4-9 弥代要太郎=兄
必死で、全力で、全てを掛けて――――カナメを、抱き留める。
懐かしい匂い。腕にかかる癖毛がくすぐったい。小さな体から柔らかい温かみが伝わってくる。薄まった感覚でもそれは、十分に俺の体と心を包んでくれて。
「いや、いや!」とじたばたと抗おうとするカナメだが、それでも俺の腕を振りほどけない。こんなにも傷だらけで満身創痍な俺の力から、カナメは逃げられない。
それはあるいは――――振りほどかないのかも、逃げないのかも知れなくて。
俺の腕の中で、カナメは泣く。駄々をこねるように、暴れながら。
「やだ、やだよぉ……っ! なんで? なんで私の傷を抉るの? 苦しんでるの見るの、そんなに楽しいわけ? もういや、いやあぁっ……!
私頑張ってきたでしょ!? 『市街』を守るためになんだってしてきた! やりたいこととか全部我慢して、皆のためになることいっぱいしたよ!? なのに、なのに! なんでこんな目に遭わされなきゃならないの!? おかしい、おかしいよぉっ!?」
その一言一言が、俺の胸に突き刺さる。
――――なんで俺は、もっと早く来れなかったのか。どうしてもっと早く、こいつを助けることが出来なかったのか。
悔いだ、悔いしかない。もっと早くにこうしてやりたかった。抱き留めて、黒い感情を受け止めてやりたかった。
でも、そうはならなかった。もしもの話に意味はない。だから、今は。
「カナメ、いいかよく聞け。一回しか言わない。……聞け、聞けッ!」
強引に目を合わせる。真っ赤な泣き顔のカナメを見ていると、胸が苦しくて。
カナメを泣かせてしまった責任は俺にある。だから俺は――――心が苦しかろうと、辛かろうと、こいつを立たせてやらなきゃならなかった。
「――――――俺は確かに、お前のせいで死んだのかも、しれない」
そう告げた瞬間、目の前のカナメは大きく目を見開いた後に……ぶわ、と大粒の涙をこぼし始め。
「あ、ああ、うあ、ぁあぁぁっ……!」声を上げて泣き始めるカナメを慰めたかった。大丈夫だと撫でてやりたかった。でも、今それは出来ない。
「な、んでぇ? なんで、そんなこと、いうのぉ……? わかってる、わかってる、けど……ひどい、ひどいよぉぉっ」
「泣くなっ! まだ話は終わってない! お前はそうやって思ったんだろ、って話をしてんだよ!
事実はどうあれお前はそう思った……! だから、お前は頑張ったんだろ!? 自分が間違ったことをして不幸になったから、ちゃんとした罰を受けてないせいで罪悪感に塗れたから、『法典』みたいなイドルムを生んだ! これ以上自分みたいな人を増やさないようにって! 違うか!?」
こくり、とカナメは泣き顔で頷いて。俺の言葉がこいつにしっかりと伝わっていることに安堵と喜びを抱きながら、声を絞り出し続ける。
「だから『市街』にも人が増えた、お前を慕って人が集まってきた! お前が正しいから! 守ってくれるから! それを信頼してみんな集まってきたんだよ! お前は良いことをした! 頑張ったんだよ、胸張れ! お前のおかげで今の『市街』があるんだよ! それは事実だ、だから――――――」
嗚咽を漏らして泣き続けるカナメと、真正面から目線を合わせて。
言葉が、思いが、奥まで伝わるようにと願いながら、祈りながら。
一言一言を噛みしめるように俺は――――伝えなきゃいけないことを、伝える。
「だから、もういい。いいんだよ。
――――お前はもう償った。お前はもう、こんなところに居なくていい」
――――きっと俺は、この言葉をカナメに言うためだけに、ここに来た。
……頬を伝う涙を拭ってやれば、カナメの表情からこわばりが抜けて。
戸惑いと安堵を綯い交ぜにしながらも、ぽつりと、カナメは呟く。
「……もう、いいの? ほんとに?」
「ああ。俺が許してやる。文句言う奴が出てきたら、俺がぶっ殺すから。
だから、いいんだ。苦しい夢なんか見なくていい。もうこれ以上頑張らなくてもいいんだよ、お前はっ……!」
呆然とするカナメの目を見て、しっかりと言い切る。断言する。
こいつは、なにもかもを背負い過ぎたんだ。それが自分の罪を雪ぐための唯一の方法だと頑なに信じ過ぎてた。
その自責の念も、終わりがあるなら救いもあった。だけど……弥代カナメを真に許すことのできる人間は、もうこの世にいない。だからカナメは、終わらない償いを続けていくしかなくなって……ずっと、苦しみ続けていた。
だから俺は、夢の世界に来たんだと思う。泣いてる妹を、助けてやるために。
それは、カナメ自身が無意識に助けを望んでいたからか。
あるいは……俺自身が、カナメを助け切れなかったことを悔いていたからなのか。
真実は分からない。ただ、今この時に俺の言葉がカナメに通じたのは――――カナメが助けてほしいと願って、俺が助けたいと願ったから、なのだろう。
そうして、呆然としていたカナメの瞳に、光が宿り。
