家へ帰ろう

花岡 柊

家へ帰ろう

 家を飛び出したのは、高校二年の夏休みだった。

「誠二。東京に行って、なにするっていうのっ」

 片田舎にしか住んだことのない母親は、声をふるわせ泣きそうな顔で俺を叱った。

 田んぼや畑ばかりが広がる表からは、蛙や蝉の声が頭を抱えたくなるほど鳴いていて五月蝿い。

 父親は、毎日の仕事終わりに、必ず焼酎に顔を染めている。素行の悪い高校生活を送っている俺を「勝手にしろ」とでもいうように、酔いに座った眼差しで一瞥しただけだった。

 その目は俺のことを見捨てているように見えて、だったら捨てられる前にこっちから捨ててやると、捻くれた根性がむくむくと心を支配していった。


 興奮なのか、不安なのか。それとも、寂しさなのか……。

 あまり眠れないまま翌朝になり、前日に用意していた手に持てるだけの荷物と、お年玉を溜め込んだなけなしの五万円を財布に捩込む。

「退学手続きは適当にしといて」と、然もそれがかっこいいことだというように捨て台詞を吐き、茶の間で朝飯を食っていた家族へ背を向ける。

 玄関ではおにぎりを持たせようとした母親が「んなもん。いらねぇ」と顔も見ずに出て行く俺の背中を一人見送っていた。

 川と田んぼと畑ばかりの中に建つ我が家を振り返ることなく、バス停までの畦道を足早に歩いていく。

 小さな石ころがスニーカーの中へと入り込み、行く手を邪魔している気がした。

「東京まで、たかだか二時間半じゃねぇか」

 たった二時間半の先には、絶対に俺が探す何かがあるはずだ。こんな田舎じゃ到底味わえないような、何かすごいものがあるはずなんだ。

 その何かは、まだわからないけど……。

 スニーカーの中に入り込んだ石ころを乱暴に取り出し、誰にともなく意気込んだセリフは尻すぼみだ。

 はっきりとイメージできない東京の煌びやかさを脳内に描こうとしても巧くいかなくて、勢いが削がれそうになる。

 曖昧な感情を振り切るように、時間は山ほどあるんだ。そんなことは向こうに行ってからゆっくり考えればいい。と思考を逸らした。


 三十分に一本しか通らないバスに乗っているのは、大きな街の病院へ向かう爺ちゃんや婆ちゃんばっかりだ。

 俺は大きな荷物を抱えてそのバスに乗り込み、窓際の席へと腰掛ける。

 全てが既に飽き飽きしてしまっているこの景色のせいだといわんばかりに、大きな建物なんて一つもない、どこまでも広く続く緑を窓越しに睨みつけた。

 こんな所で一生終わるなんてまっぴらだ。テレビや雑誌で見る東京で、俺は暮らすんだ。

 想像すらできない都会の暮らしに、夢を抱く。


 同級生は、俺の事を甘いと笑った。学校を辞めて、なんの目標もなく行ったって、尻尾を巻いて帰ってくるのが落ちだって、あいつらは声を上げて笑った。

 嘲笑が、耳の奥にへばりついて取れない。

 うるさい。うるさい。うるさいっ。

 甘くないのは、充分わかってる。わかってる……、つもり……。


 信号も少なくやたら広い道路を、バスはトロトロと走る。意味もなく苛立ち焦る気持ちを、逆なでするほどののんびり具合だ。

 数人の老人をいくつかの停留所で拾い、やっと駅に辿り着いた。待合室は、人も少なくさびれている。

 何を勘違いしているのか、近所のおばちゃんたちが四人、化粧っけのない顔を突き合わせて話し込んでいる。

 並ぶ椅子は来る列車を待つためのものじゃなく、近くの住人が寄り集まる憩いの席。置かれた自販機は、喫茶店の珈琲代わり。寂れた小さなキオスクのせんべいや菓子は茶うけだ。

