大戦末期

「ふん。ソ連は息を吹き返したかと思うとすぐに文句を言ってくるな。我が国は捕虜を返すのを渋ってるんじゃない。お前らの国が泥沼の戦争をしている上、畑から人が取れるみたいなことを言って無茶苦茶やってるから捕虜の方が帰りたがらないんだ。お前らが色々あくどいことやってるからといってウチの国は違うというのに……」

「そんな些事にまで目を通さなくとも……」


 1945年夏。史実では第二次世界大戦が終結に向かって一気に転がり落ちて行った頃。この世界線では未だに世界大戦が終わっていなかった。ただ、世界各地において枢軸側の攻勢が限界に達し、逆に敗北を積み重ねている状態だ。終わりの兆しが見え始めている。特に欧州戦線においては北アフリカ戦線における連合国の優位が確定的なものになっており、地中海はほぼ連合国側の物となっていた。

 そんな中、福岡にある邸宅にある小さな執務室と化した小部屋の電動ベッドの上で壱心はソ連からの外交文書の写本を読んで文句を言っていた。その内容としてはソ連からの捕虜返還に関する批難に対する反論だ。

 日ソ戦で俘虜捕虜となったソ連兵は三十万人以上に上っており、その殆どは沿海州とその近辺で新たな生活を送り始めている。

 当然ながら彼らの殆どが共産主義者だったため、基本的には本国のどこかにお帰り願うことになっていたが、資本主義に鞍替えすることを条件として沿海州かその近辺に残ることを認めることにしていた。だが、洗脳に近い教育を施されてきた面々だ。そう簡単に主義思考が反転することはない。

 尤も、完全に心を入れ替えることは難しいが、祖国以外の遅れているはずの諸外国の発展ぶりと敗戦を前にしてその洗脳は大いに揺らいではいた。しかし、そんな目に見えない内心の問題など管理側からすれば知ったことではない。


(そもそも我が国からすれば共産主義の連中なんざ留めておきたいと思うわけがないだろうが。中華民国だってようやく共産党を追い出せたばかりというのに……)


 ソ連の勝手な言い分に壱心の不満は募る。ソ連が危惧することは分かる。そもそも共産主義者を改宗させて反共にすることで共産主義国家の根本が揺らぐという問題もさることながら、沿海州に残留することを選んだ元ソビエト連邦国の住人たちの中にはレンドリースなどの輸送物資に手紙などを紛れ込ませて家族や親戚に現状を伝えてソ連から人口流出問題を引き起こしたりしているのだ。果てはシベリア送りにされた反共産主義者、もしくはそれに準ずる存在の友人を呼んだりする者もいてソ連の脅威の種となっていた。


(……同じことをされたら激怒するだろうが、それはそれ。これはこれだ)


「はい、おじい様。お怒りの話題はそこまでです。もっといい報告を聞きましょう」


 色々と不満を抱いていた壱心にそう言って思考を止めたのは壱心にとっては孫娘に当たる綾名だった。亜美譲りの童顔……と言っていいのか不明なレベルの若さで三十も後半の二児の母になったというのにしわやしみ一つなく、二十歳そこそこの容貌をした彼女は壱心に世論調査の結果を渡してきた。対する壱心はそれを受け取りながら小言を言う。


「上に立つ者としてはいい報告ばかり聞いてるのはいかん。いい報告は確かに耳触りもいいが、対策すべきは悪い報告だ。耳障りでも悪いことを確認する必要がある」

「おじい様は人の上に立ってる場合じゃないんですよ。ベッドの上で横になって安静にしていてください。血圧上げないで」

「……上げたくて上げてるわけじゃない。勝手に上がってるんだ。それに生物としてある以上、不味い物を我慢して食って長生きするくらいなら美味い物を食いたいだけ食って死にたいのがさがというものだ」

「縁起でもないこと言う悪いお口はこれですか? 頑張って健康にいい食事を作っている身にもなってください。あんまり言うなら泣き喚きますよ?」


 更年期か? などと言ったらそれこそ何をされるか分からないので壱心は反射的に出かけた軽口を内心で思うだけに留めた。そして自画自賛する。


(うむ。思ったことを思うままに出すようになってはボケの始まりだ。思い止まれてよかった。変な奴だが身の回りの世話をされている立場だ。礼を失することがあってはなるまい)


