第5話出会ったのは過去の遺物
「あら、あらあら?」
その、妙に上気したような声が掛けられたのは、僕が通算で十三本目の巨大な根っこをどうにか乗り越えた時だった。
森と言うだけあって、草原とは比べ物にならないほど歩きにくい道筋は、僕の体力を著しく奪っていた――少なくとも、声を掛けられるまでその誰かに気付かないくらいには。
僕と同様、いや、僕を連れていることを考えれば僕以上に疲れていたであろう八瀬さんも、その時点で漸く気が付いたようだ。
鋭い舌打ちの音が、八瀬さんから溢れる。
「……【塔の乙女】」
その声音は、今まで聞いたこともないくらいに厳しい。「なぜ此処に? 君は、出不精なタイプだと思っていたが」
「あら、居たの」
応じる声は、冷ややかだ。「【痩せぎす男】、【連れ去る者】。伝説を持たない与太話がこんなところをうろつくなんて」
「
八瀬さんと声の主――恐らく少女だ――はあまり、仲が良くないようだ。
そして、それほど頻繁に出会う間柄でも無いらしい。
「……その通りだよ、ビクター。彼女は出歩くような役割ではない。待つのが彼女の在り方なのだ」
「でも、出て来てる。……僕の運が悪かったのですか?」
「いや、彼女の物語が進んだのだろう。降りる段階なのだよ、そうだろう、元【塔の乙女】よ?」
「不愉快ではあるけれど、その通りよ【痩せぎす男】。私は、王子様を探していたの」
「……いた?」
【塔の乙女】とやらの不自然な言葉遣いに、僕は首を傾げる。「いる、じゃなくてですか?」
「えぇ、探していたの。私は私を愛するしるしを持った、私だけの王子様を探していたのよ」
過去形で話す声は、歌うように軽やかに、僕の目の前に近付いたようだった。
僕の顔を覗き込むような、気配。僕は反射的に仰け反り、黒い気配が音もなく割って入る。
「……何事かね、【塔の乙女】。私のビクターに何か用件でも?」
「言ったでしょう。理解の遅い男は嫌われるわよのっぺらぼう。その時代遅れのスーツもね」
「君たちヒロインに言われるとは思わなかった。いい加減君たちも、ドレスで外出する癖はどうにかしたらどうかな」
「お前の意見など聞かない」
絶対零度の声は、直ぐに機嫌良く反転した。「貴方の希望なら答えるわ、
「
僕は、驚きの声を隠せなかった。「僕が王子様だって?」
何度も言うが、僕は平凡な子供だ。
王子だなんて、冗談じゃない。
「いいえ、貴方は王子様、私の愛しい王子様。その目がしるしです」
細やかな絹が、僕の頬を撫でた。驚くほど滑らかな手触りの、今のは手か?
「私の塔へ挑み、魔女によって茨の茂みに落ちた王子様。その時に、目を失った」
絹は僕の頬から登り、空っぽの眼窩を探検する。「愛しい人……」
うっとりと、夢見るような心地の声を紡いでいた唇から、不意に無作法な舌打ちが漏れた。
手が離れるのと同時に、僕の眼前を風が切り裂いた。肌がひりつくような鋭い気配が、僕の前に立った。
「いい加減にしたまえ、お嬢さん。私のビクターを妙な妄想に巻き込むな」
「そっちこそ、いい加減になさいな背い高ノッポ。妄想とは根拠の無い空想を言うの。私のは違うわ、だってほら、その子は目玉が無いじゃない」
「彼には彼の事情がある、落とした場所を聞いてみないと」
「必要ないわ。私の王子様は、私への愛を証明するために目玉を無くした。目玉が無いことが、私への愛情の証明よ」
立ちはだかる八瀬さんの背から放たれる気配に応じるように、周囲の地面がざわつき始める。何か――蛇みたいに細長い何かが、僕らの周りを這い回っているようだ。
その発生源がどこなのか、想像できないほど僕は愚鈍ではない。
「私の王子様は目玉を無くした。私への愛のため。その子には目玉が無い、だから私の王子様。証明終了、でしょう?」
「……
「それでも、証明だわ。証明されたものは良いものでしょう? こちらにいらして、王子様? 貴方の証明に、私も愛で答えましょう」
僕は少し悩んで、それから、八瀬さんの足にしがみついた。
布、少女の言葉を信じるのならスーツに包まれた枯れ木のようにほっそりとした足は、濁流の中で立つ橋のように力強い。
僕の頭を細い指が、安心させるように優しく撫でた。
「私のビクター、君の信頼に、私も成果でもって答えよう」
「愚かな、たかだか二十年の創作物が、私に勝てるとでも?」
「やりようによる。何故ならば、私は【連れ去る者】だからね。子供を連れていくのはお手のものさ」
「【痩せぎす男】、お前、まさかっ!!」
「自分の王子様を探すのだな、【塔の乙女】。君が待っていた者は、きっと君を待っているだろう」
何処か優しさを含んだ気配が、僕の体を包み込み。
少女の声が、歪みながら遠退いた。
【下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ】
「……すまなかったね、ビクター」
「え?」
気がつくと、僕らは全く違う場所にいた。
八瀬さんが、連れてきてくれたのだろうか。だとしたら、すまなかったなんて謝る必要はないと思うのだけれど。
「そういう話じゃない。案内すると言った以上、私が君を守るのは当然だ。そうではなくて、私が言いたいのは彼女のことだ」
「彼女の?」
「……彼女は、かつてある塔に住んでいた。入り口も階段もない、彼女の長い髪を伝うしか入る方法はなかった塔だ。そこで彼女は、魔女と二人で暮らしていた」
唐突に始まった他人の昔語りに、僕はとにかく耳を傾けることにした。
全く知らない人の、何処かで聞いたようなお話を、僕は静かに聞く。
「慎ましくも穏やかな暮らしが破れたのは、一人の王子様の登場だ。魔女の振りをして彼女の髪を登った王子様は、何も知らない無垢な乙女に外の世界を教えた。ついでに、色々な事もね。彼女は恋に落ち、彼は塔から墜ちる羽目になったのだ」
「そこで、王子様は失明した、んですか?」
「その通り、そして、魔女から追い出された彼女はご覧の通り、王子様を探しに出たというわけだ。……嫌な話、だろう?」
僕は首を傾げる。
「彼女は、君が好むところの特別だった。昔はね。【塔の乙女】という呼び名からも解ると思うが、彼女の特別は正しく塔に住んでいるからこそだ。髪を切り、そこを降りてしまったら、最早彼女は特別ではない」
「……それは」
「彼女は、恋のために特別を捨てた。君が焦がれ続け、願い続け、そして諦めた特別を、いとも容易く。まるで、何の価値も無いと言うように、容易くね」
「…………」
「君は、ビクター。それを許せるかな?」
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