4-10 蛇足=エピローグ





 ぱちぱちと、暖炉の火が弾ける音がする。

 ……いつかの時に来た、『第二監獄』の応接室。 

 赤いベルベット地のソファに腰かければ、目の前のテーブルにティーカップが置かれて。揺れる琥珀の水面には、麗しい少女が映る。


 紅茶を淹れたのは例の赤毛メイド――――ではなく。クラシカル・ゴシックをまとう白金髪の少女、酒匂冴だった。

 俺の対面に座り、同じく自分の前にカップを置いた酒匂は、優雅な所作で紅茶を一口味わうと、穏やかな笑みを浮かべて言う。


「正直なところ、呼んで素直に来てくれるとは思っていなかったわ。混乱に乗じて逃げ切ってしまうとばかり」


「あんたからの招待なら、突っ撥ねるわけにもいかない。……があるからな」


「借り? さて、なんのことかしら? こちらには全く身に覚えがないのだけれど」


「……ま、そう言うとは思ったが」


 はぐらかす酒匂に細い目を向けながら、俺もまた紅茶を啜る。

 仔細はどうあれ、俺がカナメに会うことができた最大の要因は酒匂の差配にあった。……要は、恩があるのだ。

 だから、どさくさに紛れて基底領域ベースを逃げ続けていた最中に突然『招待状』が届いた時は、嫌々ながらも『第二監獄』へ向かわざるを得なかった。


「『市街』の様子はどうなってるんだ」と問えば。


「絶賛、混乱中。当然ね。カナメはハルシオンの主席であると同時に『市街』の精神的支柱だったもの。突然いなくなられたら、みんな戸惑うに決まってるわ」


「……だろうな」


「他人事ね? 貴方がやったことでしょう?」


「俺はカナメを助けただけだ。勝手に頼り切ってたせいで勝手に戸惑ってる奴らのことなんて知らねえよ。自分らでなんとかしろって話だ」


 平気にそう言い捨てれば、酒匂はくすくす笑って「カナメは、いいお兄さんを持ったのね」と、褒め言葉なのか皮肉なのか分からない言葉を零し。


 ばつの悪くなった俺は「で、何の用だ?」と本題を急かす。

 すると酒匂は、含み笑いはそのままに、妖しく碧眼を細めて腕を組み。


「少し、お話が聞きたいと思ったの」と切り出した酒匂は、自分の顎に手を添えて。「貴方が貴方自身の存在をどう考えているのか。私はそれに興味があってね」


「……どういう意味だ?」


 その意図が読めずそう問えば、酒匂はふっと笑む。

 ――――それは含み笑いなどではない、口の端を吊り上げた嘲笑で。



「――――貴方、最初から最後までカナメに生かされているだけでしょう?」



 酒匂がそれを口にした瞬間、応接間の空気からすっと熱が消えた、気がした。


「『逃げたい』『助けてほしい』『にいさんに会いたい』……『夢から覚めたい』。

 これは全部、カナメが無意識のうちに願っていたことよ。。『法典』によって集った絶大な夢の力が、あの子が自覚していない願望すらも叶えてしまった結果に過ぎない。

 つまりはそう、全ては逆算の産物なのよ。……貴方が現れたからあの子が助かったわけじゃない。


 ――――。違って?」


 嗤いながら首をかしげる酒匂に、返す言葉が見つからない。

 確証は無いが……酒匂の言っていることは恐らく真実だ。そんな確信があった。

 過去に死んだはずの俺がここにいる理由。それを考えた時にカナメに行きつくのは、当然の理屈で。

 ――――俺は弥代要太郎であって弥代要太郎ではない。つまり――――


「つまり、ここに居る弥代要太郎あなたは、弥代カナメが抱いた妄想の塊。

 ……そうでもなければ、死人が紅茶なんて飲まないものね?」


 語尾を上げた酒匂は、さらに続ける。畳み掛けるように。


「心も、体も、魂も、カナメが妄想したとおりにしか動かない、動けない。

 貴方が自我だと思っているモノはカナメの願望でしかない。

 そんな貴方にこそ聞きたいの。

 ――――――ねえ、貴方は今、貴方自身のことをどう思っているの?」


 酷薄な笑みを浮かべて酒匂は問う。誰かの思い通りに生かされ動かされる気分はどんなものなのか、と。

 その悪辣な質問を聞いて、静かに理解する。――――酒匂がなぜ、俺をこの場に呼び寄せたのかを。彼女の真意を理解して……その上で俺は、答えを口にする。


「……俺には、自由がない。どこまでいっても、なにをしようと……カナメが望んだ『にいさん』にしか、なれない」


「そう、やっぱり――――」と、嬉々と笑おうとした酒匂を遮るように。


「――――って、あんたは言って欲しいんだろ」


 呆れるように言い放った瞬間、酒匂の表情がぴたりと固まって。

 その様子にしてやったりと思いながら俺は、紅茶で口を湿らせて。

 