そこで初めて――――そうだ、初めて。カナメはしっかりと、俺と目を合わせて。
「あ、ああ――――――にい、さん?」
そうカナメが言葉と涙を零した瞬間にようやく――――通じ合う。
弥代カナメ。たったひとりの妹がやっと俺を、弥代要太郎を、見つけてくれた。
自然と笑みが浮かぶ。素直に、心の底から、本当に……嬉しかった。
けど、それを全面に出せば兄の威厳が丸つぶれだ。だから照れ隠しと誤魔化しに俺は、カナメの額を軽く小突いて。
「気付くの遅えよ。つうかなんだよニセモノって。俺そんなに有名人じゃねえし」
――――瞬間に、カナメは涙と喜びを溢れさせて、俺に抱き着いてきて。
「うああ、あああぁっ……! にいさん、にいさんにいさんっ……! うう、うええ、うあああぁぁ――――――っ」
俺の胸に顔をうずめながら、わんわんと泣いて、感情を爆発させて。
そのことが俺は誇らしく、なによりも嬉しい。むき出しの感情をぶつけてくれて、それを受け止める役をまだ、情けない俺に任せてくれて。
――――ありがとな。また『にいさん』って呼んでくれて。
それを直接言うのは気恥ずかしくて、代わりに目一杯の力で抱きしめて、頭を撫でてやる。……するとカナメは、いっそう声を上げて泣き始めて。
「にいさん、にいさんっ……! 会いたかったの、謝りたかった……! ごめんなさい、私のせいで、私が――――ぁ痛っ!?」
なにやらまたマイナスの方向に考えが行きそうになっていたのを、頭を叩いて止めてやる。
涙ぐんだ瞳で『なんで?』と言外に滲ませながら見上げてくるカナメを愛らしいと思いつつ、できるだけ昔の口調を思い出して、おどけ混じりに俺は言う。
「お前、相変わらず人の話聞かねえな。言っただろうが、もういいって。
だからほら、いいかげん泣き止め。せっかくの妹との再会だってのに、キレ顔と泣き顔しか見てねえとか、兄としていくらなんでも寂し過ぎるだろ。だから、ほら」
そう言って、昔のように笑いかける。慰めていた時を思い出して、優しく頭を撫でつける。大丈夫だ、心配ないと、心を落ち着かせて。
すると、ゆっくりと顔を上げたカナメは――――涙にぬれた顔で、それでも満面の笑顔を浮かべて。
「ごめん……ありが、と、にいさん……っ」
「ったく、やっと笑ったか。……つって半分泣いてるけどまあ、良しとしてやる」
なんて言いながら、自分の声が震えていることに気付いて。
頬になにか、熱いものが流れたのを感じて。
情けないところは見せたくなかった。カナメにとっては久々に会う兄貴なんだから、最後までカッコいいところを見せてやりたかった。……なのに、だってのに。
――――……情けねえなぁ、俺。
鼻をすする。涙をぬぐう。無かったことにはできないが、せめて誤魔化そうと思って笑ってみる。そうすると……ぷっ、とカナメは吹き出して。
「……なにがおかしいんだよ」
「ふふっ……べ、べつに? なんでもないよ? うん、なにもなかった、私なにも見てないよ? …………ぷふっ」
「ああ、くそっ……! なんでこう、すんなり締まらねえかなぁ」
「そういえばにいさんがバシッと決め切ってるところ、私あんまり見たことない」
「はぁ? んなことねえし! お前が知らねえだけだし! こっちの世界でも結構頑張ったんだからな、俺!」
「知ってるよ、知ってる。だって私――――――助けてもらったんだもん」
言って、柔らかく優しく、カナメは俺を抱きしめて、穏やかに笑って。
それで全てが報われた気がした。正直言って、死ぬほど辛かったし、苦しかったし、実際に死にもしたけど……こいつの顔を見ていたら、もう苦労やら疲れなんてどうでもよくなっていた。
――――良かった。本当に、良かった。こいつを……助けることが出来て。
そして気付けば、カナメの体が燐光に包まれていて。――――ふわり、と光の粒が舞い……カナメの体が、透けていく。
「あ、れ? 私、消え、て――――――?」気付いたカナメが、戸惑いの声を上げる。それをなだめるように俺は、優しく言葉をかけてやる。
「消えるんじゃない。元に戻るんだ。目を醒ます時間ってことだよ」
カナメを起こす。現実の世界へ戻す。俺の願いは一貫していた。
だからこそ俺のイドルムは、夢を消す事に特化していたのだろう。より正確に言えば――――夢見がちな奴の目を覚まさせる。それこそが俺の能力の、本質。
そのイドルム本来の力が今、カナメに対して働いていた。つまりはそう――――夢を見るのは、終わりということだ。
「なんで? せっかくにいさんに会えたのに……! 話、できたのに! やだ、やだよ、私まだ行きたくないっ! にいさんともっと話したい!」
駄々をこね始めるカナメに俺は、言葉を選んで言い淀む。……こればかりは、どうしようもないから。
「あー……可愛い妹のわがままだからな、できれば聞いてやりたいけど。
……そいつは無理だ、うん」
