蝉時雨に沈む

坂水

短編 蝉時雨に沈む

 ふっ、と。靴裏から地面がはぐれた。


 ……浮いたね。

 ……浮きましたね。


 隣に佇んだ先輩兼同僚の八尾やつおさんの言葉の意味を正確に読み取り、頷いた。

 地方の県庁所在地のとある市。駅から会社までは十分ほどの道のりだが、途中にある神社を突っ切れば一分ぐらいの近道となる。電車の前部車両に乗る僕と、後部車両に乗る彼女が出くわすのは、いつもこの神社の境内だった。

 夏も盛りの八月初旬と中旬のあわい。学生は言わずもがな、勤め人も一足早い盆休みをとっているのか、電車は空いていた。境内も人気はなく、ただ繁茂した緑に気狂いじみた蝉の声が重なり合う。

 朝のニュースでは、今年一番の暑さとなりできる限り外出を控えるようアナウンサーが呼びかけていた。できるものならそうしたかったのだが。

 そうもできやしない大人二人が、神社の出入り口と境内を繋ぐ桜並木の途中で、突っ立っていた。

 蝉時雨、という言葉は一体誰が言い出したのだろう。まさしく降り注ぐほどの啼き声だった。桜並木だから、アブラゼミとミンミンゼミが主だと思うが、もしかしたら他の種類も混じっていたかもしれない。可視化されたなら啼き声は複雑な曼荼羅模様を描いていただろう。

 緑の天蓋の下は熱気と湿気がこもっている。汗腺の一つ一つにまで蝉時雨が染み込み、熱が排出されない。境内中の蝉の啼き声が一斉に降ったような瞬間、それは起こった。

 ふっ、と。

 ライブやコンサートで大音量を聴いた時、一時的に眩暈を起こすことがある。多分、同じ状態だったのだろう。熱中症も起こしかけていたに違いなかった。


 ……お茶。

 ……ああ、お茶。


 実際にはほんの数秒だっただろう。けれど随分長い間、地面から遊離していた気がした。

 緩慢に横を見やれば、意識を引き戻した八尾さんがしっとりと額に張り付いた髪を耳にかけていた。あらわになったこめかみから顎にかけて汗が伝う。こんなにも暑いというのにやたらと青白い顔色だった。

 お茶、というのは、彼女自身がお茶を飲みたい、という意味ではない。我が社には若手がご老体――もとい、敬愛すべき上司に朝一番のお茶を出すという因習――もとい、尊いならわしがある。今日の当番は僕であり、ここで遅刻して用意できていないと一週間先まで嫌味を言われ続けてしまう。もっともお茶の一つでも出せば企画申請書に押印してもらえるのだから安い労力だとは先輩――八尾さんの談ではあるが。なんにしろ、彼女はこんな僕にも注意喚起をしてくれる得難い人物だった。

 勤め人の悲しいさがで、やらねばならない業務があれば、多少の無理はあっても身体は動き出す。大人二人は歩みを再開した。


 ……さっきは少し危なかったね。二人して行き倒れてたかもしれませんね。真夏の遭難ね、そしたら今日の打ち合わせは誰に任す? 倉田さんあたりが妥当じゃないですか。そうね、〝テディベア〟よりは穏当に済むかも。ええ、まぜっかえさないだけ〝テディベア〟よりマシです。そういえば熱中症って労災下りるのかしら。因果関係の立証が死ぬほどめんどいんじゃないですか――


 社内ジョークとスケジュールを織り交ぜた会話は会社に着くまで続いた。

 到着してからは、デスクに向かう前に給湯室に向かう。まずはポットいっぱいに湯を沸かさねば。この暑いのに。

 でも、と八尾さんは給湯室に入りかけた僕に声を掛けた。猫めいた吊り目をやはり猫めいて細め、ささやくように。

 ――浮いたの、少し、気持ち良かったね。いっちゃってもいいぐらい。




 八尾さんはわかりにくい冗談を好んで言う人だ。だから彼女が生真面目であると勘違いしている人は社内に多い。とんでもない。僕の彼女に対する印象と言えば「不謹慎」の一語に尽きる。

 ある日の朝、彼女は唐突に、豚足を食べたことあるかと尋ねてきた。いわずと知れた沖縄や九州の名物だ。たまに居酒屋のメニューにも載っているが、注文したことは無く、他者のオーダーをつまんだこともない。現物を見たこともない?との問いに頷けばちょうど良かったと返してくる。その時はさっぱり意味がわからなかった。