「あんたが俺にどんな期待をしてるのか、なんとなく分かるんだよ。……俺とあんたは似たもの同士だからな」


 俺のその言葉を聞いた酒匂は、と固まっていた表情を解けさせ、「へえ」と感心したような声を上げて。

 恐らく、お互いにわかっているんだ。俺と酒匂には共通する感性がある。

 だからこそ酒匂は俺をここに呼んだし、さっきのような質問を投げてきた。

 つまりはそう――――




「あんた――――夢の世界のこと大っ嫌いだろ」




 酒匂がその碧眼をすっと細める。その仕草は、言外の肯定だった。


「例の『内覧』の時からずっと思ってた。あんた、言ってることは明らかに狂ってたけど……その言葉の中身を考えた時に、共感できなくはなかったんだよ。

 守れて当然のルールをなぜ守れないのか。現実よりもストレスの少ないはずの世界でなぜ罪を犯すのか。……確かにそうだな、って思ったよ。正直なところな」


 行動はイカレていたが、動機そのものは間違っていない。酒匂の言動に、少なくとも俺はそう感じていた。彼女の抱いていた静かな怒りはもっともなのだ。


「要はあんた、やれて当然のことをできてない奴が嫌いなんだろ?

 そんな人間が、夢の世界のことを受け入れられるはずなんてないんだよ。

 なんでって、この世界はなんだから。……違うか?」


 問うてしばらく、酒匂は俯き黙りこくっていたが。


 ……くく、という含み笑いを合図に、碧眼が真っすぐに俺を見つめてきて。

 そして、口の端を歪めながら酒匂は、堂々とした口調で言い放つ。


「ええ、そうよ? ――――こんな世界、存在していていいわけがないじゃない?


 だって、願ったことがなんでも叶って、なんの努力もなしに全てが手に入るのよ? それは確かに、ここに居続ける分には幸せなのかもしれないわ。けれど……その理に染まり切ってしまえば、二度と現実には戻れなくなる。

 なにかを得るために労苦を負う、そんな当たり前のことすらできなくなった人間を、社会は決して受け入れはしないわ。


 そして、そんな危険な誘惑に満ちた場所に――――。簡単に逃げ込めてしまうのよ? ……こんな馬鹿馬鹿しいこと、あっていいはずないじゃない?」


 その思考回路はやはり、いつかの俺の考えとよく似ていて。

 共感できる、できてしまう。だからこそ酒匂の考えが、俺には手に取るようにわかった。そしてそれは、酒匂の側も同じはずで。


「あんたが俺を野に放ったのも、カナメを排除したかったからだろ? あいつの『法典』が邪魔だったから。……こんな馬鹿みたいな世界をわざわざ安定させようとしてることが、どうしても許せなかったから」


「そうよ、その通り。私は、『法典』の存在を絶対に認めない。

 現実に耐えきれなくなって死のうとしたような連中にモラルや自戒を説いて、いったいなんの意味があるというの? それを守り切れなかったからこそ夢の世界に逃げ込んだのでしょう?

