ミューズは夢の女でも、僕でもない

 和哉から電話があった。その日はバイトのため、夜ならば空いている旨を伝えた。用件だけいうと和哉は手短に切る。携帯を見詰め、どんな用件なのだろうか考える。いつも飄々としていて、軽薄な態度の和哉の普段にない、低い声が真剣みを感じたのだ。

 バイト上がりに、指定された喫茶店へと向かう。モダンなレンガ造りで落ち着いた趣きだ。

 扉を開けると、ベルが小さく揺らめいた。店内を見渡すと、奥の席に座る和哉が手を挙げた。

「珍しいね、こんな場所で話なんて」

「俺でも、こういう大人の楽しめる場所くらい知っている。マスター、コーヒーふたつ。ここのマスターの淹れるコーヒーは格別だ」

 カウンターでグラスを拭いているマスターは、無言で頷く。静寂な空間にはジャズが添えられるように流れていた。

「で、頼みたいことって? また部屋を貸してくれって言うのはナシだよ」

「いや……実は、絵のモデルになってくれないかな?」

「僕は、ミューズじゃなかったんじゃ、ないのかな」

「でも、透ほど似ていると感じる奴は会ったことがない」

「まあ、いいけど。姉さんのモデルを何回かしてたし、仕事として報酬は貰うからね」

「わかってる。依頼するんだから当然だ。ポーズは——」

「背中でしょ?」

 鳩が豆鉄砲を食らったように、きょとんとした表情をしている和哉に、笑いながら言葉を続ける。

「キミが僕を絶賛したのは、背中だったからね。姉さんと同じポーズで描きたいんだと思って」

 和哉は、しっかりとした面持ちで首肯する。そこに、香り豊かなコーヒーを持ってマスターが傍に来た。静かだが無駄のない動作で、カップをテーブルへと置くと静かに会釈する。水が流れるような所作の美しさだった。

「ここのマスター、格好良いだろ。寡黙で殆ど話さないけど、あのマスター目当てに通っているOLも多いらしい」

 湯気の立つカップを手にして僕は、息を吹きかける。

「なにお前、猫舌だったっけ?」

 僕は頷くと、ゆっくりと口を付けた。普段はブラックでなんて飲めないのだけど、なんとなくお砂糖とか入れてしまうのを憚れる。そのままの味を知りたくて飲んでみる。

「だろ? 初めて飲んだとき、ハッとするよな。俺もそうだった。世の中にこんな美味しいコーヒーがあるんだって知って、驚いたよ」

 和哉はそう言ってマスターを見る。マスターは丁重にお辞儀をして、グラスを拭いている。

「うん。言葉にどう表現して良いのか、わからないけれど。すごく澄み渡るような口触りに、美味しいってそれだけしか言えない」

 マスターはまたもお辞儀をして「恐れ入ります」と初めて喋る。鳥が囀るような綺麗な声だった。

「へー、マスターが話すなんて珍しいよ。透、気に入られたってことだよ」

 別に大したことを言ったわけではないのに、そんな風に言われてしまうと頬が熱くなった。

「一週間後に、透の家に行くから。整えていてくれ」

 僕は、この味を忘れたくなくてもう一杯、所望した。店内に美味しいコーヒーの風味が辺りを包む。和哉は先に精算を済ませると、帰って行く。窓の向こうで歩く和哉の背中を見詰めた。和哉もこんな風に、焦がれて背中をみるのだろうか……そんなことをふと思った。


 一週間の間は、暑いのだが長袖と長ズボンで過ごす。日焼けを出来るだけ避けるために、外出はせず、身体を隈なくチェックする。痣や傷があれば出来るだけ治るように努力をした。一週間の猶予だから最低限のことしか出来なくても、モデルとして肌を見せるのであれば、万全に整えたいと思うのは当たり前だ。

 

 絵のモデル当日。僕はガウンを羽織り、準備している。下着は履いていない。身体に下着の跡が残るのは、裸を晒すのとは別に気恥ずかしかった。この一週間、磨けるところは磨き、エステにも行った。後は、和哉が来るだけだった。

 部屋に訪問のベルが鳴り、扉を開ける。和哉は凛々しい顔付きで立っている。

「おはよう。今日はよろしくお願いします」

 僕は頭を下げた。和哉もまたお辞儀をし、部屋に上がる。そういえば、二人っきりで部屋にいることは久し振りだった。なんとなく意識してしまい顔が熱くなる。だが、今までにない和哉の真剣な表情に、僕も気を引き締める。


 無言で、鉛筆を走らせる和哉。少し空気の重い部屋では、秒針の刻む音しか聞こえない。

 僕は、亜紀さんの言葉を思い出していた。

『ミューズはミューズだと思うんだけど、変なところ融通が利かないというか、頑固だから。また探してるんだと思うよ』

 そう言っていたのに、こうして和哉は僕を描いている。だとしたら、ミューズとして認めたということになるのだろうか……思考がぐるぐると渦巻く。一瞬、椅子から立ち上がる和哉に慌てて弁解した。

「ご、ごめん。ちょっと考え事してて……集中するからって——おい!」

 僕は膝を突いて、床にうつ伏せになり、手首を後ろ手に和哉に拘束された。振り解こうとしてもビクともしない。抵抗も空しく、和哉は僕の背中に爪を立てた。肌に食い込む爪。

「おい! なに血迷ってるんだ! モデルに欲情してどうするんだよ。とにかく、落ち着け——っく!?」

 和哉は僕の言葉を無視して首筋に噛み付いた。発情したオス猫がメス猫を逃がさないために、首根っこを噛むように、和哉もまた深く歯を食い込ませた。後方で和哉がベルトに手を伸ばし、バックルを外す金属音が聞こえる。