 会社は学習教材を扱っており、勤めているのはその一地方支社となる。その日は本部からマネージャーがやってくる予定だった。僕は朝から外回りだったが、マネージャーを交えたランチミーティングを近所の沖縄料理店で行うことになり、直接店に赴いた。マネージャーとは面識はなく、興味もなく、出世欲もなかったため、それほどの気負いも緊張も考えもなく。

 まさに豚足だった。

 よく言えばふくよか、悪く言えば小太りの中年女性で、タイトスカートから伸びた足先にはハイヒールが装着されており、否が応にも連想させる。ランチメニューに豚足が無いのは救いだった。いや、これは八尾さんの配剤だろう。マネージャーを沖縄料理店に配置させながらも、地雷は踏ませない。ただじわじわとこちらにだけ精神攻撃を仕掛ける。テーブル越しに非難の眼差しを送れば、口は引き結んだまま、目だけ細めて寄越すのだった。

 台風の日はわかめラーメンが食べたいとのたまい、出先から戻った支社長が薄毛をべったり頭に張り付かせた姿を見た僕をわななかせ、出張土産にご当地テディベアを指名して僕からと言って前田課長の事務椅子に置く(某子どもテレビ番組で品の無い発言をした子どもが熊のぬいぐるみに置き換えられたという都市伝説があるのだ)。

 そういう人であり、多少の迷惑はあるが、だからこそ気兼ねなく一緒に仕事ができるのだった。




 送別会は件の沖縄料理店で行われた。 

 捧げ持った茶色の瓶からグラスに黄金色の液体が注がれる。黄金にいただく純白の泡冠あわかんむりは七対三のまさしく黄金比。このコツはやはり八尾さんから学び、当の恩師のグラスに注ぐというのは妙な心地がした。

 彼女はこの会社に勤めて五年、そのうち二年半を僕と組んで過ごしたという。

 寂しくなります、と一応は殊勝に伝える。社会に出て初めて得た先輩はグラスに口を付けながら器用にも柳眉をひそめた。何を今更、というわけだ。

 全部無駄になるね、彼女は上唇に泡をつけたまま言う。ビールの注ぎ方も、上司のマグカップの見分け方も、謝罪に伺う際の菓子折りの選び方も。

 それこそ何を今更、だった。

 

 僕が入社したのは三年前の秋。留学から戻り、同時に恋人との結婚を決めたのだが、恋人は某地方に展開する書店チェーン創業者の一人娘だった。社長令嬢の婚約者となった僕は、義父の旧友が人事部長を務める教材会社へ修行に出された。ゆくゆくは書店チェーンの跡取りとなるべく、三年の約束で。

 特別扱いはしないと言われていたが、社内では公然の秘密であり、まったくフラットでいられるはずもない。現場にしてみれば、三年でいなくなるとわかっている若造に真面目に仕事を教えるのは馬鹿らしく、上とつながりがあるのは煙たく、また打ち解けるほど本人に魅力が感じられるわけでもなし。

 僕も半端にやる気を出しては迷惑になるという建前から積極的に動かなかった。波風を立てないをモットーに地中で息を潜めるように。数年我慢すれば、土から這い上がり、羽化して、自由に飛び回れる。そう自身に言い聞かせて。結果、気を使われつつ遠巻きにされ嫌味も言われるというなかなかに希有な体験をさせてもらった。

 そして入社から半年後、見るに見かねた支社長が、八尾さんに僕の面倒を見るようにと指示したのだった。


 寂しくなるという僕の言葉にも、全部無駄になるという八尾さんの言葉にも、湿った別れの哀惜ではなく、乾いた台詞の白々しさが漂っていた。出来レースの結果とは、こんなものだ。


 ――猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏、未来の社長にビールのコツ。ああ、意味逆になっちゃうか。


 八尾さんの、すうと目が細められるだけの微笑が浮かぶ。

 この手の冗談とも嫉みともつかない台詞は誰からも何時でも何度でも浴びせられ、受け流してきた。この不謹慎な女先輩から発せられるのは、意外にも――そう、不謹慎なのに意外にも――珍しかったが。

 けれど三年過ぎた今、人に羨まれ疎まれるほど僕自身はこの年季明けを晴れ晴れしい門出とは思っていない。端的に言い表せば、退路を絶たれた、これに尽きる。

 婚約者はもちろん愛しいが、ごく普通の家庭を築くのとはいささかわけが違う。詩的な言い方をすれば、僕自身丸ごとを生け贄として差し出す心地であった。仕事においても、家庭においても、プライベートでさえも、これから数年いや何十年先、僕が僕だけの意志で自由に振舞えることほとんどないだろう。現に結婚式も新婚旅行も新居も、すべてが事後報告で着々と準備が進んでいる。週末ごとに、ただ身体だけが借り出されて。