 結局は無駄なのよ、夢に狂うような連中に正しさや救いをもたらそうとする時点で間違っているの」


 熱の籠った口調で言い切った酒匂は、感情を溜めるように息を吸って。

 その碧眼が、妖艶に光る。白金色の前髪がはらり、と流れる。

 人指し指の添られた真っ赤な唇が、滔々と動いた。




「私はね、夢の世界を壊したい。

 跡形もなく粉々に、無残に、完全に破壊したいの。

 安易な逃げ場は毒でしかない。こんな世界を放置していては、現実の人々の精神が腐ってしまうわ。

 だから壊すの。壊さないといけないの。


 ――――ねえ、わかるでしょう? だって、貴方と私は似ているもの」




 差し出されたのは、真白い陶磁のような美しい左手。それはいざないだった。

 貴方と私は同じ。私と貴方は同じ。だからこちらに来なさい、と。

 黒の女王の手招きに俺は――――――首肯だけを一度、返して。


「そう、だな。……俺も確かに、ここのことはあまり好きじゃない。

 あんたの言うとおりだよ。夢の世界は人の精神をおかしくする。だからなくなった方が良い。そいつはきっと正論だ、なにも間違っちゃいない」


「でしょう? だったら――――」


「ああ。もしかしたら、あんたと手を組んでた未来も、あったかもしれない」


 差し伸べられた手を、静かに払い除ける。酒匂の目が、驚愕に見開かれた。


 ――――ああ確かに、あんたと俺は似ている。だけど、全く同じじゃない。

 あるいはこれがカナメと再開する前だったなら、もしかしたら手に手を取り合っていたのかもしれないが。

 今の俺は、酒匂冴の破滅的な考えをを真っ向から否定し、拒絶しなければならなかった。……なぜなら、そう。




「夢で生きてて、って言われたんだよ。だから俺は、あんたの手を取らない」




「……それは、カナメに言われたことかしら」


「そういうことだ」


 短く返したその瞬間に初めて俺は――――酒匂の戸惑いを見た。

 頭を小さく横に振り、瞳孔の開いた瞳で俺を見つめ、歪んで震える口元で彼女はむき出しの感情を吐く。


「――――間違ってる、間違ってるわ。それは貴方の意志じゃない。

 私、知っているのよ。『第二監獄』で英美里と話していたこと、聞いていたわ。

 夢の世界の仕組みを悟った貴方は自暴自棄に言っていたじゃない? 『屁理屈も理屈の内なんていう屁理屈がまかり通るのが夢の世界だ』って。

 そんな言葉、夢の世界を拒絶している人間しか口にしないわ……! 貴方だって本当は――――」


「ああそうだ、夢の世界が大嫌いだった。でも今は違う。ただそれだけの話だ」


「嘘、嘘よ、貴方はカナメに吹き込まれたからそう思っているだけで――――」


「いいや、違う。確かにカナメに言われたことも理由の一つだけど……違うんだ。

 俺はな、気付いたんだよ。俺の考えが間違ってたってことに」


「間違ってる? 貴方の考えが? 私の考えが? 間違っているというの?」


 こくりと首を縦に振って俺は、酒匂の理論に真っ向から立ち向かう。


「夢の世界は馬鹿馬鹿しい、間違ってる。あんたの言葉それ自体は確かに正しい。けどな、よくよく考えりゃそんなもん

 エロい妄想してる男の心を勝手に覗いて「不愉快だから止めろ」ってキレるようなもんだ。そもそも妄想なんてもんはいつだって馬鹿馬鹿しいし、間違ってる」


「そうよ! 人の本質は醜いし、その欲望は汚らわしいの! だから私は、そんなものが蔓延しているこの世界のことが許せなくて――――」


「それだよ、酒匂。世界って言葉。そいつが一等厄介なんだ」


 夢の世界と聞くと、それがあたかも現実と並行して確立している異世界かなにかだと勘違いしてしまいそうになる。

 けど、違うんだ。そうやって思い込むことが、なにより間違ってる。


「ここはなんだ? そう聞かれたら俺はこう答える。『ただの夢だ』って」


 そう、ただの夢。特別でもなんでもない、普通の夢。

 睡眠時の神経細胞が見せる幻覚。夢の世界なんてものは……初めから存在しない。

 俺はそう思う。俺はそう信じる。俺はそう、願う。


「他人と夢が繋がり合ってるなんて気のせいだ。一度入ったら出られないなんてのも嘘っぱち。しばらくしたらスマホのアラームがぴろぴろ鳴って、いつもの部屋でいつものように目が覚める。ここはそんな場所でしかない。

