第4話森へ。
草原は、安全さを売りにするだけあって、平坦で歩きやすい。
他に動物もいないようだ。時折八瀬さんが、「石があるよ、気を付けて」と呼び掛けてくれる以外には音のしない、静かな旅路だ。
顔で柔らかな風を感じるだけの、心地の良い静寂。人が増え、人の乗り物が増え、テレビで離れたところに音声を送る僕の世界においては、誰の声も聞こえない場所はほとんど無い。
落ち着く、けれど同時に、僕は八瀬さんの喜び様と親切心の裏を感じる。
いや、裏などと大袈裟な言い方をすることもないだろう。単に、これほど静かなところにずっといたなら、人恋しくもなるだろうな、と思っただけだ。
多分だけど。
例え僕が子供でなかったとしても、彼は喜んだのではないだろうか。
子供好きというのも嘘ではないだろうけれど、それ以前に彼は、きっと人が好きなのだ。
僕とは、違う。
「もうすぐ、森に入るよ」
不意に、八瀬さんが口を開いた。「森だ、木が一杯生えている。根っこだらけだし、凹凸も激しい」
「森が、危険な場所なんですか?」
「森も危険な場所だよ」
八瀬さんは律儀に訂正してくれた。「とてもね。とても危険だ」
少し。
ほんの少しだけ八瀬さんは沈黙した。足も止め、僕はうっかりその長い足にぶつかってしまった。
父親と同じような、スーツみたいな生地が顔を擦った。懐かしいような、そうでもないような感触だった。
「ねぇ、どうだい。ここらで冒険は満足だろう? 切り上げて、草原に戻らないか? まだ君に見せていない――これは比喩表現だが――ものが沢山あるんだ」
声は、必要以上に明るく聞こえた。
この先に行かない方が良いと、戻った方が楽しいと、優しい忠告が嬉しく、けれども寂しかった。
僕は、優しくしてもらう価値なんか無いのだ。
「僕は行きます。それが、僕の運命というものです」
「運命だなんて!」
大きな声が、大袈裟な嘆きを演じる。「そんなものは、君みたいな子供には関係の無い言葉だ。私じゃあるまいし」
「貴方は、運命を信じないのですか?」
「信じるとも。信じなければ、君を案内などしないさ。私は、【連れ去る者】だ。そういう役割なんだよ」
「役割に、支配されているのですか?」
「幸いにもね。何の役割もないことがどれほど辛いか、君にも解って貰えたら良いが」
僕は。
僕には、そんな運命みたいな役割は無かった。課せられた
仕事が無ければ、帰るべきだ。いつまでも残業などせず、さっさとおさらばするべきだ。
僕はそう思い、そして退社したのだ。
「まあ、そうだね。仕事を振られないというのは、生き甲斐を感じないという意見は良く解るよ。この世のどんな役割だって、『これさえやっておけば良い』という免罪符にはなり得るのだからね」
八瀬さんは寛容だと、流石に僕にも解る。
録に社会に出たことの無い子供の戯れ言だと、笑い飛ばすか怒っても良いような言葉だ。
八瀬さんは、そうしなかった。
「君は、神を信じるかな?」
唐突に、八瀬さんが尋ねる。「別にどの宗教でも構わないけど。信じるかな、神という存在を」
「殊更に意識して生きては来ませんでしたけど、今は、居るかもしれないとは思っています」
「それは結構、話が早い。……世界には多くの神が居て、それぞれに宗教があるわけだけど、その殆どにおいて、神は人に禁止を言い渡す。汝殺すなかれ、とかそういう奴をね」
牛を食うな、殺生をするな。決められた時間の礼賛を欠かすな、肌を晒すな。
神は気難しい。時として、酷く無関心なのに、だ。
「例えばだ。君が信じる神の禁止を破る役割を与えられたら、どうする?」
「え……?」
「君の人生は、例えば牛を食べるためにあったとしよう。歩く牛を殺し、血を抜いて皮を剥ぎ、肉にかぶりつくのが君に定められた運命で、それさえしていれば良いのだと言われたら? 君の信じるところの神が、汝牛を食べるなかれ、と言っていたとしたら? 君は、神と己とどちらを裏切るかな?」
「それは……」
「牛ではなかったらどうかな。それが例えば――君と同じ人間であったなら?」
「…………」
「この世には、祝福されざる役目もある。……かつて、私の知る最高のひねくれ者が言っていたよ。神は瓶で蟻を飼っている餓鬼だ、とね。それは流石に極端だが、しかし真理でもある。神は、全ての人間に最適な試練を与えるわけではない」
それでも、と八瀬さんは言外に問い掛けた。
それでも君は、特殊な運命に憧れるのかい、と。
僕は。
平凡で平坦で平均的な、僕は。
「……さて、ここからは森だよ、ビクター」
答えを待たず、そもそも質問すらしていないのだから当たり前だが、八瀬さんは呟いた。
その声には、不謹慎な高揚が感じられた。
「君の望む、地獄の入り口。【
繋がれた手は、熱狂とは無縁の冷たさだ。「塔が出るか、或いは甘い家か。君の運に期待するとしよう」
「……
「火だ」
「火?」
「ここを、何処かの旧き支配者の森と勘違いした生きた火と出逢うことだよ。そうなったら、すまないが君は死ぬ」
僕は肩を竦めた。
「そうだとしたら、それが僕の役割だったというだけです」
「子供は役割を振られない」
驚くほど強く、八瀬さんは否定した。「振られないのが、子供なんだ。良くも悪くも、運命を拒絶するのが子供というものさ」
「……では、神も拒絶しているのですかね」
「そうだろうとも。そして、それを僕らにも求めている。……さあ、行こうか、ビクター?」
僕は頷くと、一歩前へと踏み出した。
思わず、八瀬さんの手を強く握る。未だ得体の知れない相手ではあるが、それでも、僕と対等に話してくれる唯一の大人だ。
彼は、自らを【連れ去る者】と規定している。その行く先が何処にしろ、地獄を目指す僕には、きっと不釣り合いな場所だろう。
握った細い指も、同じくらい強く握り返してきた。同じくらい不安に感じているのか、それとも、僕を逃がさないためだろうか。
どちらも同じことだ。
僕らは確り手を繋ぎ、安全から危険へと踏み出した。
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