パンのみで生くるもの

 穂の開いてしまったススキを紙で包み、牛乳瓶を覆っていた新聞紙を外してから、ふと思った。この瓶は返却する必要があるのだろうかと。佑香の感覚で言えば資源ゴミに出して終わりのものだが、世の中には変わったコレクターもいるし、あの店主がそうでないという保証はない。返しに来ないと恨みを買うよりは、要らなかったと笑われるほうがマシってものだ。実際は帰宅途中に眺めただけでも、家に月見の用意があると思うだけで豊かな気分で月を見上げたのは確かで、それを後押ししてくれたような店に、好感はある。


 バッグの中の牛乳瓶を確認し、帰宅準備をしている最中に、ロッカールームに部下が飛び込んで来た。

「主任、申し訳ありませんが、今から持ってこいって怒っておられて」

 部材の流通をつかさどっている部署なので、ときどき手配ミスのトラブルはある。

「誰の物件?」

「津田さんです。倉庫は閉めるのを待ってもらってますけど、本人がまだ戻れないみたいで」

 ふう、と溜息を吐いた。

「また津田さん? 開発営業部で他に動ける人はいない? 萩原さんとか」

「営業はカラです。事務の野口さんも、保育園のお迎えがあるみたいで」

「ブツは何?」

「ダンパーモーターたった二個です。明日でも良いと……」

「作業を今日中に終わらせたいんでしょ」

 部下と話しながら、面倒な覚悟を決める。

「藤崎が行きますって、倉庫に連絡しといて。車借りてくる」


 通勤用のパンツは問題ない。上だけ会社の名の入ったジャンパーを羽織り、総務に社用車の鍵を借りに行く。

「何? 藤崎さんが届けるの?」

「そう。残業手当、津田さんの給料からまわしてくれて構わないよ」

 自分の部署の上司に報告し、悪いねと労ってもらうことはできる。部下が困っているときの主任なのだし、些少でも手当は受け取っているのだからと自分に言い聞かせて、出発する。

 入社したばかりのころ、カタログの箱を持って歩くだけで手伝ってくれた男たちは、今作業ジャンパーで出動しようとしている佑香を見ても、何も感じないらしい。仕事をしていると認められているのか、女だということを忘れられているのか、まあどちらでもいい。変わったなあと思うだけで、大した不満はない。


 暗くなりかけた道路に車を走らせながら、今日は遅くなるなと呟いた。誰かが待っているわけではないし、夕食なんて外食でも持ち帰り弁当でも構わない。どちらにしろカロリーを摂取することに変わりはない。けれど、それは疲労感を増すのだ。たとえテレビが相手でも、暖かい食事をしたためる。好きな香りの入浴剤を楽しんで、身体の緊張をほぐす。これだけのことが、翌日へのモチベーションになる。今日もよく頑張りました、また明日もよろしくね。そう自分に言い聞かせているみたい。


 現場に到着して渋い顔の取引先に頭を下げ、大文句を言われて帰る。自分のミスでなければ謝るのはテクニックと口先だけだから、ダメージは受けない。疲れたなあと言いながら運転し、社内に入ればまだ仕事をしている人間はいるのだ。

 手を合わせて詫びる営業の津田には、こちらも手を横に振って笑って済ませるのが大人の対応。

「大丈夫ですよ、たまには私も外の空気吸って、カビ落とししないと」

 ここでミスが多いとか迷惑だったとか文句を言えば、自分の部署のミスを許してもらえなくなる。人間関係はギブ&ギブ&テイクくらいの気持ちでなければ、本当のギブ&テイクにならないのを学習したのは、まだ最近のような気がする。


 再度ロッカールームに戻って、帰り支度をする。バッグの中の牛乳瓶は、今日はもう返せないだろう。また次の機会だと思いなおし、ロッカーに置き去りにすることにした。

 誰かの香水の残り香が、これから男と会うのだと宣言しているように思えて、自分は何をしているのだと座り込みたくなった。

 これから弁当を買って、暗い部屋に戻るのだ。迎えてくれるのは、籠った空気と湯を張っていない風呂場。それ以外、何も持っていない。


 私が望んでいたのは、こんな生活だろうか。眠るところはある、職もある。友人がいないわけでもなく、それなりに賃金ももらっている。けして大層な苦労なんてしていないし、自分のために費やす時間だってある。このまま、何年も続けていけそうな程度には充実している。

 そう、何年も。今まで続けてきたみたいに、この生活が何年も続く。それで良いのか。それは、楽しいのだろうか。目の前に何かの希望がぶら下がっていなくても、時間は勝手に進んでしまう。


 気がついたら、定年間近で。今よりも少しは良い部屋に移っているかもしれない。役職だって上がっているかも知れない。けれど、一人の部屋に弁当を持って帰って、テレビ相手の食事を続けているのかも。

 ぶるりと身体が震えた。結婚したいとか子供が欲しいとかじゃなくて、何か生きている実感みたいなものを、持っていない。佑香が佑香の人生を楽しむためのものを。

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