 世界なんて大それた言葉を持ってきて、馬鹿正直に是か非かを議論する意味なんてそもそもないんだよ。ここは夢、単なる夢だ」


「詭弁よ! 貴方だってここがただの夢でないことくらい分かって――――」


「いいや、分からないね。こんなクソったれに荒唐無稽な場所、夢以外のなにかであってたまるかよ。他の誰がどう認識していようと知ったことか。

 俺だけは、心の底から信じ抜いてやる。ここがただの夢でしかないってことをな」


 そうだ。ここがなんでも願いが叶う場所なら、俺の願いだって叶うはずなんだ。

 ならばそう――――ここは夢、ただの夢、幻でしかないと強く思い続けること、信じ抜くこと。それが、カナメに気付かされて、俺が出した答え。


 ――――夢は夢のままに。寝て起きて、目が覚めれば全てを忘れますように。


「理解できない」酒匂は激しく首を横に振って。「なら貴方は、この世界の理屈に侵されて腐り果てた人間を……そのまま元の世界に返しても、目覚めさせてもいいと言うの?」


「当たり前だろ。そいつだって、ここが単なる夢だったってちゃんと理解してるだろうしな」


「貴方、分かっているの……!? この世界に来るのは、考え得る限り最も卑怯で低俗な手段を使って現実から逃げるような、そんな連中なのよ? そもそも心が脆弱なの、腐りかけているの。そんな人間が夢の世界の毒に侵されて、まともに戻れるはずが――――」


「大丈夫だよ。寝て起きたら、どうせ忘れてる。なにせ、ただの夢なんだから」


 そう返せば、酒匂は鋭い目付きのままに黙りこくって。

 俺もまた、酒匂の碧眼をまっすぐに見つめ返して。


「貴方は、間違っているわ。夢の世界が内包する罪から、目を逸らしている」


「いいや、間違ってない。夢は夢でしかないってことを、素直に信じてるだけだ」


 お互いに毅然と言い切る。――――それは、完全なる決別の言葉だった。



 そして俺は――――恐らく酒匂も同じく――――悟る。

 弥代要太郎は酒匂冴の敵であり……酒匂冴は弥代要太郎の敵なのだと。



 偶然同じタイミングで、俺と酒匂はティーカップを手に取って。

 長い会話の中で冷め切った紅茶は、少し味が落ちてしまっていた。

 ちびちびと飲むのも性に合わないと、一気に中身を煽ってカップをソーサーに置けば……酒匂もまた、自分のカップを空にしたようだった。


「残念ね。私たち、仲良くできると思ったのだけれど」


「そうか? 半端に手ぇ結んだ後に喧嘩別れするよりよっぽどマシだろ。それに、理解はし合えたじゃねえか」


「……貴方、それ本気で言っているの?」


「もちろん。――――理解し合えないって事を理解し合えた。違うか?」


 問いかければ、酒匂はしばらく黙った後に、穏やかな笑みを浮かべて。




「私、貴方のことがとても嫌い」


「だろうな。俺もだ」




 そして、何事もなかったかのように俺は席を立つ。

 お互い、話すべきことはもうなにもなかった。


 ……ここから先、俺が『第二監獄』を出れば、酒匂とは不倶戴天の敵同士となる。

 酒匂は意地でも俺を捕えるか殺しに来るだろうし、俺の側は意地でもそれに抗うつもりだ。

 だが、今この時において酒匂はホストであり、俺はゲストなのだ。

 だから酒匂は俺を黙って見送るし、俺も酒匂に頭を下げて礼を言う。


「いろいろ世話になった。あと紅茶、ご馳走さん」


「お粗末様。お味はいかがだったかしら? 個人的には、リリアンの淹れるものに負けずとも劣らない自信があるのだけれど」


「あー、旨かったは旨かった。俺が言えるのはそれくらいだ」


「はっきりしないわね。そこまで繊細な舌をお持ちでない、ということかしら?」


「悪い、俺そもそもコーヒー派なんだわ」


「……つくづく、肝心なところで趣味が合わないわね」


 その言葉に、お互い苦笑し合う。

 こんな時間は、きっとこの先二度と訪れない。……そう感じたからだろうか。

 今しか言えないことがあると、ふと思い立って。


「酒匂」


「なにかしら?」


「――――ありがとう」


「……どういたしまして」


 その短いやり取りの中に、出来得る限りの感情を詰め込んで。

 応接室のドアノブに手を掛けて、部屋を出る。



 それから一度も、後ろを振り返ることはしなかった。








 <了>




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ドリーマーズ・ハイ、あるいは夢の世界における少年少女たちのサイケデリックな日々 畳屋 嘉祥 @Tatamiya_kasyou

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