「声」は言語を超え得るか

「ああ……」

 僕は、目前の紳士の言わんとすることを理解してしまった。

 伴侶を失った傷も癒えぬうちに、街角に溢れる妻の声。

 そして、追い打ちをかけるように発売された——XE9800。それは、苦しかっただろう。

 男は唇をかすかに歪めた。

「妻が死んで初めて知ったんですよ——すべての収益が、死後は私、ないしは子供に手渡されるようになっていたことと——声の利用先の決定権及び拒否権が妻にあったことにね」

「——ご家族に決定権を残されなかったんですか」

 僕は少し驚いて尋ねる。

「まさか自分が死んだ後のことなんて考えてもいなかったんでしょう」

 男性は唇を歪め、肩をすくめた。

「若い人はそうだ。自分の命が永遠に続くような気がしているんですよ」



「コニー」は単純に録音された音声を再生するのみのシステムではない。音声データベースから声を再構成することに長けたシステムだ。コンスタンス・アシュレー本人が一度も口にしなかった言葉を「コニー」は語ることができる。数世代前の合成音声よりもずっと滑らかに自然に。

 英語のみならずフランス語やスペイン語も入っている以上、音のバリエーションも多い。データ提供時には、幾つかの戯曲も読んだと言われている。つまり、そもそもデータベースに収録されている感情の幅も広い。吐息や嗚咽も含め。

 だからこそ、コンスタンス・アシュレーの死後、真っ先に浮上したのは——本人が生きていたらおそらく許可することのなかったプロジェクトだった。


 性的目的のロボット。XE9800。


 最初に一般に普及した掃除ロボットが人間型ではなかったように、XE9800も人間の形はしていなかった。むしろ、部屋の片隅に置いてあっても「一見何だかわからない」形状の機器であることが、その爆発的な人気の要素の一つだった。

 にもかかわらず、XE9800はとてつもなく「人間らしかった」。張り巡らせたセンサーで対象の状態を把握し、細やかに「声」で反応を返した。はじらい、あえぎ、拒絶し、ねだり。男性の生活の中にささやかに加えられる家電という立ち位置で、最初はひそかに、やがて爆発的に売り上げを伸ばしたのだ。



「まあ、そんなこんなでね、英語圏は嫌になってしまって……」

XE9800については全く何も触れずに、男は言葉を続ける。

 ——あ、お砂糖が切れていましたね。もっと必要ですか?

「コニー」が無邪気に尋ねる。

 男はそれを無視する。

「あの声は——私以外の誰一人、聞くことのないはずの声だったんですよ」

 感情のない声だった。疲れ切ってしまったといった風情の。






 ビジネスクラスの搭乗者である彼は僕よりずいぶん早く席を立った。僕は残りのコーヒーを飲み干すと大きく伸びをする。

 今頼まれているレポートは非常にシンプルなものだ。通常強弱アクセントが目立った特徴である英語のもつ高低アクセント的な要素について。僕はこのレポートを買ってくれる企業が「コニー」の声を管理していることを知っている。そして、「コニー」の多言語化プロジェクトが進んでいることも。

 空港のアナウンスが僕を呼ぶ。


 コンスタンス。

 コンスタントな。持続する。不変の。

 その名前の意味が頭の中をめぐる。


 コンスタンス——貞節な。


 僕のチケットから磁気を読み取ったゲートが「コニー」の声で話しかける。

「あら、少し遅れてしまったみたいですね。ゲートは25番。急いでくださいね」

「はいはい」

 思わず人間相手のように答えてしまい——僕は足を早める。東京は、毎回帰省するたびに驚くほど変化している。この後も——変化し続けるだろう。

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君の声が囁いている 赤坂 パトリシア @patricia_giddens

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