 地中で息を潜めて数年、いよいよ羽化して空を飛ぶ。しかし、はて、なんのために飛び回るのだったか……

 

 わっ、と。


 沸くような歓声が突如背後から上がった。

 びくりと腰を浮かせて振り返れば、他の一団が盛り上がっており、古風にも頭にネクタイを巻いた男性が余興を始めたらしかった。今日は貸切ではない。あまり参加者が集まらなかった送別会は、その必要がなかったのだ。


 ……まるで蝉時雨ね? 


 さぐるようなささやきに一瞬戸惑った。八尾さんは酔っているのか目を細めたまま騒ぐ一団を眺めている。

 一瞬、頭の中を読まれたのかと強ばった。まるで、蝉。地中で数年過ごし、夏が終われば。


 ――蝉時雨のせいだから。あの日のことは。気にすることないから。


 正面に座る八尾さんの言葉の意味をしばらくしてから理解する。勘ぐりすぎていた。彼女は別の話をしている。僕の心中が浮き上がったわけではない。


 一か月半前の、あの蝉時雨に降られた日。暑さに当てられたのか僕はぼんやりしていて、くだらないけれどそこそこ大きな失敗をやらかした。

 県下に十数店舗ある塾へ、翌日に控えた一斉模擬試験テストを納品したのだが、一部学年の違うテストを封入してしまったのだ。たまたまある店舗の講師が納品物をチェックしていたところ発覚し、全ての店舗を営業車で回り、納品物を確かめ、差し替え、その作業は深夜にまで及んだ(塾という商売柄、遅くまで営業してくれていたのはせめてもの救いだった)。もしも気付かないままテストが行われていたらと思うと冷や汗が出る。義父の旧友である人事部長にまで報告が上がっていたに違いない。

 八尾さんがこんなことを言い出したのは、主賓でありながら暗い表情をしている僕を励まそうとしたのか、先ほどの小さな嫌味を払拭しようとしたのか、その両方か。

 しかし、正直なところ腹立たしかった。何も別れの宴席で失敗談を持ち出さなくても良いじゃないかと。心を見透かされたのかと焦った気持ちも手伝い、感情が波立つ。

 良識ある社会人としては、謝罪と礼を述べるべきだと理解していた。なにしろ、あの日、西へ東へ営業車を走らせ、差し替え作業に付き合ってくれたのは八尾さんなのだから。エアコンのない資料室で梱包をほどき、テスト用紙の上にぽたり滴り落ちた汗をガーゼハンカチで素早く拭ってくれたのも。

 でも、蝉のせいと懐かしむように繰り返す彼女に、あの時はお世話になりましたとはどうしても言えない。それこそ今更。

 彼女が返杯しようとビール瓶を持ったのに気付いたけれど、テディベア――前田課長に呼ばれたのを良いことに僕は立ち上がった。

 

 二次会は開かれず、元々参加者も少なかったため、店を出てすぐの解散となった。八尾さんと同じ電車にならないよう、かなりの早足で駅に向かう。なんなら駅からタクシーを拾っても良い。紙袋に突っ込んだお仕着せの花束ブーケがガサガサと無粋な音を立てる。

 いつもの神社に差し掛かると、外灯の下、虫の音が響いていた。涼やかな風が吹き渡っており、重くまとわりつく夏の空気はすっかり拭われている。

 並木道の途中で足を止めた。繊細な秋虫の調べは儚く美しく、あのいっそ暴力的とすら呼べる蝉の啼き声とは比べるべくもない。

 しばらくの間、耳を済ませていたが、ヒールの靴音は聞こえてこない。僕は少し歩調を緩めた。

 八尾さんとは、それきりだった。





 教材会社を退職後、義父の会社に就職し、文字通り身を粉にして働いた。経営企画部に籍を置きながらも、気まぐれに義父に随行を命じられ、家庭では良き夫、未来の頼もしき父、有望な娘婿をこなした。空白はむしろ恐怖だった。余白ができれば余計なことを考える。前職とは打って変わってがむしゃらに働いた。


 そして季節をいくつかまたぎ、僕は久しぶりにあの音と再会した。

 義父に呼ばれ取引先との会食に出席した後、一人地下鉄で会社に戻る折りだった。まだ梅雨が明け切らぬ時期で、重たげな灰色が都会の四角い空を塞ぐ。風のないひどく蒸し暑い日で、立っているだけで汗がにじんだ。それでも社用車で義父と一緒に戻るよりも徒歩と公共交通機関を選んだのは、束の間の休息を得たいがためだった。