 可愛い盛りの自分の子どもたちの世話を使用人たちに放り投げて壱心の世話に精を出している綾名。自身の幼少期の体験から子どもにどう接していいのか分からないのかもしれないとは思うが、そもそも壱心たちもそんなに育児に心血を注ぎこんでいた訳ではなかったので彼女の事を責められなかった。寧ろ、壱心が殆ど寝たきりになるまでは自分たちより仕事と育児の両立が出来ていた方なので世話をされている立場の壱心からは何も言うことが出来ない。


(……まぁ、俺が雇おうとしていた人を独断で否認して自分の好きなようにしている点は色々言ってもいい気もするが……何がしたいのかねぇ? 遺産でも欲しいのかと聞いたら遺体なら貰いたいとか訳の分からんことを言うし、火葬にすると言えば遺灰と遺骨を欲しがるし……本当に頭のおかしい奴に育ったものだ)


 そんな風に色々と思っていると壱心の内心を何となく察したのか綾名が少し圧力のある笑顔を浮かべて壱心を呼んだ。


「おじい様?」

「何だ?」


 何にも気付いていないふりをする壱心。少し頭のねじが飛んでいるとしても戦場を知らぬ小娘ごときの圧力に屈する程、軟な壱心ではなかった。しばし見合う二人だが綾名の方は更に笑みを深めて壱心のすぐ傍に来る。


「何だ?」

「……読まないんですか?」

「あぁ、そうだな。読む。が、近い。少し離れろ」

「わかりました」


 壱心に渡されたのは彼が設立した通信社が調べた華族に対する意識調査と世論調査だった。それを見た壱心は確かに綾名の言う通り喜びの色を見せる。


(積年の願いがようやく叶うか……正直、ここでもっと手古摺ると思っていた。拍子抜けの気分だが、骨を折らずに済んで何よりだ)


 両調査の結果、大日本帝国の方針を決める両議会の意見の根幹……即ち、貴族院の意見の大本になる華族の意識と衆議院の意見の基となる世論の意識がようやく連合国側として本格的な活動を行うことに確定する水準となっていた。


(去年まではどうなることかと思っていたが、事ここに至ればもう安泰と見てもいいだろう……当初の目的は果たした。ようやく……ようやくだ)


 万延元年、1860年に今の壱心が意識を覚醒してから八十五年が経過した。途中で誰かに引き継ぎ、自身は退場する可能性の方が高い挑戦だった。それを自分が生きている間に達成出来そうな状況にまで持って来ることが出来た。それを実感すると壱心の涙腺がつい緩んでしまう。


「おじい様?」


 先程まで不機嫌そうに文句を言っていたかと思うと急に涙を見せ始めた壱心を見て綾名が訝しむ声を上げる。壱心は綾名に涙を見せないように手で顔を隠して言った。


「気にするな。少し、気が緩んだだけだ」

「……まぁ、ずっと気を張り詰めてましたからね。少し緩めて私のことを可愛がってくれてもいいんですよ?」

「そうだな……ちょっと、休むか」


 綾名の労りの言葉と戯言を聞き流し、壱心は目を瞑る。


(史実とは異なる方向に進んでいる。後は詰めを誤らないことだ。戦勝国側についたからといってそれで終わりな訳ではない。寧ろ、新しい道をようやく切り拓くことが出来たということになる……)


 まだ自分の仕事が終わった訳ではない。最後まで何が起きるか分からないのがこの世の常だ。壱心は自らを戒め、目を閉じたまま思考を巡らせる。そしてそのまま壱心は眠りに就いてしまった。


「あら、本当にお休みになられたんですか……」


 静かに眠りに就いた壱心を見て綾名はそう呟く。この時間に寝ると変な時間に目を覚ますことになるだろう。そう思った綾名だったが変な時間に起きたのであればその時間にまた話せばいいと思い直して壱心の元に届けられた情報の内、自分が閲覧しても問題ない物を見ていくことにする。


 しかし、綾名の想定と異なりこの日、壱心が目覚めることはなかった。



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