第7話森の奥にて光が射して。

「かなり、深くなってきたね」


 自分の胸くらいまである木の根を乗り越えて、僕は荒い息を吐いた。

 木々の薫りは吐き気がするほど濃くなって、突き出した根や枝葉は容赦を忘れたように僕の足や顔を叩く。

 辛い旅路だ。乗り越え、時に屈み時に跳ぶ行き道で束の間の平地であっても、よろける足元が覚束無い。

 覚束無いけど、しかし、それは多分ここが平坦な草原であっても同じことだったろうと、僕は思っている。

 気付いている。

 僕の足が上手く動かないのは、きっと――。


「なあ、どうだいビクター。?」

「…………」

「君は良くやった。こんな奥地へは私だって来たことはない。まして君は目が見えない。手探りでの冒険にしては、あぁ、良くやったと思う」

「…………」

「嫌みでも何でもなく、素直に受け取って欲しいんだが。私は君を尊敬するよ。だから、どうだい。そろそろあの草原に戻らないか?」

「……駄目です」

「そんなことはない」

 八瀬さんの声は、ひどく真摯だった。「君が駄目だと思っていることは、君が思っているだけなんだよ。ビクター、私のビクター。君を縛るものは、世界には何もないんだ」

「駄目なんです、だって、僕は……


 そうして、僕は口を開いた。

 十二年間の思い、苦悩、そしてその果ての逃走。空から落ちたその果てに、この世界に落ちたことを、僕は正直に話した。

 開いてしまえば、秘密なんか何もない。僕は、空っぽの人生を淡々と語り聞かせたのだ。


「この森は、深みは。僕の迷いだ。何が正しくて何が間違いで、そんなことにも気付けない僕に与えられたバチなんだ。……反省しろって天使は言った。けれど、森は未だ続いている。!!」


 答えが欲しい。

 森を抜けて迷いを払って何処かへ辿り着きたい正しい答えを見付けたい

 だから、行かなくては。

 辛くても、苦しくても、何も見えなくとも、這いつくばってでも。正しさに、辿り着かなくちゃいけないのだ。


 額の汗が、頬を伝って何処かへ落ちた。

 僕は涙を流すことも出来ないから、だから、汗を掻くしか無い。

 頑張るしか、無いのだ。


「だから、僕は……っ!?」


 不意に。

 僕の身体を、細く長い腕が優しく包んだ。


「ビクター……君は、

「っ、それ、は……」

「なあ、ビクター。どうして、正しい答えを見付けたいんだい?」

「だって、それは当たり前じゃないか。生きる限り、答えを探さなくちゃいけない」

「いいや」

 八瀬さんが、優しい声で厳しく告げる。「そんなことはない。そんなことはないんだよ、ビクター」

「良いかい、ビクター。君が答えを探すことは、間違いではないよ、。迷いを晴らすのも、森を抜けるのも構わない。地獄に向かうというのも、まあ友人としては止めたいが、間違いだからとは言えない。君が、それを望むのならば。

 しかし、もしもそれを、誰かにかせられた義務だと思っているのなら、それは間違いなんだ」


 安っぽいスーツの布地が、ガサガサと僕の頬を引っ掻く。

 抱き寄せ、背を擦る手のひらは、触手の集まりみたいに細く冷たい。

 けれども、とても優しい。


「良いんだ。君を縛るものなんて、この世のどこにもありはしない。望むままに生きて、求めるままにまあ、死んでも良い。答えを出したければ出すのも構わないし、出さなくたって構わないんだよ。

 この森が、迷いだと言ったね。迷って何が悪いんだい、ビクター。私は元々森にいると伝えられている。迷いの中に生まれて、迷いの中で生きている。それだって、構わないんだよ。

 迷わない人間なんていないし、答えを求めない人間なんていない。答えを見付けられる人間ばかりではないし、問いに気付かない人間も数多い。どちらだって正しくて、どちらも等しく間違えている。

 ねえ、ビクター。這ってでも答えに向かうというのは素晴らしいことだけど、別に休んだって構わないんだよ。生きるのは辛いことじゃないんだ。君は……辛く生きているだけなんだよ」

「でも、僕は、特別じゃない」

「特別なんて、君自身の力で成れるものじゃない。誰かが、君を特別にしてくれるものなんだ。それは愛だったり、或いは憎しみだったりするだろうけれど、けして一人では成り立たない。

 ビクター。君は良く頑張った。頑張りは、素晴らしいことだよ。だけど、頑張らなきゃいけない訳じゃないんだよ。楽をすることは、楽するために努力することは。けして、悪いことじゃないんだ」

「僕は……」


 僕は。

 特別じゃなくても良いのか。迷っていても、悩んでいても良いのか。

 頑張らなくて、良いのだろうか。


「少なくとも私は、今の君の言葉遣いの方が好ましいと思うよ。そして、それを積み重ねていけば、きっといつか、誰かの特別にしてもらえるさ」


 ――だから、今は良いんだ。

 そう言って、八瀬さんは優しく僕の頭を撫でた。

 伽藍洞の目から汗を流しながら、僕は、随分と久し振りに泣いた。涙を受け止めてもらえるということがどれ程特別か、僕は改めて思い知った。

 生前は、どうだっただろうか。

 僕は泣かなかった。もしも泣いていたら、両親は、級友は、抱き締めてくれただろうか。

 最早、今更の問いだ。そして今更ついでに、僕は僕の生前に関わった全ての人々に叫んだ。


 ――ごめんなさい。僕は、とてもとても愚かでした。僕は僕を追い詰めて、そして僕を殺しました。ごめんなさい、ごめんなさい。


 何もない眼球から、涙が溢れる。

 映すものの無い視界に、光が見えた気がした。その光はどんどん大きくなり、そして、僕を呑み込んでいく。

 ……気のせいじゃあ、無い?



 何処かで聞いたような声が響き。

 優しい手、暖かな言葉僕の特別夢幻フィクションのように消えて。


 ――僕は、現実平凡に舞い戻った。

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