第3話何処此処其処彼処

 想像されるよりも遥かに薄い衝撃をもって、僕は自らの永遠の夜を受け入れた。

 背景には、やはり天使の言葉が大きい。神様の遣いそのものにバチを宣言されている以上、充分起こり得る欠落と思えたからだ。

 寧ろ、地獄の責め苦として考えるのなら、失明はいっそ生温いとさえ言える。日本の地獄は確か、永遠に死と再生とを繰り返す機能システムがあった筈。眼球を無くすにしても、抉られては生え抉られては生えを繰り返す可能性はけして低くない。


 失ったらそれっきりというのは、それなりに救いだ。少なくとも、積極的に命を失おうとする人種にとっては。


「そんなものなのかな」

 見下ろす声は不思議そうだ。「私の知る子供というのは、自分の体の一部が無くなれば泣き叫ぶものだけれどね」

「僕は、どっち道お先真っ暗と思っていましたから」


 だから自殺したのだ。

 目が見えていれば、なんて思うような事もなく、見たいものがあるわけでもない。

 ふとした拍子に見せ付けられる己の平凡さを二度と見なくて済むというのは、望むところでさえあるのだ。


 成る程ね、と声は存外容易く納得した。


「私としても、喜ばしいけれどね。君の目がもし見えていれば、私と会話などしている場合ではなかったろうから」

 笑い声が混じった声は、自分自身を説得するように繰り返した。「喜ばしい、喜ばしいことだ。とても、とても」

「貴方は」

 その口調が喜びと、深い悲しみを湛えているような気がして、僕は尋ねた。「というやつですか?」


 ここが地獄なら、そこには必ず鬼がいる。

 未だ手首に残る指の細さを思えば、広く知られている想像図通りの鬼とは違うだろうけれど、地獄の住人といえばやはり、鬼だ。

 しかしながら、僕の中には全く違う予想も生まれている。鬼ではないか、という推理に比べて、根拠の弱い勘としか呼べないような予想ではあるが、魅力的だ。

 多くの場合、人は理詰めの予測より情を孕んだ予想に傾倒する。そして理屈通り失敗して、社会とかいう誰も知らない何かに責任を押し付けるのだ。


 今回の場合は、珍しく勘が理屈を凌駕したようだ。彼の口からは不思議そうな声が返ってきた。


「えっと……」

 僕は言い淀んだ。ここは地獄ですよね、とは尋ねにくい質問だ。「……筋肉質で、角が生えていて、その」

「角。ふむ、デーモンのようなものかな?」

 バタバタと、彼が動く気配がする。「確かめては見たが、角はないようだよ。見てもらえれば一目瞭然なのだがね」


 おどけた調子の声に、内心で僕は安堵の息を吐いた。気分を害しては、いないらしい。

 大人にしては随分と、器の広い人だ。少なくとも僕の人生において、これほど長く話して怒り出さない人は居なかった。

 彼は、僕を子供だからと軽率に扱ってはいない。安易に低く見たり、過度の遠慮もしていないのが良く解る。


「……子供が、好きなんですか?」

「あぁ、とても」

 声は予想通りの答えを紡いだ。「とても、とても好きさ。私のことを探し回る子供が居たときには、感動したものだよ。……には、居ないがね」


 寂しげな声に変わった彼には悪いけれど、僕にとっては良い話の流れだ。

 地獄だろうと簡単に納得していたけれど、どうも様子がおかしい。今時、釜茹でとか剣の山とかを想像していた訳ではないけれど、こんな和やかな草原が地獄とは思えない。


 ここは、どこだ。


 本当ならば目覚めて直ぐに考えるべきことを、僕は漸く考え始めたわけだ。

 何とも、悠長な話である。未だ、挽回の利く悠長さではあると、思いたいが。

 僕の質問に、彼は「ふむ」と呟いた。


「これもまた、驚いた。随分と落ち着いているなと思っていたが、まさか、何も解っていないとは。驚いた、驚いたよ」

「当てが外れた、と言いますか……どうも、僕の想定していた場所ではないようなので」

「先ほど言っていたオニデーモンという言葉から察するに、あまり良い想像をしていなかったようだね」

「はい」

「ふむ。ふむふむ、だとするなら、。とても、とても」

「喜ばしい?」

「ここは、【中庸の草原シグナルグリーン】。この世でもっとも安全なところだ」


 シグナルグリーン?

 聞き覚えの無い地名だ。それに、安全とはどういう意味だろうか。


「死ぬ危険の無い土地、ということだよ。私がいる時点で多少は誇大広告と言わざるを得ないが、確かに、

「……国は? ここは、なんという国何ですか?」

「さあ。何人か王子さまに会ったことはあるけどね。誰が王さまなのか、私は知らない」


 僕は、あっという間に聞くべき内容を無くしてしまった。

 王子様がいる時点で、ここは日本ではない。

 日本ではない土地で草原と言われても、僕には候補すら挙げられないだろう。

 強いて言えば、取り敢えず言葉は通じている、ということだけ。それだけでここが日本だと、楽観的にはなれない。


 僕は、死を選んだのだ。

 自殺寸前の僕を拾い上げ、目が見えなくなったのをいいことにからかっている、という可能性は低いだろう。

 そこまでする価値は、僕には無いだろう。


 だとすると、果たしてここはどこなのか。

 そこでふと、僕は彼の言葉を思い出した。


「……死ぬ危険の無い土地、ということは。死ぬ危険の土地もあるんですか?」

「ん? あぁ、それは勿論幾つもあるよ。幾つも、数えられないくらいある」

「そこへ、行きたいんですが」


 ここは、地獄ではない――

 地獄があるとしたら、それはきっと、危険な土地だ。

 僕は、天使にバチを与えられたのだという。ならば、地獄に行くのが筋というものだろう。


「うーん。それは危険だよ、すごく危険だ。きっと、君は死ぬ。死ぬよ、君は」

「大丈夫です、何しろ、お先真っ暗ですから」


 既に僕は死んでいるのだから。今更、何を恐れることもない。


「どうか、道だけでも教えてくれませんか? そうしたら、這ってでも行きますから」

「そう言われて、はいそうですかと送り出せはしないよ。全く、参ったな。君、実は私のことを見たりしてないよね? 精神錯乱してない?」


 やれやれ、と不満げな声を出しながら、僕の手に指が巻き付く。細い、けれども力強い手が僕の手を取ってくれた。


「案内してあげよう、なるべく危なくないようにね」

「あ、ありがとう、ございます」

「ふふ、そう言われるのは悪い気分ではないね。悪くない、良い気分だ」

「……あの、ところで、貴方の名前は……」


 ん、と声は予想外の質問を受けたように固まった。

 それから、少し悩むような間の後で、静かにこう言った。


「【】」

八瀬やせ……さん?」

「それで良いよ、普段さして呼ばれる身でもないから。その代わり、君のこともあだ名で呼ばせてもらおうかな。……そうだなあ、ビクターなんてどうかな? 私に縁のある名前なんだ」

「はあ、構いませんけど」


 別に、名前なんて単なる記号だし。

 そう言えば、あだ名を付け合うなんてこと、今までしたこと無かったなと、ほんの少しだけ、思っただけだ。


 彼、八瀬さんも、嬉しそうな声だ。


「良し、では行こうビクター。ビクター、着いておいでビクター」

「…………」


 まるで、犬にでもなった気分だ。

 それでもきっと、僕には不釣り合いな変身だろう。

 自ら死を選んだ僕の、死後の世界は、ただ地獄であるべきなのだから。

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