心ひとつに
1946年秋。地中海を手中に収めていた連合国の反転攻勢が軌道に乗って枢軸国の主要国であるイタリアが完全に陥落した。
それはただでさえ形勢不利に立たされていたドイツの情勢を更に悪化させるものであり、更なる枢軸側の離反を呼ぶものだった。
それと時をほぼ同じくして独ソ戦の趨勢も決まる。三方向から攻められたドイツの野望はここに終わりを見せようとしていた。アメリカが直接参戦せずとも第二次世界大戦の歴史は変わらなかった。ドイツとしては徹底抗戦の構えだが、第三帝国の総統は自国を焦土にすることも視野に入れており、最早勝利を掴もうという気概は見受けられない。いや、優生思想主義者で弱肉強食の生存競争を原理原則として考えていた彼からすれば敗北者に与えるものは何もなくて当然とも言えた。恐らく彼はその思想を胸に抱いたまま史実と同じ道を辿ることだろう。
そんな欧州情勢を尻目に東アジア、特に日本は史実とこれでもかというほどに乖離して大変な好景気に見舞われていた。
第二次世界大戦の主戦場となった欧州には武器の他に復興資材を格安で貸し付け、対ソ戦で獲得した新天地、沿海州やインドシナ方面で独立に向けて動き出した新興国に対しては日本式のインフラなどを布設して今後の投資とする。また、それらの生産場所は勿論日本だ。投資と言いながら独立保障をちらつかせて荒稼ぎを行っていた。
そんな盛り上がりを見せる日本経済とは隔絶した病院の一室。浮かれ騒ぐ民衆たちと対照的に静かな病室に壱心はいた。
一日の殆どを睡眠に費やすようになってしまった壱心だったが、ここ最近は珍しく数時間連続で起きていることが出来ていた。そんな壱心が最近やっているのが今後の日本経済についての私書の執筆だ。ここ一週間は満足に食事も出来ず、とうとう胃に穴を開けてそこから栄養剤を流し込むようになった壱心だが、起きている間の意識ははっきりとしていた。
「昨日まででデジタル革命についての話は終わったな。今日はIoTについての話から入ろうか……」
「IoTとは何ですか?」
「そうだな……一言で言うとデジタル革命によって発展したインターネットが全世界を繋いだ後、コンピューターだけでなく個別の物についてもインターネットに繋がることで多様なサービスが提供されるようになるということだ」
壱心の言葉を代筆するのは亜美だ。ただ、彼女の周囲にはリリアン、宇美、桜だけでなく綾名もいる。ただ、彼女たちだけであればそれぞれ忙しい合間を縫って何とか毎日壱心の下に通っているため、そこまで珍しい光景ではない。しかし、今日は鉄心の息子で香月組の次期当主とされる悠希もこの場にいた。彼は神妙な面持ちで壱心と亜美の問答の光景を見ていた。
「頭脳産業が主体となる時代が到来してからは情報の伝達速度が段違いになる。それに伴い産業の移り変わりも相当な速度になるはずだ。ただの形あるモノ作りが産業の主体を占める時代は終わりに近づき、付加価値の高い製品を生み出せる産業がモノを言うようになり、多様なサービスが展開されることになる。個々のサービスについては枚挙に暇がないため割愛しておくが、それでもモノ作りとして重要となる製造技術がある。それが昨日までに散々言った半導体技術だ。先日、亜美がアメリカの研究所に先んじて発表したトランスレジスターの開発などがその源流になるから丁重に扱うように」
「勿論です」
「……この件に関しては政府から、いや正確には海外から圧力を掛けられる可能性が非常に高い。場合によっては産業界を巻き込んで政府に意見し、安易な条約の締結は拒否するようにしておけ」
「はい」
何度も聞いた話だが、それだけ大事に思っていることなのだろう。亜美はそう判断して何度目とも知れない文章をそこに書いておく。その後、経済大国として雇用力の大きい自動車産業についても同じく促進しつつ過度な保護はするべきではないという話までしたところで壱心は一息ついた。
「疲れた。今日はここまでにしよう。……何かあるか?」
「おじい様、少しよろしいでしょうか?」
声を上げたのは悠希だった。彼は周囲の目をあえて無視して壱心に問いかける。
