アンコール・Lilac -2

「真白。おまえのカノジョ、ニュースに出てるぞ」


 始業前の社内。朝の日課で、ネットニュースをさらっていた先輩が訳知り顔で、こちらを手招きした。パソコンを立ち上げる間にインスタントコーヒーを淹れていた僕は、「なんですか?」と眉根を寄せる。僕らが務める楽器店のパソコンはどれもかなり古い型なので、立ち上げまでに五分以上かかる。その間に給湯室にコーヒーを淹れにいくのだけれど、たいてい途中で先輩の茶々が入る。


「ほら、藍沢琴乃あいざわことの。人見講堂で初のソロリサイタルだって」


 先輩が示したパソコン画面には、オーシャンブルーのナイトドレスを着た藍沢がグランドピアノを弾く姿が映っていた。おそらく、去年の国際コンクールのときの写真だ。あのとき藍沢は弱冠二十四歳にして、日本人で史上三人目の入賞を果たすという快挙を成し遂げた。ニュースで少し話題になったし、僕もあのコンクールはネットから中継を見ていたから覚えている。きゅっと音を鳴らして給湯の栓をとめ、僕はマグカップを流し台に置いた。


「先輩。そもそも藍沢、彼女じゃないですし」

「でも付き合ってたんだろ?」

「短いし、大学時代のはなしです」


 入社したての頃、二軒三軒と飲み屋を連れ回されて、記憶を飛ばしたことがあった。藍沢の話はそのとき、うっかり口を滑らせたらしい。別に悪い人ではないのだけど、ことあるごとに藍沢のネタを持ち出されるのは正直、面倒くさい。


「でも、おまえから告ったんじゃなかったっけ」

「そうですけど」

「で、おまえから振ったんだよな」

「まあ、そうです」


 ひでえ奴だとけらけら笑って、パソコンに目を戻す頃には先輩の興味も別のものへ移っている。ようやく解放されたことに安堵し、コーヒー殻を給湯室の三角ポッドに捨てて、自席に戻った。寝かせすぎたコーヒーは、酸っぱさを通り越して強烈な苦味で舌を刺す。顔をしかめ、僕はパソコンのログイン画面にパスワードを打ち込んだ。


 藍沢琴乃とは大学に入学したあと、二年ほど付き合った。

 僕から告白して、僕から振った。

 常磐音大のピアノ科にストレート進学した藍沢と異なり、僕は音大に上がらず、一般の四年制大学に受験し直した。進路こそ別々になったものの、クラスメートたちとの付き合いは続いていたし、女子でいちばん身近だった藍沢と付き合うことに何の違和感もなかった。藍沢は昔から世話焼きで、僕に対してはやたらにおねえさんぶるのだけども、わりと抜けているところもあって、そんな屈託のなさがかわいかった。ピアノの才能があったし、それ以上に努力家なところも好ましく思っていた。


『ラフマニノフの『幻想的絵画』?』


 大学一年の夏、次の課題曲なのだと藍沢が見せてくれた譜面は、ピアノから離れて久しい僕にとっても懐かしいものだった。ラフマニノフ作曲の4つの楽章からなるピアノ・デュオ。


『確か、聖司くんも昔弾いてたよね』

『中二のときね。なつかしいな』


 ――黒江美紗。

 真夏のカフェテラスで、嵐のように唐突にデュオの相手の名前を思い出す。もう五年も前のことだ。黒江先輩とは学年もちがったし、中等部と高等部で建物が分かれていたこともあって、そのあとはまるで関わりがなかった。どこに進学したのかも、そういえば記憶にない。


『黒江先輩ってさ、今どうしてるか知ってる?』

『美紗先輩?』


 ピアノ科だった藍沢は僕よりは先輩と関わりがありそうだった(ちなみにこのときの僕は藍沢と黒江先輩が同じ天文学部であったことまでは知らなかった)。氷の溶けだしたアイスティをからんと回して悩ましげに眉根を寄せた藍沢は、『大学は確か

別のところに行ったんだよねえ』と呟いた。


『音大?』

『関西のほうの。師事したい先生がいるって』


 わたしはピアノを続けるよ、真白くん。

 ピアニストになる。

 今にも泣き出しそうな、赤く腫らした目を思い出す。

 先輩元気かなあ、と呟いた藍沢に、僕はなんとはなしに苦笑を浮かべながら、元気なんじゃない、と返した。彼女たちの戦場から途中離脱した僕にこんなことを思う資格はないのかもしれないけれど、僕の胸にはこのとき静かな喜びと興奮が広がっていたのだった。彼女がいまだ、あの戦場で闘い続けていること。雷鳴にも似たあの音色がいまもどこかで奏でられ続けていることに。


