アンコール・Lilac -3

 冬が過ぎても、相変わらず美紗さんの散策癖はおさまらない。

 水仙。蝋梅ろうばい。寒椿。山茱萸さんしゅゆ金縷梅まんさく。紅梅、白梅。

 音楽のことに偏りがあった僕の頭には、この半年でたくさんの花の名が踊るようになった。美紗さんはキャメルのダッフルコートにロングブーツをはき、ロイヤルブルーの肩掛け鞄をぱこぱこ鳴らして、氷の張った池のまわりを歩く。


「次は何の曲を弾くんですか?」


 好き勝手に歩く彼女を後ろからのんびり追って、僕は尋ねた。


「『リラの花』」

「ああ、かわいいラフマニノフ」

「そうよ。君がわたしなら食虫花みたいなリラの花にするだろうって言った曲」

「そこまでは言ってないです」


 くすりとわらって美紗さんは、染井吉野のそばにある木製のベンチに座った。雨ざらしのベンチは黒茶けて、キャメルのコートが汚れそうだと心配になったけれど、美紗さんはそういうことにはちっとも気を留めない。春になれば満開の桜で華やぐはずの公園は、今は少し閑散としていた。


「演奏会をやるの。三軒茶屋の小さなホールだけど、何人かで」

「チケットはもう売ってるんですか?」

「君にはあげるよ」

「買いますよ。いくらですか」


 身内用のチケットをあげる、と言ってのける美紗さんに、それは友だちとしてなのか、彼氏としてなのか、どっちなんだろう、と悩む。ひと月にいっぺん程度会う関係はもう半年続いていて、美紗さんも別に嫌がっている様子ではないし、こちらの好意がわからないほど鈍いようにも思わない。けれど。


「あのね、美紗さん」


 そろそろはっきりさせるべきだろう。心地よい距離であけていたベンチに片手をつくと、美紗さんは瞬きをして、僕を見上げた。気の強さがわかる吊り目がちの眸に、ふいに弱々しい光が透けて、美紗さんは何故だか御苑のガイドブックを思いっきり僕のほうへ突き出した。鼻にガイドブックが当たりそうになって、さすがに口をつぐむ。


「リラの花」


 ガイドブックで顔を隠すようにしたまま、美紗さんはぽつりと呟いた。


「ぜったいに聞いて」

「聞きますよ。予定も入っていないし」

「聞いて、感想をきかせて」


 瞬きをした僕に、彼女は意を決した様子で顔を上げる。


「好きでも嫌いでもいい。君の感想を聞かせて。……君はやさしいから、感想は言わないから」


 早口でまくし立てる言葉が彼女の緊張を伝えていた。もしかしたら、ずっと考えていたことだったのかもしれない。すべて言い切ってから小さく息をつき、美紗さんはまっすぐ僕を見つめた。


「君のはなしは、そのあとで聞く」

 

 *


 水曜日のピアニストは、臨時休業。

 その日、いつものようにカフェ「オセロ」に寄ると、ピアノにはカバーがかけられ、マスターがひとりカウンターの奥でグラスを磨いていた。あれ、と僕は時計の文字盤にある曜日を確認する。


「今日は黒江さんの演奏、ないんですか」

「ないよ。根詰めすぎて、熱出したの。39度」


 それは尋常じゃなかった。

 マスターが見せてくれた画面には、申し訳なさげな文面が綴られているだけで、そういうところが美紗さんらしいけれど、逆に心配になる。病院には行ったのか。家族や友人は近くにいるのか。いてもたってもいられない気分になったものの、そこで僕は美紗さんが国立のどこに住んでいるかも知らなかったことに気づいた。そもそも、彼氏でもない男が妙齢の女性の家にいきなり訪ねるのもどうなんだろうと思う。


「何にする?」

「……じゃあ、カフェオレをひとつ」


 ピアノに近いいつもの特等席を引いて、コートを椅子の背にかけた。待っている間、手持無沙汰になり、マスターに断りを入れてピアノの蓋を開ける。

 ポ――――ン。いくつかの音を戯れに鳴らしてみてから、よいピアノだ、としみじみ思い、改めて椅子に腰掛ける。指先が自然と覚えていた旋律を紡ぎ出す。セルゲイ・ラフマニノフ、「12の歌曲」第5番「リラの花」。


「あんた、うまいね。プロのひと?」

「趣味です。ピアノ、すきなので」


 ピアノを弾くのは今もすきだ。けれど、四六時中練習に明け暮れていたあの頃のようにはもう指は動かない。きりがよいところまで弾いたあと、テーブルにいつの間にか乗っていたカフェオレに気付いて手を置く。興奮にも似た熱い余韻がまだ微かに指先に残っている。


「マスター。聞いてもいいですか」


 ピアノの蓋をまたもとに戻しながら、僕はマスターに声をかけた。


「なんだよ」

「美紗さんのピアノ、どこを気に入ったんです?」


 ピアニストの卵なら、それこそ星の数ほどいる。藍沢のようにソロリサイタルを開けるだけの縁に恵まれた子は強運なのだ。それでも、大学通りから外れたところにある小さなカフェのマスターは、大事にしているピアノの水曜日の弾き手に、美紗さんを選んだ。


「嵐」


 マスターは呟いた。


「あの子の音には嵐があるからだよ」

「……意外です」


 ぬるくなったカフェオレを啜り、僕は苦笑した。


「マスターと気が合うなんて」


 *


 コンサート当日は、開演三分前に会場に着いた。

 きっちり1時間前につくように予定を組んでいたのに、直前で電車が遅れたのだ。受付で記名したあとホールに入ると、三百ほどの席はそこそこ埋まっていた。演奏者のひとりが最近国内で賞を取って、今日のコンサートが大手の新聞で紹介されていたことも理由のひとつだろう。