「おじい様は何故、国内経済のことのみをお話に? 軍事面や政治面で話すべきことがもっとあるかと思いますが」
その問いに答えたのは壱心ではなく彼の姉である綾名だった。彼女は呆れながら弟に告げる。
「おじい様が無言で伝えてることを何もわかってないみたいね?」
「生憎、神通力の類は持ってないからね。逆に姉さんには何が分かってるんだ?」
「……はぁ。まぁおじい様に心配かけたくないから私から言ってもいいけど」
そう言って綾名は壱心の妻たち、自分にとって祖母にあたる面々にアイコンタクトで確認を取った後に悠希に言った。
「おじい様はね、日本にもう戦争して欲しくない。そして、今後の日本を動かすのはもう自分ではないと暗に言ってるのよ」
「はぁ? 戦争したくないからって戦争しなくていいわけじゃないし、経済については色々と……」
「仮におじい様が軍略を残せば時勢を無視してそれに乗っかろうとする人は必ず出て来るわ。お金のために何でも本当にしたがる勢力をあなたも見て来たでしょう?」
その言葉には悠希も頷かざるを得ない。壱心、そして鉄心に関連して起きた災難も多々あったが、大財閥の御曹司として悠希自身も人並み以上に様々な問題に直面することがあった。そういった問題を起こす輩には然るべき対処をして来たが、それでも浅ましい人間を嫌という程見て来たのは事実だ。
「でも、この場で伝えるくらいなら……」
それでも渋る悠希に綾名は睨みつけながら一言言った。
「もうあの事件のことを忘れたの?」
「ぐ……」
十年前、信じていた身内に機密情報を流されて壱心が危篤状態に陥ったのはこの場にいる全員が知っていることだ。この話を続けるには分が悪いことを悠希は分かっていた。そんな悠希に綾名は告げる。
「ここにいる誰かが悪意を持って裏切るとは思ってない。けど、善かれと思って失敗することはあるから、本当にやって欲しくないことをおじい様は言葉にもしないようにしてる。そういうこと」
(……何で言ってないのにここまでわかるんだ。逆に怖いんだが……)
長年連れ添って来た妻たちが言うなら分かるが、そんなに会わない孫娘がここまで解像度高く自分についての話をするのは少し引いてしまう壱心だった。
それはともかく。衆目の面前で姉に叱られた悠希を見ていた壱心だったが、自分も鉄心も軍事面でも成果を上げているというのに自分だけ何も出来ていないという負い目を感じているらしい悠希を少し可哀想に思った。そのため、壱心は少しフォローを入れておくことにする。
「悠希」
「はい」
「基本的には綾名が言った通りだ。だが、俺が軍事面についての話をしないのには別の理由もある。聞きたいか?」
「はっ、はい!」
飛びつくように壱心が差し出した話題に食いついた悠希。壱心は少し苦笑しながら言った。
「正直に言おう。これから先の戦いは戦う範囲が広過ぎて俺じゃあもうどこから手を付けていいのか分からない。予想が出来ないんだ」
「……どういうことですか?」
「簡単な例から挙げよう。ミサイル技術の発達や航空機の発展による航続距離の延長が起きればどうなるかは分かるか?」
「……文字通り、戦場が広がります」
悠希の言葉に壱心は頷く。
「そうだな。軍がぶつかるという意味の戦場ではなく、兵器の有効範囲は全て戦場になる可能性を秘めることになる。他には?」
「……他に、ですか」
「あぁ……」
そこまで言って壱心は少し強く目を閉じた後、口を開いた。
「悪いが少し疲れてるんでな。先に言ってしまうと、技術の発展に伴い、必要な部品が増えることで兵器の部品を作るための経済における戦争も読む必要が出て来る」
「そう、ですね……」
「更に、さっきも言ったが情報の伝達速度もこれから飛躍的に向上することは間違いない。情報戦も同時並行で行う必要が出て来る」
壱心の言葉を受けて悠希は沈黙してしまう。そんな悠希を見ながら壱心は言った。
「そして、今言った条件は時代によって変化する。今次大戦で無傷だったアメリカがすぐに仕掛けて来る可能性もあれば、厭戦空気と孤立主義のおかげで永く平和が続くかもしれない。全てを読み解くのは不可能だ」
「……ですが、だからと言って何もしない訳には」