 そんな中にいることが、俺は嫌で嫌でたまらない。

 こんな場所、嫌いだ。

 こんな町、嫌いだ。

 こんな田舎、大嫌いだっ。

 手に持つ鞄の取っ手をギュッと握り締め、胸の中のモヤモヤとムカムカにひたすら耐える。

 うまく言葉にできない感情に支配されて、それを吐き出すように大きく一度深呼吸したけれど、胸の中にたまる黒いものはなかなか出ていってくれない。


 ようやく到着した東京行きの列車の車内は、スカスカだった。進行方向に座り、窓の桟に肘をつく。ほんの一瞬。窓の外に目をやり、すぐに見るのをやめた。

 だから……こんな風景、うんざりで飽き飽きしてるんだって……。

 心の中で吐き捨てる。


 鞄の中に入れてきた、暇つぶしのギャグ漫画を取り出しパラパラとページを捲る。もう何度も読み返し、その度に可笑しくて笑える漫画だ。

 東京までは、まだしばらくかかる。座席にダラリと深く腰掛けて、ギャグ漫画へ視線を落とした。

 けど、どんなに可笑しな表情の絵を見ても、ふきだしに書かれたくだらないセリフを読んでも少しも笑えない……。どうしてだか、少しも笑えないんだ。

 小さく息を吐き、パタリと漫画を閉じて鞄に戻した。


 外の景色に目をやることもなく、座る自分の足元を見つめていたら、ケツのポケットに入れていたスマホが震えた。画面を見ると、甘いと笑ったクラスの奴からのメッセージだった。

[ お前。本当に東京行くの? ]

 その文から、小馬鹿にしたそいつの顔と声が浮かんで、眉間に皺が寄る。

 俺は、しかめっ面ですぐに返信する。

[ 行くよ。もう、向かってる ]

 すると、すぐに返信がきた。

[ マジでー! 芸能人にでもなって、自慢させてくれよ ]

 明らかに馬鹿にしたようなその文章にカチンときた。

「誰が芸能人になるって言ったよっ」

 スマホに向かって吐き捨て、その文には返信しなかった。

 俺は、ただ。

 ただ……。

 ただ、どうしたいんだろう……。

 何になりたくて。何をしたくて。この町を出て行くのか。

 わかんねぇ。

 なんも、わかんねー。

 ただ、ここに居たくない。居たくないんだ……。

 頭の中には、酒に酔った親父の座った目と赤黒い顔や、母親の心配そうな顔が浮かんできて、胸の辺りがモヤモヤとわけのわからない感情に苦しくなる。


 こんな片田舎じゃ、将来は実家の農家を継ぐか、せいぜい農協の職員や車の整備工になるくらいしか職がない。そんなところに居て、なんになる。

 毎日毎日、畑仕事に向かうしかない両親を見ていればわかる。休みもないから旅行もしない。毎日いじる土のせいで、爪や指は真っ黒だ。日差しに当たる肌だって、ガサガサで浅黒い。唯一の楽しみが毎晩の焼酎なんて、最悪じゃないか。

 こんな場所に、楽しい事なんかひとつもない。夢も希望もない。

 でも、きっと東京へ行けば……。

 形のない夢や触れることの出来ない希望を想像して縋り、胸の辺りにあるモヤモヤを抱えながら一人列車に揺られる。


 一度乗り換えた後、いつの間にか眠り込んでいたらしく。気が付けば、窓の外にはたくさんのビル群が現れていて、アナウンスが東京へ着く事を知らせている。

 俺が寝ている間に、車内にはたくさんの人がいた。みんな東京駅で降りるらしく、慌しく荷物を網棚から下ろしたり、我先にホームへ降りようと出口へ向かっている。その列の一番後ろへとついた。