 プログラムを確認すると、美紗さんの名前ははじめから二番目に見つかった。

 セルゲイ・ラフマニノフ 「12の歌曲」第5番「リラの花」

 初夏の野に咲く花たちを思わせる可憐な曲だ。彼女がこの曲を気に入っているのは知っていたけれど、正直、美紗さんはベートーベンの後期ソナタのような、がりがりと魂を削り上げて昇華するような曲が向いている気がしたから、選曲は意外だった。

 新宿御苑で別れた日から、美紗さんには会っていない。

 熱を出したという美紗さんが心配で、一度は端末のメールアプリを開きかけたけれど、結局送信はしなかった。だいじょうぶ?だとか、無理をしないで、という言葉が彼女にはまったく無意味であることくらい、僕もわかっている。だって、彼女は今無理をしているのだ。ほかでもない、自身が乗り越えるもののために。それは彼女以外の人間が横からどうこう言うものじゃない。

 一番の曲が終わると、緩やかな拍手が起こり、ほどなく舞台袖からシャンパン色のドレスに身を包んだ美紗さんが現れた。スポットライトに照らされた、痩せた背、華奢なミュールをはく足、透明な頬といったもの。彼女をかたちづくるすべてはとても繊細で、唐突に僕はあのスポットライトの下に出て行って、これから彼女が戦うものに一緒に立ち向かってやりたいような、不思議な感慨に襲われた。

 だけど、僕と美紗さんのピアノ・デュオは終わった。舞台を降りた僕は客席からただ、闘うあなたを見守るしかない。

 美紗さんは前を見た。

 譜面に向けられるその眼差しがすきだなあ、と思う。

 とてもいとおしいものと殺し合いをするような、愛情と憎しみがある。

 揺らぎと迷い、それでも手を伸ばさずにはいられない切実さがある。

 いつか、と僕は祈るように思った。いつかあなたのピアノは、誰かをすくうだろう。大勢ではないかもしれない。けれど、この世界のどこかにいる、まだ名前も知らない誰かをきっとすくうだろう。あなたのピアノには、その力がある。

 やがて流れ出したメロディに耳を傾け、僕は目を瞑った。


 *


 ドアの開閉音に気付いて、端末の画面をオフにする。

 シャンパン色のドレスを着替えたあとらしい。いつものキャメルのダッフルコートにすこし不釣り合いなアップの髪型で、美紗さんは外に出てきた。僕を見つけるや、しかめ面をして、「中で待っててくれてよかったのに」と呟く。


「もう三月だから。そんなに寒くないですよ」


 首に巻いたマフラーを引き寄せて、僕はわらった。駅までの道のりを並んで歩く。コンサートのお客さんはもうほとんど帰ったあとで、ひと通りはあまりない。街路に沿って植えられたハナミズキの固い芽が、冬風に揺れていた。


「結構、新しいホールでしたね」

「うん。老朽化で建て替えをしたばかりなんだって。一緒に音響設備もぜんぶ変えたから、最新式なのよ」

「道理で音がいいと思いました」


 話しながら、美紗さんが間を探しているのがわかる。心得て僕は言葉を止めた。


「あのね、真白くん」

「はい、美紗さん」

「演奏、どうだった? わたしの『リラの花』」


 ひととき不安げに視線をさまよわせてから、けれどやっぱりまっすぐ美紗さんは僕を見つめてくる。約束だったので、僕も目をそらさないよう心掛けて口を開いた。


「好きか嫌いかという意味なら、論外です」


 美紗さんの目に玻璃のような色がよぎったのを僕は見逃さなかった。


「あなたの演奏はまだ荒削りで、迷いがあって、ひとりよがりで、中途半端。あなた自身の感情に振り回されて聞き苦しいときすらある。ただ」


 そこまで言って、僕は口元を綻ばせた。


「黒江美紗というピアニストが僕はすきです。またあなたの演奏を聞きたいって思う。たぶん、オセロのマスターも」

「……真白くん」

「それから、今目の前にいるあなたもすきです。おなじくらい」


 泣き出しそうになっていた目元がみるみる朱に染まる。瞬きをしたあと、美紗さんはしどろもどろになって、「そんなことは聞いてなかった……」と心外そうに呟いた。


「わたしはね、真白くん」

「はい」

「ピアニストとしての真白聖司がだいきらいだった」


 瞬きをするのは今度は僕の番だった。


「君はずるいし、薄情よ。要らないならその才能、わたしにちょうだいって思う。わたしならもっとうまく使うのにって。神様も君なんかにピアノの才能をあげちゃって、たぶん今頃空の上で後悔してる。絶対にそう」


 まだ赤い目元をそれでも楽しそうに緩めて、美紗さんは僕を見つめた。いつもしかめ面ばかりしている彼女の心の底からの笑顔を僕ははじめて見た気がした。


「でも、目の前の君はすき。それでもかまわないなら、また公園つきあってくれる?」

「もちろん。芝離宮でも、御苑でも、どこへでも」


 あいているほうの手を差し伸べると、美紗さんはわざわざ親指の先だけを握ってきた。


「手、つないじゃだめですか?」

「嫌よ、外だもの」

「誰も見ていないのに」

「君のないしょは、みんなにばれてるから嫌よ」


 美紗さんは澄ました顔で言ったあと、相好をくずして、そっと手のひらを重ねてきた。かじかんだ指先が絡まり、ゆっくり互いの熱を伝え出す。まだ寒さのかゆらぐ星空のした、やっと重なったぬくもりに目を細め、僕は白い息を吐き出した。

 この冬を越えたらやがて、

 あなたと出会ったはじまりの夏がやってくる。

                                                              fin.

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