 オフィス街の谷間にある緑の良心とも呼ぶべき、小さな公園を横切ったその時。夏の前触れ、か細い蝉の啼き声と。

 その一声は、鼓膜のその奥までも揺さぶり、記憶を手繰り寄せた。頼んでもいないのにするすると。

 

 どしゃ降りの蝉時雨、はぐれた靴裏、伝う汗。それから。

 

 あの日、僕らがのは実のところ一度きりではない。

 失敗の挽回のため、夜中まで走り回り、作業を繰り返し、謝罪を重ねて、疲労困憊して誰もいない会社に戻った。そして終電近く、駅に向かうためにいつもの近道を通った。

 外灯のためか、気温の高さによるものか、昼夜を勘違いした蝉たちはまだ啼いていた。もちろん、蝉時雨と呼べるほど啼き立ててはいなかったけど。

 蝉が啼くのは、オスがメスを呼び寄せるためだと聞くが、夜に啼いたところで意味があるのだろうか。そんな疑問を口にすれば、試せばわかるんじゃない、と暑さと疲れのせいか感情の読めない声音で返された。何を試すのか、八尾さんも特に意味を込めて言ったのではないだろう。あの時点では。ただ口を突いた、浮かんだ言葉を吐き出した、というふうで。

 彼女の顔色は平然と青白く、僕はむしろその顔色が変わることがあるのか気になった。試したくなったのば僕だった。

 墨を溶き流したような、窒息しそうなほど蒸し暑い夜。蝉時雨が甦った。


 真夜中に啼く蝉に意味があったか、なかったか――なかったはずだ。少なくとも僕はそういう見解だし、八尾さんも蒸し返しはしなかった。当時、彼女にも別に相手がいたはず。

 だからこそ、送別会で蝉時雨のせいだと言われ、僕はかなり苛立った。

 関係の継続を望むものでも、なじるものでも、強請ゆするものでもなく、むしろ理由を蝉時雨に押し付け互いに恨みっこなしとした明言した、八尾さんなりの優しさと言えないこともなかった。僕が自意識過剰なだけで、純粋に仕事のミスを指していたのかもしれなかった。

 だけど、どちらの意味にせよ、慰めが必要なほど僕は怯えても落ちぶれても固執していたわけでもない。実際、退職後の秋冬春と僕は忙殺され、すぐにこの一件を忘れた。


 だのに。

 

 今、脳裏には蝉時雨が降り注ぎ、同時に、薄闇の中で細められた瞳や青白い額のしょっぱさ、押し殺されたがゆえに本音と感じられた吐息が浮かぶ。真昼に思うにはあまりに不謹慎な記憶が、夏の始まりのか細い蝉の声に引き連れられて。

 

 ――蝉時雨のせいだから。

 

 八尾さんは、二人の浮わつきを蝉時雨になすりつけた。彼女の優しさなのか、大人の対応なのか、うまい手打のつもりなのか、ずっと違和感が残っていた。あからさまな不粋なやり口に、らしくないと思い、勝手ながら幻滅していた。

 でも、野暮だったのは自分だ。不謹慎なわかりにくい遠回りの冗談にようやく気付かされる。いや、それすら彼女の仕掛けた時限爆弾なのか。しかも恒久的な。夏は毎年巡ってくる。


 今更、今更なのに。あまりにたちの悪い冗談で、あまりに八尾さんらしい。

 ちっぽけな公園のささやかな緑の中、蝉の声は啼けど響けど姿を見つけられない。必ずどこかにいるはずなのに、ひどく理不尽に感じられた。

 八尾さんは僕が退職した数か月後に辞めたと人伝に聞く。今、どこでなにをしているのかわからない。けれど彼女の電話番号は依然として僕の携帯に登録されたまま、ある。

 蝉は夏が終わるまで啼き続け、日ごと唱和は大きくなる。外灯があれば昼夜を問わず啼き狂う。そして僕は仕事に家庭に将来に少し疲れていた。

 もしも、蝉時雨に降られたなら。浮くぐらいならまだいい。雨は豪雨に嵐になるかもしれず、勢いよく流入する水に抗えるだろうか。


 夏の始まりの一声を聞き、きっと彼女は目だけ細めて笑っている。

 遠くない未来、蝉時雨の洪水に沈むであろう、愚かな後輩に思いをはせて。

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蝉時雨に沈む 坂水 @sakamizu

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