 それほど荷物の詰まっていない鞄を肩にかけ、少しの時間をかけてホームに降り立つ。

 やっと東京に着いたんだ。

 目的の地に降り立って、感慨深さに胸をいっぱいにして息を吸い込むと、埃っぽい空気が肺を満たした。

 着いたそこは、田舎で聞こえる蛙の声の代わりに、アナウンスや人の話し声、列車の滑り込み発車する音で溢れ返っていた。

 音、音、音……。

 まるで音の洪水のようで、たくさんの人に眩暈がしそうなくらいだった。

 どこへ向かえばいいのか、人の波が多すぎて先も確認し辛い。

 なんだ……これ……。

 誰も彼も自身のことで精一杯のように、右も左もわからずにオロオロしている俺のことなど見向きもしない。

 人の多さと音の洪水に圧倒されて、どっちへ向かっていいのか判らず、とにかく一番人が流れていく後ろをくっ付いていった。

 改札を出ると、また人と音。そして、タクシーやバスの排気ガスで汚れた灰色の空気が俺を取り囲んだ。

 ほんの一瞬、田舎の緑を思い出した。果てしなく遠くまで見渡せる畦道の風景とは全く違う世界の東京に、知らず溜息がこぼれ出る。

 とりあえず……どうしたらいいんだ……。金は、少しでも節約しなきゃいけない。

 荷物を右肩に背負いなおして、少しの間考えていた。

 視界に入る周囲のものを見渡し、無意識にまた溜息が出る。そのすぐ後には、腹が鳴った。

 考えてみれば、朝家を出た時。いつもなら、しっかり食べる朝飯も無視して出てきた。突っ張らずに食べてくればよかった。

 母親が持たせようとしたおにぎりさえも、受け取らずに飛び出したことを少しだけ後悔した。


 地下にあるショッピングロードに降りて、飯が食える店を探した。

 田舎じゃ滅多に食べられないような店ばかりがいくつも並んでいて、その雰囲気に気後れしてしまう。こんな綺麗な店なんて、あの田舎じゃ何処をどう探したってないからだ。

 色々目移りしても、田舎者というレッテルを自分自身に貼ってしまい一歩を踏み込めない上に、昼時のせいもあってどの店も混んでいて、鳴り続ける腹の音を止めるにいたらない。

 グルグルと見て歩いたわりに金の心配をして、よくあるファーストフード店に入った。この店なら、バスでしばらく行った少し大きな街にあるから、少しだけ安心して入ることができた。

 注文したハンバーガーセットにかぶりつきながら、本当は白いご飯がよかったなと思う。

 無心にハンバーガーにかぶりついていると、広がる田園の風景が頭を過ぎり、炭酸の抜けかけたコーラを一気に飲み干した。そうすることで、片田舎のあの風景を忘れられるような気がした。

 腹ごしらえをしながら、これからどうするかを考える。

 六本木に原宿にお台場。新宿もいいな。のんきにテレビで見た場所にワクワクした気持ちを抱いていた。けど、そのすぐあとには、今日泊まる所をまず探さなきゃいけないことに溜息が漏れた。

 東京に知り合いなんて一人もいない。寝泊りするところを確保するためには、金を払わなきゃいけない。それができなきゃ野宿になる。

 ニュースで見た、公園や駅の傍に並ぶダンボールに青のビニールハウスを思い出し、ブルブルと頭を振った。

 違うっ、違うっ。俺は、そんな生活をするために出てきたんじゃない。

 新宿や原宿の傍に、カッコイイマンションを借りるんだ。

 そんな場所に家を借りる事に、どれだけの費用がかかるのかを、俺は少しも知りはしなかった。ただ、バカみたいに夢を膨らませていたんだ。


 とりあえず、新宿へ行きたいな。

 街中にあるビルの大画面を頭に思い浮かべ、新宿へ向かうためにスマホで路線を調べてみると山手線で一本だった。そんなことも知らない自分を酷く情けなく感じた。


 辿り着いた新宿は更に人が溢れていて、色んな場所から情報が飛び交い耳を塞ぎたくなる。地上に出てすぐに目に付くでかい画面を、口を開けたまま見上げて立ち尽くしていたら、通り過ぎていく人たちが立ち止まっている俺に容赦なくぶつかっていった。

「イッテッ」

 ぶつかり通り過ぎて行く背中を睨みつけても、謝る言葉の一つもかけてこない。

 ここでは立ち止まっちゃいけないのか?

 のんびり何かを見てはいけないなのか?

 いつまでもぶつかって行った奴の背中を見ていたら、ぶつかられたのは俺の方なのに、ぶつかって行った奴の方がよっぽど迷惑そうな顔をして振り返って行った。

「俺が悪いのかよ……」

 ぼそりと零した悪態は、喧騒に紛れて消えてしまう。

 なんとなく人波に酔った気分になり、近くに設置されていた数台の自販機の前に行き、小銭を入れてコーラのボタンを押すと、田舎では響き渡るガコンッという缶の出てくる音さえ、この街は飲み込んでしまった。

 冷えた缶を手に取り、今度はぶつかられないようにずっとずっと端の方に立ちコーラを飲んだ。

 炭酸に顔をしかめたまま空を見上げたら、グレーがかかった青が自分の上に重く圧し掛かってきているように感じて息苦しい。

 コーラをゆっくり飲み干してから、人波に流されるまま歩いていくと、テレビで観たことのある大手のディスカウントショップが見えてきた。

 賑やかな外観の建物は、さっきまで重く感じていたものを吹き飛ばすには充分な魅力を持っていた。有名なお笑い芸人が、よくこの店に行くってテレビで言っていたのを覚えていたからだ。