 和哉はそのまま、欲望の丈を僕の中へと沈める。僕は、根元から引き裂かれるような痛みを感じて、口を開き喘ぐように舌を伸ばした。狭い通路を押し広げるようにゆっくりと和哉は差し入れた。

「和哉っ! アンタは孕めないものには、男には興味がないんだろ! アンタがどんなに求めて病まないミューズは、僕じゃない。僕を犯しても、アンタの才能は戻ってこない! 痛っ」

 僕の言葉が癇に障ったのか、乱暴に押し付けてくる。身体の中から押し上げるように何かが口の中から出て来そうな圧迫感を感じる。

「たった、一度のスランプで描けなくなるなら、その程度なんだよ! 和哉、アンタにとってのミューズは夢の女でも、僕でもない。亜紀さんだって何でわからないんだ!」

 僕は叫びながら泣いていた。身体に起こる鈍痛の所為ではない。心が傷を負い、流れる血の涙だった。僕を求めているようで、和哉は僕を捉えてはいない。何処まで行っても僕の想いは届きはしない。片思いで、永遠に叶えられない願いを内包している。

 和哉は数分の後、欲望の丈を僕の中で爆ぜた。全てを出し切るように、和哉は最後まで放れようとはしなかった。



                   *



 どれいくらい、こうしていたのだろうか……

 下半身が痙攣していて立ち上がれないので、這いずって風呂場へと行く。手すりに掴まり、やっとのことで立ち上がるとシャワーを頭から被った。和哉の姿はどこにもない。太腿を伝い、赤と白の線は交わり薄桃色に溶ける。和哉から歪んだ欲望をぶつけられても、僕には受け皿がない。だから留められずこうして流れていく。僕は薄桃色の線を眺め、その場で身体を抱えうずくまった。頭上から降り注ぐ雫が、僕の涙と重なりひとつの奔流となって全てを飲み込み、排水溝へと消えて行く。僕の想いもまた流れていった。



                 *



 季節は移り変わり、秋を迎えた。あの一件以来、僕と和哉は会っていない。目の前に座る亜紀さんとこうして会うのも久し振りだった。最後に会ったのは、和哉との一件の後、すぐの事だったと思う。僕は学校の帰りに呼び出され、あの喫茶店に座っている。

「久し振りだね、亜紀さん。こうして、会うってことは重要なことなんでしょ?」

 亜紀さんは顔を伏せながら、言葉を丁寧に紡いだ。

「あのね……出来たんだよね、子ども。で、エコーで診て貰ったら、多分女の子だろうって」

「そうですか。そのまますくすく育ってくれると、いいんですけど。どういう結果でも、産むんですか?」

「そうだね……和哉のためだから。私の気持ちもきっとわかってくれると思う」

 僕は黙って、亜紀さんに封筒を渡した。

「いざって時は、使って下さい。こんなことしか出来なくて、すみません。これからの事も全部任せることになって」

「ううん。私も賛成して、望んだことだから。構わない……でも、透くんは大丈夫なの?」

「僕の想いは、もう流れました。色んなものと一緒に。僕から和哉にあげられるものは、これしか思いつかなかった」

 亜紀さんは封筒をカバンに直すと、席を立った。お腹を労わるように擦る。

「お元気で。和哉をよろしくお願いします」

「うん。和哉の手綱を握れるのは、私だけだもん。透くんも……元気でね」

 亜紀さんはそういうと、あの太陽のような笑顔を添えて去っていった。その後ろ姿を、和哉を見送ったときのように見詰める。

「マスター、コーヒーをひとつ、お願いします」

 僕は、この町や景色を忘れないように目に焼き付けた。そしてもう飲めなくなるコーヒーを、大事に味わうように冷ましながら飲んだ。



                   *



 俺と亜紀は、亜紀の妊娠を知り、結婚した。

 あの一件以来、俺は透と会ってはいない。俺は透に自分の欲望をぶつけた。そうしてしまうことで関係が破綻することはわかっていた。それでも俺は、あの夢の女に似た透に縋り付くしか、方法がなかった。

 

 だが、俺のスランプは意外なことで、長いトンネルを抜けた。亜紀が産んだ子どもの顔を見たときだ。亜紀も涙ぐんで驚く俺に、何度も頷いていた。俺は、静かな寝息を立てて眠る娘の顔を愛しそうに見詰めたのだ。

 

 あれから六年が過ぎた。俺は墓前に花を添えて、手を合わせる。隣で俺の真似をして、娘も手を合わせている。立ち上がると、娘は俺の手を掴んで顔を見上げた。

「パパ、どこか痛いの……? 涙ポロポロ出てる……」

 娘を見る。繊細な造形。華奢な身体。物憂げな表情。色素の薄い肌。肩に掛かるほど伸ばした髪。

「大丈夫だよ、パパは強いからね」

 そう言って娘を抱きかかえる。そこにゆっくりとした足取りで亜紀がやってきた。お腹は隠せないほど顕著に膨らんでいる。

 俺は亜紀と共に、墓前に刻まれた名前を眺めた。透は死んだ。だが自殺ではなく、事故だと言う。ご焼香をするために透の実家を訪ねたとき、お姉さんが話してくれた。

「透、亜紀と一緒に考えてくれた、素晴らしい贈り物をありがとう」

「パパ、ワタシと同じ名前なの?」

 俺は不思議そうに見詰める、娘の透に頷いてみせ、小さなミューズに、慈しむように微笑んだ。

 

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ミューズの贈りもの 発条璃々 @naKo_Kanagi885

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