『――それでね、デュオの相手が留学生の子なの。わたし、英語あんまりできないけどだいじょうぶかな? 目配せだけでいけるかなあ?』


 耳の横でシュシュで束ねた癖っ毛を揺らして、藍沢がテーブルに突っ伏す。小鳥みたいな愚痴を聞きながら楽譜をめくっていると、ふいに別のことを思いついて、僕はマカロンケーキを追加で頼んでいる藍沢をつついた。


『琴はさ、どの楽章がいちばんすき?』

『え? うーんとねえ』


 小首を傾げて考えこんだ藍沢は、うん、と軽くうなずいた。


『舟歌かな。水飛沫がくるくる跳ねるみたいでたのしい』

『そっか』


 うなずきながら、僕の脳裏に別の面影がよぎる。

 あのひとなら、眉間を寄せて復活祭とこたえるような、そんな気がした。


 *


「藍沢」


 朝のニュースは前触れだったのかもしれない。藍沢と久しぶりに再会した。

 別れたあとも同期会ではときどき顔を合わせていたし、大人数で遊ぶこともあったから、半年ぶりくらいだろうか。千駄ヶ谷の改札を出ると、ロータリーで水色の日傘を差して端末をいじる藍沢の姿を見つけた。


「聖司くん。ごめんね、忙しいのに」

「いいよ。白鳥さんには僕もお世話になってるし」


 ずっと懇意にしていた調律師が急に入院してしまって困っている。聖司くん、楽器店でお仕事しているし、誰かよいひとを知ってる? 藍沢から相談があったのは、数日前のことだ。親しい調律師に連絡を取ると、今日の午後ならかまわないとのことだったので、さっそく藍沢を引き合わせることにした。

 ごうん、ごうん、とひっきりなしに音を立てる高架下を藍沢と並んで歩く。前は肩が触れ合うくらい近かった距離は、今は藍沢の日傘の先があたらない絶妙な位置であいている。今はお互いそれくらいが心地よい。


「そういえば、おめでとう。ソロリサイタル、決まったんだって?」

「ええー、聖司くん、なんで知ってるの?」

「だって、ニュースに出てたよ」

「そうなの? はやいなあ。ありがとう」

「人見講堂だって?」

「うん。喬之さんも弾いてた、憧れの場所」


 まぶしそうに空を見上げて、藍沢は呟いた。

 傘を持つ薬指には、銀の指輪がはまっている。お祝いは半年前、仲間内でした。彼女どころか、もうすぐ人妻なんですよ、この子は。――というのは、先輩にはあえて言わなかったないしょばなしだ。


「ピアノはもう弾かないの、聖司くん」


 ふいに藍沢が尋ねた。


「わたし、聖司くんのピアノ好きだったんだけどな」

「ありがと。話題のピアニストに言ってもらえて光栄です」

「そうやってはぐらかす」


 肩をすくめて、僕は苦笑した。

 藍沢と別れたのは、些細な理由だ。決定的な破局があったわけじゃない。

 音大に進んだ藍沢はピアノの練習で忙しく、そのうち海外を飛び回るようになって、僕も僕でふつうに就活が難航していて、互いのメールにも電話にもこたえられない日々が半年以上続いた。それで、僕のほうから終止符を打ったのだ。藍沢も「どうして」とは言わなかった。続けるという選択肢が互いに浮かばなかった時点で、たぶんもうずっと前に終わっていたんだと思う。


「披露宴の余興で弾くよ。ワーグナーの結婚行進曲でもバタフライでも」

「ほんとうに? 約束だよ?」

「なんなら、歌もつけようか?」

「聖司くん、音痴だから嫌」


 顔をしかめてみせて、藍沢はレースの日傘をくるくると機嫌よく回した。

 

 *

 

 中抜けから会社に戻ると、定時後の時間であるのに、先輩はまだ残っていた。月の支払があるこの時期は、社員はたいてい遅くまで残っている。都心で買ったドーナツを共有のテーブルに置いて、パソコンを立ち上げる間、インスタントコーヒーを淹れる。ポケットに突っこんでいた端末が震えたのはそのときだ。

 メールの差出人名を確認して、僕は眦を和らげる。


「カノジョ?」

「……なんですか、先輩」


 さっきまでは椅子に座っていたはずの先輩は、ドーナツを片手にマグカップを棚から出している。横目でじろりと睨めば、「にやにやしてたんだもんおまえ」と肩をすくめて、給湯器からお湯を入れる。


「ちがいますよ」


 返信する気もそがれて画面をオフにし、ポケットに突っ込み直す。


「まだ片恋です。大事なときなんで、邪魔しないでください」


 コーヒー殻を捨てると、目を丸くした先輩を残して、僕は給湯室を出た。

 今日は火曜。「水曜日のピアニスト」の特等席は、ひとにはゆずれない。

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