 その芸人がいるとは限らないのに、嬉しくなり弾む足取りで店内に入った。

 所狭しと置かれた商品の数々に、心がワクワクしていく。あれもこれも手に取り眺め、へぇ、とか、おぉ、とか、いちいち声を上げていた。

 初めて目にする商品が心を浮き立たせ、上から下まで見て歩いていたらいつの間にか時間は過ぎ、店の外に出た時には街の雰囲気は変わり始めていた。

 いかがわしい店の看板にはライトが灯り、チャライスーツを着た兄ちゃんたちが呼び込みを始めている。

「やべ……。家、探さないと……」

 ボソリつぶやき、焦りを感じながら歩き出す。


 少し歩いたところで、飲食店の並びに不動産屋を発見した。

 不動産という文字を見ただけで、家は確保できたとばかりに意気揚々とドアを開けて中に入る。

 入ってすぐに長いテーブルが仕切りみたいにあり、その向こう側に外を向いて座っていたのは、やくざのような顔をした五十代くらいのおっさんだった。その風貌に、思わずたじろいだ。

 勢いよく入った俺の顔を見て、低い声が「どうぞ」と目の前の椅子に座ることを促してくる。目元だけの笑みが、ひどく不気味だ。

 入る店を間違えた……。

 そう思っても、出ていけるような雰囲気ではない。促されるままに荷物を抱えて椅子に座る。

「どんなところ探してんの?」

 客相手というよりは、まるで友達とでも話すような言い方だったけど、低い声が地響きのようで俺の心拍を速くさせる。

「えっと……。この辺か……原宿辺りに……」

 不動産屋の威圧感に、ボソボソと小さな声で応える。

「予算は?」

 対照的にやたらでかい声で返されて、一瞬ビクリと椅子からケツが浮いた。

「予算……ですか……?」

 怖すぎて、益々声が小さくなる。

 えっと……、えっとぉ……。

 モゴモゴと口ごもると、大きな溜息をひとつ吐かれた。

「マンション? アパート? 1DK? 1LDK? 何階に住みたいの?」

 矢継ぎ早に訊かれて、頭が回らず混乱してしまう。

 とにかく、マンションに住むという事だけが自分の中で決めていた事だったのでそう告げると、ジロリと値踏みしたような顔をされた。

 不動産屋はクルリと背を向け、後ろにあるたくさんの抽斗から数枚の紙を取り出し俺の前に並べる。

 置かれた紙を覗き込むと、マンションの外観や徒歩○分、部屋の間取り図なんかが書かれていた。食い入るようにしてその紙を眺め、家賃の項目で目を止める。と同時に息が止まった。

 どれもこれも、自分が考えていた以上の金額。いや、考えもつかないほどの高額だった。

 ……嘘だろ……。

 たった一部屋に、風呂と便所が付いてるだけで、なんでこんなにすんだよ。

 何も言えずに黙ってしまうと、不動産屋はまた深く息を吐いたあと、呆れたように言ってよこす。

「兄ちゃんさー。どうせ、東京の物価も知らずに田舎から出てきたんだろう? この辺で部屋借りようと思ったらアパートだってこの位すんだよ」

 不動産屋は、傍にあった電卓でゼロが四つも並び、四捨五入したらゼロが五つになる数字を叩いて見せた。

「それに、兄ちゃん未成年だろ? 部屋借りるっつったら、親の同意が必要なんだよ、わかる? 印鑑とか証明書とか、そういうの用意できんの?」

 小馬鹿にした物言いが癇に障ったけれど、何も言い返すことなんかできなかった。

 同級生が言っていた、甘くない。っていうセリフが頭をもたげる。

「悪いけど。忙しいからさ」

 不動産屋は、目の前に出した紙を引っ込め。用事は済んだろ? と言わんばかりに俺の前から席をはずした。

 半ば、追い出されるような感じで外に出る。

 ヤバイ……。どうしよう……。

 野宿なんて嫌だ。絶対に嫌だ……。

 けれど、どうしていいかわからず途方に暮れるばかり。朝、家を出る時に黙って俺の背中を見送っていた母親の姿が浮かぶ。

 とぼとぼと肩を落とし、気づけば新宿駅まで戻ってきていた。

 正面のでかいテレビは、未だ賑やかに情報を垂れ流し続けている。行く当てのない俺は、その画面を少しの間ぼうっと見上げていた。

 田舎にはない商品のCMや、ドラマの番宣。よく見るお笑いタレントが入れ替わり立ち代り映るのを何も考えずに眺めていると、時間は容赦なく過ぎていき、夜はどんどん俺を暗闇の中に引っ張り込んでいく。