「なんで、なんでなの!? 今だってこうやって話してるよ? なのにどうして――――」
「無理なもんは無理なんだよ。――――だって俺、もう死んでんだから」
その言葉はいくら冷たくとも、決して逃れられない事実だ。
カナメが夢の世界に来る前に、俺はとっくに死んでいる。過去は覆しようがない。
その証拠に――――俺の体も、向こうが見えるくらいに透けていて。
「にいさんっ、それ――――」と目を見開くカナメの心を落ち着かせようと俺は、ゆっくり語りかける。
「俺はな、お前を助けるためにここに来た。そのためだけに戻って来たんだと思う。だからまあ、あれだ。……お役御免ってやつだよ」
「やだ、やだよ……! せっかく会えたのに! 消えるなんてやだ! 消えちゃうなんてやだ! いや、いやぁっ!」
「聞き分けろって……! お前も本当は分かってるだろ!? 俺は本来ここに居ちゃいけないんだよ! 死んだ人間は、絶対に生き返らねえんだ!」
「知ってるよ! そんなこと、言われなくたってわかってる! 馬鹿にしないでっ!」
言い合いをしている間に、俺たちの体はどんどんと消えて行って。
――――なんで、なんでこうなる。最後くらい、笑って終わりたかったのに。……泣いて喚いて喧嘩別れなんて、最悪だ。
それでも俺は言葉を止められない。死んだ人間が平気で生きてる、そのことを本気で望むような状態のままで、カナメを現実へ返すにはいかないんだ。
そうしたらカナメは、もしかしたら――――戻ってきてしまうかもしれないから。この、欲と妄想に満ちた、一等悪辣な夢の世界に。だから――――
「だったら分かれよ! 俺は跡形もなく消える、お前は長い夢から覚める! それで終わりだ、そうじゃなきゃいけないんだよ……! 目を醒ますってのは、夢から覚めるってのはそういうことなんだッ!」
「だって、でも、でも、にいさんっ――――――」
これ以上聞き分けないなら――――と、手を上げようとしたその瞬間。
「私はっ、わたしは――――――幸せな夢のひとつも、見ちゃだめなの!?」
――――その心からの叫び声が、俺の胸の内を激しく揺さぶる。
「ここにきて辛いことばっかりだった! 苦しい夢しか見られなかった……! だから、みんなが楽しそうにしてるの羨ましかった!
だったら最後くらい……最後くらい! 幸せな夢を見させてよ! 本当に叶えたい願い、叶えさせてよっ!
だって――――たかだか夢なんだから! それくらいいいじゃん! それくらいのわがままも、許して、くれないの……?」
その言葉に俺は、気付く。――――こいつはもう、夢から覚めてるんだ。
願ったことがなんでも叶うなんて馬鹿らしいと、こいつはもう思い直してる。
優しくて温くて、甘い甘い毒の泥。駄目だと分かっていてもずっと浸っていたいと感じてしまうような、この夢の世界から、もう―――――心が抜け出してるんだ。
――――手のかかる妹だって、下に見てたのか、俺は。
馬鹿だ。大馬鹿だ。どこまでいっても情けない、正真正銘の馬鹿兄貴だ。
俺が諭すまでもなく、カナメはちゃんと目を醒ましてた。だからこそ願ったんだ。
――――せめて夢くらいなら、と。
「そう、か。……夢、だもんな」
「そうだよ。夢、なんだから」
そうだ。夢ってのは、この程度の位置のものなんだ。
現実でもなんでもない、不確かな場所。誰ともつながってない空想の世界。寝ている間にだけ見ることのできる、幻。
だからなにをしてもいいし、なにを思ってもいい。ただの夢なら、構わない。
カナメはそれを分かってる。だったらもう――――大丈夫なんだ。
こいつはもう、夢の世界には戻ってこない。こんな場所がなくたって、ひとりで歩いていけるだろうから。
「――――もう会えないけど、夢で生きてて、にいさん。
それが私の、最後の願い」
最後の最後に、今までで一番凛々しい表情で、カナメははっきりと言い切って。
俺はそれに応えるように、応えられるように……深く強く頷いて。
「ああ、わかった。……ったく、兄貴の俺よりカッコよく決めんなっての」
「にいさんはいい反面教師だったからね。というわけで先生、お世話になりました」
「うるせえ、最後の最後にかまして来てんじゃねえよ、ったく……」
「ふふっ、嘘。にいさんはいつでもカッコよかったよ?」
「へへっ、だろ?」
「……そこでそう返しちゃうから、最後バシッと決まんないんだよ?」
「…………痛いとこ突いてくるな」
言い合って、最後に笑い合って。腕の中で消えていくカナメをじっと見つめて。
カナメもまた、俺の瞳をじっと見つめ続けて。
本当の、最後の最後に。
カナメは、太陽のような笑みを浮かべて――――――
「ありがとう、ばいばい、にいさん――――――――――」
――――――――夢の世界から、跡形もなく消えていった。
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