだという中途半端な訪問だ。

 それでもとても久しぶりなのだ、こんな風に楽しみに日を待つことが。まったく知らない人で、懐かしいような匂いのする店を経営している。それがどう成り立っているのか、興味がある。

 他人に興味を持つこと自体がひどく遠い記憶のような気がする。毎日慣れた仕事をし、独りの食卓を整え、眠ればまた似たような日が続く。多少なりとも刺激はあって、たとえば新刊の本を読むこともそうだし、新しい服を選ぶことだって楽しみのひとつだけれど、奥行きがないのだ。

 人間は一通りじゃない。ひとりの中にいくつもの考え方や興味の行き先がある。それを踏まえたって、行動が性格に添っていくのかと言えばそうじゃない。


 新しい知り合い、新しい知識。前の失恋から人間不信気味だった佑香は、過去の人間関係をなぞって満足していた。否、満足だと思っていたのだ。友人のうちの誰かが子供を産もうが、親の介護がはじまろうが、自分は自分の立ち位置から動かないものだと思っていた。

 満足なんて、していなかったのかも知れない。こんなものだと開き直って、諦めていただけかも。だからこんなにワクワクするんだ。だって、面白そうじゃない。自分の狭い範囲の常識を、いい意味で覆してくれそうな人がいる。私も少しだけ、変わっていけるかも。このまま続いていく生活でも、もっと間口を広げれば幸福感を得る回数が上がって行きそうな気がする。


 あの人だって、食事もすれば洗濯もする。それには必要最低限の経費が掛かるはずだ。あの商売は、生活を賄っていけるものなのだろうか。そして、楽しさと苦しさのどちらが勝るものなの?

 他人の生活に興味を持つことは、下衆な趣味だと思わないこともない。けれども、人となりを形成するのは生活の基盤がどこにあるかが大きくて――

 つまり、店ごと店主に興味が湧いているのだ。

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