エピローグ・ピアニストの恋人

「かんぱーい!」


 ビールのグラスのふちをかちんと合わせると、涼しげな音が弾けた。初夏のテラスでは、同じように食事を楽しむカップルやグループが談笑を弾ませている。街路に並んだ桜の樹は、夜初めの群青に染まって初々しい。グラスを置くと、わたしは取り分け皿に載せたサーモンのマリネをお箸でつついた。


「まだ明るい時間からお酒を飲むのって、贅沢な気分にならない?」

「テスト明けに、昼からカラオケに行くかんじ?」

「そうそう、休日に二度寝してのんびり朝ごはんするかんじ」


 笑いながら、聖司くんは追加の料理をいくつかと枝豆を頼んだ。おばあちゃん子の聖司くんはそのせいか、枝豆だとか、冷奴だとか、お茶漬けだとか、やたらに渋いものを好む。ビールを傾けつつ、わたしはひっそり微笑んだ。

 今日は国民の祝日。「水曜のピアニスト」は、いつもより二時間の繰り上げ。演奏を終えたわたしと聖司くんは行きつけのダイニングバーに立ち寄って、夕ごはんを一緒にとることにした。どちらもお酒が好きなので、こういうときにはお酒とつまみが欠かせない。


「そういえば、美紗さん。来週の日曜って予定あります?」

「ええと、確かなかったはず……」


 水曜日のピアノだけでは生活がたちゆかないので、わたしは図書館の嘱託員をしている。手帳を取り出しつつ、予定を確認していたわたしは、目の前を通りかかった背広姿に目を剥いた。


「あれ、黒江さん?」

「篠目館長」


 まさか職場の上司と遭遇するとは思わず、わたしは危うく手帳を取り落としかける。こんなところで会うなんて、と苦笑した館長は、わたしのテーブルの対面に座った聖司くんに気付いて、ああ、とうなずいた。


「わるい。デートの最中だったか」

「ち、ちがいます」


 ときに、ひとは思ってもいないことを口にすることがあるという。

 このときのわたしがそれだった。

 後悔してもしきれない。


「ただの後輩です」


 真白聖司くん。

 付き合って三か月になるわたしの彼氏。のはずなのに。


 *


「それはあんたが悪いよ、黒江」


 話を聞いた吉野よしのは、すかさず一刀両断した。そうだよねわかってる、とわたしはカフェのテーブルに突っ伏したまま、さらに肩を落とす。


「付き合って何か月だっけ?」

「いちおう、三か月」

「それで恥ずかしいからって、とっさに後輩とか言うかなあ。あんたいくつよ」

「だってまさか、館長と鉢合わせると思わなかったから。しょうがないじゃない経験ないんだから」


 最後のほうは半ば投げやりになってぶうたれたが、悪いのが自分であることはわたしもよくわかっている。後輩です、の発言をしたあとの夕ごはんは、なんだかとても微妙な空気が漂っていた。謝りはした。けれど、聖司くんにすれば、面白くないに決まっている。それまでの和やかな雰囲気はどこへやら、わたしは上っ面な会話を続けた挙句、あまり目を上げられないままお会計をした。


「そもそも、あんたさ、真白聖司のどこが好きなわけ」

「え、ええ?」

「あっちから付き合おうって言ってきたわけでしょ。どこがよかったわけ?」

「でもそれは」

「ピアノ?」


 学生時代のピアノ・デュオのことを知っている吉野は、わたしが魔性みたいな聖司くんのピアノに打ちのめされ、それでも惹かれずにいられなかったことをよく知っている。とはいえ、それももう十年も前のはなしだ。わたしは唇を尖らせ、目を伏せた。


「ピアノだけじゃないよ」

「黒江?」

「ピアノだけじゃない」


 噛み締めるようにわたしはもう一度言った。


 *


 約束をしていた日曜までの時間はひどく長く感じられた。

 聖司くんがあのとき誘ってくれたのは、喬之叔父さんのソロリサイタルだった。母親が行けなくなったチケットを譲り受けたのだという。人見記念講堂。奇しくもそれは、十年前に聖司くんと喬之さんのコンサートをはじめて聞きに行ったときと同じ会場だった。シートに座ったわたしは、舞台にぽつんと照らされたグランドピアノを見て、不思議な感慨にとらわれる。

 あのときは、聖司くんとこんな風にまたここに来ることになるだなんて思いもしなかった。ほんの数か月限りのピアノ・デュオの相手。わたしたちはたぶん、そう多くの感情を共有したりはしなかった。けれど、届かないものを追い求めて精一杯駆け抜けたあの日々は、今でも、葉に落ちた雫のきらめきのように記憶の隅にとどまっている。


 ――わたしはピアノを続けるよ、真白くん。

 ――ピアニストになる。


 ライトが暗くなるのと同時によぎった少女の声にわたしは目を細めた。

 ……まだなれないなあ。

 まだ時間がかかってしまいそうだ。

 それでも諦めないでやってるって知ったら、君はどんな顔をするだろう。真白くん。ピアニストになることを選ばなかった君は。そして、聖司くん。今目の前にいる、十年ぶんの年月を重ねた君は。


「相変わらず、君の叔父さんは化け物だよね」

「これで本人はまだまだやりたいことがたくさんあるっていうから困りますよ」


 三度のアンコールのあと、熱気に包まれた会場を出ると、わたしたちはどちらからともなく言葉を交わし合ってわらった。


「すこし歩かない?」


 以前と似た台詞を今度はわたしのほうから言って、川沿いの土手に出る。コンサートの最中に通り雨が降って上がったらしい。雨に濡れた大地からは水と草のにおいがくゆった。パンプスを鳴らして、緩やかに流れる川を眺める。わたしは息を吐くと、勢いよく聖司くんを振り返った。


「あのね、聖司くん。ちょっと聞いてもらっていい?」

「な、なんですか」

「わたしと付き合ってくれませんか」


 聖司くんは案の定、複雑そうな顔をした。


「……僕たち、付き合ってませんでしたっけ」

「そうだよ。でも、わたしからもう一度ちゃんと言いたかったの。聖司くんはわたしのことすき?」

「だいすきですよ」


 そう、とわたしは得意げに微笑んだ。

 わたしもだいすきだ。ピアノだけじゃない。物腰が柔らかそうに見えて、頑固で、ぜったいに自分を譲らないところも、わりにはっきり自分の意見を言うところも、お茶漬けだとか枝豆だとかが好きなところも、おばあちゃん子なところも、牛乳の話をすると嫌がるところも、ピアノがすきなわたしをすきになってくれたことも、みんな、だいすきだ。

 わたしはそろりとあたりを見回すと、少しだけ踵を上げて、目の前に立っている男のひとに唇を重ねた。


「わたしもだいすき。この間はごめん」


 さすがに頬が熱くなってきたので、えへへとわらってごまかすと、「美紗さんって……」と聖司くんは横に視線を逃しつつ呟いた。


「かわいければゆるしてもらえるって思ってるでしょう」

「そんなこと思ってないよ」

「いーや思ってる。その手にはのりませんから」

「このあとごはん食べよう。おごるよ」

「その手にものりませんって」


 雨上がりの土手沿いを手を繋いで歩き出す。

 ああこのひとは恥ずかしいと視線を横にそらす癖があるのか、と発見したわたしはひとりほくそ笑んで、足取りかるく、輝く夏の陽を見上げた。


                                fin.

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