 街灯やチカチカする看板の数々で真っ暗闇にはならない都会の夜が、わけのわからない不安を煽る。

 ふいに、弾かれたようにテレビ画面から目を逸らし、人を掻き分け、音の洪水を振り切るように新宿の改札へと向かった。

 来た時と同じように山手線に乗り、気が付けば東京駅のホームに立っていた。右手には田舎までの切符。

 ホームのベンチに座り、少しの間その紙切れを眺めたあと、目の前を行き来する人たちに目をやった。

 スーツ姿のサラリーマン。ブランドのバッグを持つ、田舎にはいないおしゃれなおばちゃんたち。恋人同士に、友達同士。

 ここにいる人たちは、俺と一緒の雰囲気を持っているようで全然別の人間たちに見えた。みんな、何かしらの目的があってここにいるのは、顔つきを見れば明らかだ。どう見ても、闇雲に田舎から出てきたような人なんていやしない。

 大きなスーツケースを転がして引いていても、田舎へ帰るというよりは、どこかへ旅行に出かけるといった楽しげな雰囲気だ。

 俺は、あの人たちと違うんだ……。

 何の迷いもなく、楽しそうに歩を前に進めている行きかう人々。ただ東京に出ることだけを夢見て、目標もなくたどり着いたこの場所で途方に暮れている俺は、余りにも情けない。

 自然とポケットに手が伸びて、スマホ画面に実家の番号を表示していた。

 今更、帰れるはずないと意地を張る心と、帰れる場所はあそこしかないと悔しくなる心がぶつかり合う。

 出て行く俺を引き止めようともしなかった、父親の酒に酔い座った目が尻尾を巻いて帰るのか? と蔑んでいる気がした。

 けれど、頼る当てもないこの東京で、不安にどうしようもなくなった心は、散々迷った挙句、スマホのボタンへ指を伸す。

 コール音が耳に届く。

 四コール目が鳴ったところで、いつもと変わらない調子の声が聞こえてきた。

「誠二?」

 呼びかける母親の声に、一瞬で喉の奥が熱くなる。きゅっと締まるのど元には、押し込められた感情が決壊しそうなほどに溢れてきた。

 この広い東京で、どれほど心細かったかを痛感する。

「東京は、楽しかったの?」

 まるで、遊びにでも行っていたように母親が問いかけてくる声に、何も応えられなかった……。何も言葉が浮かばなかった……。

 何かひとつでも言葉を溢したら、今堪えている涙も零れてしまう気がした。

「お父さんが、駅まで迎えに行くって言ってるから。着く少し前になったら、また電話しなさいね」

 帰ってくることがわかっていたみたいな言い方に、意固地な心が少しだけ反応した。

 けど、それより何より。

 近所のおばちゃんたちが、喫茶店みたいに話す駅の待合室。爺ちゃん婆ちゃんしか乗らない三十分に一本のバス。畑の真ん中にポツリと立つ実家の風景を思い出すと、心が切なさに締め付けられていった。

 母親の問いかけに、かろうじて小さく返事をし、すぐに通話を切った。

 もう、限界だったんだ。零れる涙を乱暴に拭い、田舎へ向かう列車に乗り込んだ。

 着くまでの暇つぶしに、朝は笑えなかった漫画本をもう一度開いた。同じように笑えない代わりに、たくさんの雫で漫画本が波を打つ。


 田舎の町が近づいてきた事を知らせるアナウンスに、自然と心が安堵する。窓の外は、少ない灯りでとても暗い。

 ホームに降り立つと、一気に蝉や蛙の声たちに包まれて、ずっと五月蝿いと思っていたその鳴き声に胸が熱くなる。

 寂れた改札を潜って駅を出ると、見慣れたブルーの軽トラが止まっていた。

 鞄を背負い近づいていき、助手席のドアを開けて乗り込んだ俺に、運転席に座る父親は何も言わなかった。

 無言でエンジンをかけ、家に向けて車を走らせる。

 窓の外は、少ない商店と民家。あとは、畑と田んぼだけ。見慣れて飽き飽きしていたはずのその景色が、今は心を温かくしていく。

 父親は、朝、昼、晩と、畑仕事ばかりに精を出す毎日。唯一の楽しみは、毎晩必ず飲む安い焼酎だけ。そんな父親から、今は少しも酒の匂いがしないことに、また涙が零れそうになった。

 俺は、その涙がばれないよう。見慣れて飽き飽きしていたはずの景色に、目をやった――――。

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