第2話草原にて目覚める。
「っ、ん……」
鼻先をなぶる感触と共に、僕は目覚めた。
同時に、鼻腔の奥まで緑色の匂いが貫いて、僕は顔をしかめた。どうも、草原の上に直接寝ていたようだ。
鼻だけではない、耳には風に揺れる木の葉の軽い音が響いているし、起き上がるために付いた手は、ぬかるんだ柔らかい大地に押し返された。
周囲を包む、都会育ちの僕には馴染みの無い自然の気配。
確かめたいところだったが、どうも今は夜らしい。僕の視界は、まるで瞼を開けていないかのように、漆黒の闇に閉ざされている。
「……僕は……?」
どうして、こんなところにいるんだ。
僕は、死のうとしていたはずだけど。高いビルの上から、重力に身を任せたんだ。
それとも――死んだのか。
死んで、そして、ここは死後の世界なのか? 天国というやつだろうか。話にしか聞いたことはないし、行って帰ってきた人の話も聞いたことがないから、解らないけど。
そこまで考えて、僕は、自分の馬鹿さ加減に思わず笑ってしまった。
流石は焦げかけた脳味噌だ、落ちていたとき、誰に会ったかもう忘れたのか。
『君には、バチを与えるよ?』
天使の声が、鮮明に甦る。
ある意味で貴重な体験と言えるだろう、何せ僕は、天使に直接宣告されたのだから。
ここは、きっと地獄だ。どれほど無価値な命だとしても、命を粗末にした僕の行き先なんて、そこしか無いのだから。
【下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ】
「これはこれは、驚いたな」
「っ!?」
こちらの台詞だった。
力が抜け、背の高い草が生えた地面に座り込んでいた僕は、突然響いた声に、飛び上がらんばかりに驚いた。勿論それは例えだけれど、それでも反射的に腰を浮かせた程には、取り敢えず驚いたのだ。
途端に、ぐらりと足元が揺れる。
目の前に翳した自分の指さえ見えないような暗闇で、いきなり飛び起きたりした僕は、当たり前のように体勢を崩したのだ。
足がもつれ、懐かしい重力に引かれる感覚に体が包まれる。
転ぶ、と僕は確信する。
出来れば手を就きたいところだが、見えなくてはそんなタイミングは掴めない。
距離やタイミングを間違えてしまえば、逆に手首を痛めてしまうだろう。僕は運動神経が良い方ではなく、寧ろ鈍くさいと評される側の人間だったため、こういう場合に何をしてしまうとより酷い怪我をするかは良く解っている。
それでも、肉体は反射的に手を伸ばした。何も見えない暗闇に希望を探して、すがりつくように。
これまで何度も伸ばした手。
何処かに、何かに。或いは誰かに引っ掛かったり、引っ掛からなかったりしてきた、救いを求める手。
「危ないっ!」
それを、掴んでもらったのは、きっと初めてだった。
力強い指が僕の手首に絡み付き、グッと勢い良く引く。緩やかな落下は、逆方向の加速にあっさりと屈して、地球は僕を手放した。
よろけながら、僕はどうにか踏み留まる。
それに安堵したかのように、五本の蔦も僕の手首から離れていった。
「危なかった」
男性の声が、柔らかく僕に注がれた。「危なかったよ」
「ありがとう、ございます……」
声の聞こえる方に、取り敢えず僕は頭を下げた。この闇では、見えないだろうけれど。
それでも声は、嬉しそうに弾んだ。
「良いんだよ。と言うよりも、いきなり声を掛けて驚かせてしまった私が悪いのだからね。すまなかった、怪我はないかい? ……あぁ、どうやら無いようだね」
「えぇ、まぁ……」
多分、無いだろう。
見えないから確認のし様がないけど、とにかく痛みは無い。出血するような衝撃もなかったし、足も捻っていないし。
僕の言葉に、声は解りやすく安堵して、そして、いきなり遠ざかった。
「いやあ、そうかそうか。良かった良かった。話せる子供というのは良いことだからね」
立ち上がったのだとは、周囲の空気の流れと土を踏み締める音で解った。
子供の背よりも大人は大きい。だから、声が上から聞こえてくるのだろう。それにしても、随分と大きいようだけど。
そもそも、声の主は何歳くらいなのだろうか。僕のことを子供と呼ぶのは大体の大人なら当たり前だけど、この声は、若いようにも年老いたようにも聞こえる。
日差しに晒された魚の干物のように乾ききった老齢さを感じたかと思えば、水を得たように生き生きと弾む。顔の見えない闇夜では、恐らく男だということしか解らないのだ。
それでも、僕の手首には未だにあの感触が残っている。
転びかけた僕を支える、細くも力強い指の感触。これが残っている限り、僕は、声の主に悪意を読み取ることは出来ないだろう。
「それに、君は笑っていた」
「え?」
「良い笑顔だったよ、それで思わず嬉しくなったのだからね。というのも私はあまり、子供の笑顔を見ることが少なくてね」
僕は、違和感に数度瞬きした。
瞬きした感覚はあるが、世界は変わらず闇のままだ。
暗闇で目を開けているのと、閉じているのとでは、実は見え方に違いがあると聞いたことがある。それなのに、瞼を閉じても開いても、僕の視界は一切の変化をしない。
おかしいと、僕は初めて思った。
声の主の口振りからして、彼には僕が見えている。だから不用意に声をかけたのだろうし、転びかけた僕にいち早く手を伸ばすことが出来た。
怪我の有無も、見て確かめた。
今も、高いところから僕のことを楽しげに見ている。
僕は、手を目の前に翳した――見えない。
見えない、何も、僕の目には何も映らない。
『太陽を直接見てはいけないと言われたことはないかな?』
天使の言葉が甦る。
『どうやら眼球が燃えているようだけど』
甦る。甦る。甦る。
翳した手を、恐る恐る顔に近付ける。ゆっくりと、慎重に、眼球に近付けていく。
指が、瞼をなぞる。意を決して、僕は指先に力を込めていく。
生暖かい肌は一瞬穏やかに抵抗し、そして直ぐ、僕の指を受け入れた。
「っ……!!」
僕の理性の大半が予想していた通り。
指は何にも触れること無く押し込まれ。僕の眼窩には、ただただ虚ろな闇が拡がっているだけだった。
僕の夜は、どうやら、けして明けないようだった。
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