悠希は難しい顔をした後に一気にまくし立てて来た。
「北は独ソ戦を制して再び勢いを取り戻したソビエト連邦国、西には対ソ戦を終えて国内統一に乗り出しながらも不穏な情勢が続く中華民国。東には太平洋を隔てて今次大戦で無傷のまま多額の利益を得たアメリカ、そして南には世界大戦を経て影響力が弱体化した宗主国から独立し、急速な勢いで成長していこうとする東南アジア諸国の存在があります。これらの情勢に対し、日本だけが何もしないという訳には……」
どこかで聞いた覚えのある語り草だ。ただ、前に使われていた時の話よりも規模と単位が大きくなっている。最初に壱心が使った時は日本国内が現在の中華民国のようにバラバラで単位を藩にして物事を考える必要があった。壱心は記憶にある思い出の一つを取り出して懐かしさに僅かに口元を緩めて言った。
「そうだな。複雑な情勢だ」
「ですよね? だから……」
「だが、その中でこの国がどうするかを決めるのはもう俺じゃない。未来ある者たちが、自分たちが望む未来に近付けるように利害を調整し、話し合って決めるんだ」
「おじい様……」
迷いのある目で悠希は壱心を見る。そんな彼に壱心は言った。
「大いに悩め。考えることを止めるな。過去に囚われるな。未来を見ろ。俺が言っていることは違うようで、全て同じだ。過去を教訓とし、自分が望む未来を描き、その未来に近付けるよう今を精一杯生きてくれ」
「……分かり、ました」
(まだ、納得出来ていないみたいだな。具体的な解決策は何一つとして言っていないからそれもそうだろう。だが、それでいい。俺から少し言われたくらいで何も悩まずに全て納得して思考停止に陥るよりは健全だ)
人生の先達者として少しのアドバイスを送った壱心は思い悩む悠希を見てこれからも大いに悩んでくれと願う。ただ、少しだけ荷を軽くするために一言付け加えた。
「ま、悩んでもどうしようもないこともあるがな。その時は最悪の事態を想定しつつ対策を模索しながら行動するしかない。検討するだけじゃ何も生まれないからな」
「……最悪を想定しながら楽観的に行動するというやつですね」
「そういうことだ。案外世の中は適当に回っている。思い悩み過ぎて自分を壊すことがないようにな」
そこまで言って壱心は大きく息をついた。
「……今日は、ここまでだ」
「ありがとうございました。続きはまた……」
「あぁ」
最後にもう一度頭を下げて悠希は退室する。綾名が見送りに出て残ったのは壱心と長年連れ添った間柄の者だけだ。彼女たちを見ていると壱心は自分の歩んで来た道程を思い出す。それと共に周囲の最先端技術を見て時代の流れを実感した。
(……医療技術も進歩したものだ。ナースコールに電動ベッド。しかも白黒テレビや静かな冷蔵庫もある。そして、これからも更に発展していくだろうな)
感慨深い思いに浸る壱心。史実の昭和版の三種の神器はもう一般的に普及している状態だ。そして続く3Cについてももう開発は済んでおり、現状は高価だが市場にも流通し始めている。日本国の発展はこれからも続くことだろう。
(永い、永い旅路だった……願わくば、この繁栄が八千代に続けば……いや、せめてこの国が、最期の時まで日本国として自立した大国でいられるように……)
国際化社会における経済大国としての基礎は固めた。今後、発展させていくのは今を生きる者たちだ。壱心は自らが思うままにこの国の悲惨な未来を回避出来たことを喜び、満足の笑みを浮かべながら目を閉じた。
「先に休む」
「はい。お休みなさいませ」
壱心をこれまで支えてくれた細君の優しい声がした。その声を聞き、壱心は眠りに就いた。
そして、壱心がもう目覚めることはなかった。
約一世紀に渡る壱心の旅路の果て。それは日本の夜明けを越えた先だ。日本を旭日の下に導き、眩い未来へと飛び立つ第一歩。その飛び立つための大地を壱心は確かに作り上げる事に成功し、その生涯に幕を下ろしたのだった。
大日本帝国 -綴錦- 古人 @furukihito
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