第6話甘い家から辛い家へと。
森は更に続いている。
押し寄せるような緑の薫りは息苦しいほど濃くなり、かなり奥地へ来たことを伝えている。木々の間隔は狭く、大地の凹凸は激しくなり、僕は幾度も身体をぶつけたり転んだりした。
八瀬さんは、先導してはくれるけど転ぶのを防いでくれたりはしない。彼は優しいが、甘やかすタイプではないようだ。
それでも、これだけ転んで怪我ひとつしていないところを見るに、本当に危ないときにはさりげなく助けてくれているようだ。
甘いと言えば、充分甘いか。
「しかし、先程は驚かされたよ」
音もなく進みながら、八瀬さんが呟いた。「驚いた、驚いたよ」
「何がですか?」
僕は足元の小枝をバキバキと踏み荒らしながら、それに負けないように声を上げた。「あの【塔の乙女】さんは、そんなに珍しいのですか?」
「いや。王子に出逢った後の彼女ならば、旅もまた良しだ。出会したのは運が無かったが、驚くほどの出来事ではないよ。驚いたのは、君の口調さ」
「口調?」
「よほど驚いたのだろうね、随分と子供らしい口調だったじゃあないか」
「それは……」
それは、仕方がないだろう。
僕くらいの人生経験しかない人間が、初対面の相手にいきなり『愛しい人』だなんて声を掛けられたら、それは不意を突かれるというものだ。
不意を突かれたら、化けの皮くらい剥がれるというものだ。
僕は、人間に大切なものは礼儀だと思う。
親しき仲にも礼儀あり、だ。どんな相手でも互いに礼儀を考えた方が良いし、そうすべきだ。そして、最も簡単に表現できる礼儀は、やはり言葉だと思う。
敬語は礼儀正しい言葉遣いだ。
礼儀正しいことは、正しいことだ。
「まあ、どちらが良いとも言わないが。ただ新鮮だったなと思ってね」
だから、全く僕は悪くない。
その筈だが、何処と無く寂しげな八瀬さんの言葉に、僕は何故か居心地の悪い気持ちを味わっていた。
【下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ下へ】
「……動かないでくれ、ビクター」
唐突な言葉と急停止に、僕はワッと声を上げた。
正直に言って、考え事をしていた。正に気もそぞろ、どれくらい歩いていたのかさえ記憶にないほどだ。
ただ、現実に復帰してみると、中々足が痛い。たぶん、結構歩いたのだろう。
立ち止まると、途端に汗が沸き上がってきた。額に浮かんだ汗を拭おうとして、動くなと言われたことを思い出して諦める。
「……そこで止まれ、【魔女殺し】よ」
いきなり物騒な呼び名が、八瀬さんの口から飛び出した。
魔女というのも勿論驚いたが、まさかの【魔女殺し】だ。ということは詰まり、魔女よりも恐ろしい相手ということだろう。
先の【塔の乙女】との会合、彼女の纏う鋭い気配が、脳裏に甦る。
何が起きていたかは解らないけれど、きっと僕は死にかけたのだろう。八瀬さんが居なければ、確実に死んでいたはずだ。
乙女なんて柔らかい呼び名でさえそうなのだ。今回は、より不味いと思うべきだろう。
身を固くする僕は、全神経を耳に集中する。何が起きるか解らないが、気を付けなくては、死ぬ。
身構える僕の、唯一の外界認識器官が捉えたのは、二人分の足音だ。
そして、拍子抜けするほどに幼い声が、楽しそうに響いた。
「あら、ごきげんよう【痩せぎす男】さん。こんなところで珍しいわね? ねぇ、お兄ちゃん?」
「…………」
「えぇ、そうね。お兄ちゃんの言う通りだわ」
一人分の声、少女の声が楽しげに歌う。「最新の
「そんなところさ」
八瀬さんの手が乱暴に僕の頭を撫でる。「森へ、森へ。望まれるままに、私は無垢なる者を連れていく」
「怖い人、怖い人だわお兄ちゃん。きっと私たちも連れていかれるのよお兄ちゃん」
「…………」
「えぇ、えぇその通りだわお兄ちゃん。私たちは良い子だもの、黒いサンタもやって来ないわ」
僕はそっと息を呑んだ。
八瀬さんの制止も虚しく、僕の前に足音が迫る。良い子と言うなら、駄目だと言われたことはしないでほしい。
甘い香りが、ふわりと鼻をくすぐった。【塔の乙女】の良い薫りとは違う、甘ったるい、なんと言うか――チョコレートやクッキーみたいな匂いだ。
頭の先からまじまじと、舐めるような視線を感じる。【魔女殺し】の視線は2回も僕の全身を見詰め、瞼の辺りで止まった。
「……目が見えないのね、この子。まるで、魔女みたい」
「っ!!!!」
「私を捕まえて、お兄ちゃんを食べたあの魔女みたいだわ」
視線で肌がひきつる。いや、これは、熱気だ。顔の前に今、かまどみたいに火が燃えている。「……焼いちゃう?」
「止めろと言ったぞ【魔女殺し】、兄狂い。お前は家に帰るのだ」
「……うふふ」
少女の笑いが、甘い風を吹かせる。
汗で張り付く前髪が吹き散らかされ、そして、ベロリと生暖かいぶよぶよしたものが、額を舐めた。
「っ!」
「しょっぱい。うふふ、お菓子ばかりだったから、ちょうど塩味が欲しかったのよ」
ごちそうさま、と呟いて、足音は遠ざかる。その背に八瀬さんは、彼にしては珍しく、苛々とした声をぶつけた。
「……その兄を、まだ連れていくのかね?」
「? 当たり前でしょう、何を言うの? だってほら、私のお兄ちゃんだもの。……ちょっと頭をかじられちゃったけど」
「彼は、もう死にたいのではないかな?」
「うふふ、おかしな事を言うのね。そんなこと有り得ないじゃない」
「何故?」
「誰かの特別になれることは、幸せなことじゃない」
足音が遠ざかる。
やがて、完全に消えてから、八瀬さんが深く息を吐き出した。
「もう良いよ、ありがとうビクター」
僕も、安堵の息を吐き出した。
「良く耐えてくれたよ、危なかった」
「……そう、みたいですね」
言われなくても、良く解った。
足音は二つ分だったが――声はいつも一人分しか聞こえてこなかった。お兄ちゃんの無言を、少女は雄弁に変えていた。
彼女は――狂っている。
「今回だけは、君の失明は幸運だったよ。もしあの兄を見たら、叫び出していたかもしれないからね」
「そんなに、酷かったのですか?」
「うん、あれならば、恐らく彼は死にたいだろう。生きていたいと思えるようには、見えないね。いくら、誰かの特別とはいえ、あれでは不幸だよ」
それは。
僕は答えられない。
特別になれないなら死んでも良いと思って死んだ僕には、何を言うことも出来ない。
どちらなのだろうか。
平凡な生と、非凡な死。どちらが幸せなのだろうか。
「……特別だけが、生きる理由ではないということさ」
だが、死ぬ理由にはなる。
それとも、ならないのか。
「さあ、行こう。森の終わりは直ぐそこだよ」
手が引かれる。
引かれる手に引き摺られ、僕は歩き出す。目指すべき場所さえ、最早解らないけれど。
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