第2話 夢の記録

 さて、前回の『丸を描く』には続きというのか後日談があります。これについては僕自身どう捉えるべきなのか悩んだのですが、まずは『丸を描く』の高校時代に書かれたメモの続きを手直しをして構成したものをここに記します。


 自宅に帰って来た僕はもう田舎から帰って来たのですっかり安心していました。それから数日が過ぎて、夏休みの終わりに台風が接近してきた夜の事です。どうせなら、夏休み明けに来てくれたら学校が休みになったのに、なんてことを子供らしく考えていたように記憶しています。

 夜間に目を覚ました僕は何故か祖父母の家にいました。隣には兄が寝ています。あぁ、夢を見ているんだな、と思った途端に便所に行きたくなったんです。それで目が覚めれば良いのにそんな様子もない。そうなるととりあえずは外の便所に行かなければなりません。隣の兄は揺すっても起きてくれません。心細く思いながら、戸を開けてすぐの土間に降りました。土間には明かりは無くて暗いので、目が慣れるまで手探りですが、勝手知ったるという奴でそれほど困りませんでした。土間は縦長で表札をつけている玄関口とは別に奥の台所の上り口の横にもう一つ出入り口がありました。僕らの部屋は土間に沿っているのですぐに外に出られるわけです。家の中は寂としていていつも以上に静かで、やはり夢だからだと思いました。そういえば以前、真夜中に便所に行こうとして熊がのそのそ歩いていて驚いたことを思い出して玄関の戸にかけた手を止めました。いや、それよりももっと嫌な感覚に襲われました。玄関の磨りガラスにぼんやりとうつる影。外は夜闇で月明かりだけのはずなのに、その影は確かにいることがわかりました。僕は戸から手を離したのはいいもののどうすれば良いのか解らず、しかも尿意は治らない。どうせ夢なら土間にして……なんて思ったけれど寝小便になるのか、と考え直しました。それから台所に近い出口なら玄関に立つそいつから見られずに外に出られると気づき、そーっと足を忍ばせてそちらに向かいました。そちらの戸はガラスの付いていない木の戸でした。手をかけながら音がしないように開けられるだろうか、なんて考えていたのですが微かに耳に届いた音に僕はまた戸を開けられずに固まってしまいました。


ひぃるひぃる、ひぃるひぃる、


あなたの家に遊びに行くね、というあのすきっ歯の女の子の顔が浮かびました。それは小さな音でしたが戸越しに確かに聞こえたように思いました。いる、と思った瞬間、コツ…コツ…と戸を叩く音がして、


「ねぇ、遊びに、ひぃる、来たよ……ひぃるひぃる……丸、描いてくれるよね……ひぃるひぃる、ひぃるひぃる」


 あの喘鳴の混じった声が僕の脳を縛り付けるように響きました。


「戸…ひぃ、ひぃるる、開けて、ひぃるひぃ、ひぃ」


僕はじっ、と黙っていました。そうしていれば台風のようにいつかは去ってくれるだろうと考えたのですが、尿意ががんがんとやってきて治らない。目が覚めてくれない。暗闇の中で恐怖はピークに、けれど電気を着けるのはまた怖かった。電気を着ければ外にいるやつに僕がいることがはっきりと解ってしまう。そのとき台所にはいれば、風呂を沸かすためのカマドのある勝手口がある事を思い出しました。僕は台所の床を這うようにそちらに行き、勝手口に続く扉を開けようとしたのですが築百年を越す家らしくわずかに歪みがあるのでそこの扉は、いつも開けるときにガタガタと騒がしい音がするのでした。夢の中なんだからもう少し都合良くなれば良いのに現実と変わらない扉の立て付けの悪さに、堪らない気持ちになりました。考えてみれば、何故、無理にでも外に出ようとするのか。出なければ会わずに済むだろうに、と今なら考えるのですが夢らしく不条理な思考にとらわれて脅迫観念に駆られるように、なんとか一人で外に出ようとしていたのでした。四苦八苦して子供には重い扉を体が通る程度に開けて僕は、暗いなかカマドの前に滑り降りました。埃がひどく溜まっていたのかぶわっと待って、鼻をくすぐりくしゃみが出そうになったのを慌てて両手で押さえてなんとか我慢しました。ほっ、としたのも束の間で暗闇を四つ這いで手探りしている僕の膝が何かを蹴飛ばしたのです。あっ、と思った時にはもう遅い。がらん、がらん、と片隅に積まれていた薪が数本転がる音が暗闇を震わせたのでした。僕は体どころか息さえ止めて、様子を窺いました。きっとばれたに違いない。あの得体の知れない女の子の姿をしたやつにも、この音が聞こえなかったはずがないのだと、激しく高鳴る鼓動もなんとか止められないか、頭の中でぐるぐると色々な考えが渦巻いてどうにかなってしまいそうでした。じーっと耳を澄ましていましたが、あのひぃるひぃるという気味の悪い音は聞こえません。まさか気付かなかったのかな、と思いました。勝手口の扉はトタンに簡単な鍵をくっつけただけの簡易な物で、隙間があってそこから微かに月明かりが差し込んでいます。どうしよう?あの扉から出てもいいのか、そんなことを考えているうちにも尿意は待った無しでそこまで来ていて我慢ならない状態になってきていました。僕は意を決して扉の鍵を静かに外すことにしました。そのとき不思議なことに気が付いてしまったのです。扉には上下に隙間があって外に遮蔽物はないので上下ともから月明かりが入ってきてもおかしくないはずでした。ですが、微かに明るく見えるのは何故か上側だけだったのでした。

僕はそこで想像してしまいました。地面に這いつくばり扉の隙間から中を覗き込む、あの女の子の姿を、その口から……そこまで想像したときまさにその音が響きました。ひぃるぅ、ひぃるひぃる、ひぃ、ひぃ、ひぃるひぃるひぃる、


「ねぇ、はやく、ひぃ、ひぃる、早く丸を描いてよ……丸を描けば通じるんだよ」


 あ、あ、あ、僕はもう物音をたてることも構わず後ろに尻をついて倒れこみました。派手に薪が転がってまた大きな音が響き渡りました。けれど、そんな事よりも僕が恐ろしかったのはその扉の隙間から、何かがちら、ちらとのぞいたことでした。真っ暗なはずなのになぜ見えるのか、なんてことはそれは夢だったからと答える他はないのですが、それは次第にちらり、と目に映る度に鮮明に色を帯びてきたのです。最初はそれは赤い何か、長い舌のように思いました。ですが、僕があの田舎で出会った女の子の口の中に一瞬だけれど認めたものは、認めたものは、あれは、あれは……赤い小さな手。見間違いだと思いつつも背を向けて逃げ出したものが眼の前で揺れているのでした。


「……ここじゃないの?」


 女の子は言葉がまた響いて、不意に僕がいた場所があの田舎の暗いカマドの前から僕の住む家の二階の子供部屋に変わったのです。兄と同じ部屋の二段ベッドの下段で僕はひぃ、ひぃと喘息を起こした時のようにあの女の子と同じように喘鳴を上げてベッドの横のトタン屋根に繋がる大きな窓を見ていました。窓の外は暗闇なのだけれど、やはり何かがいて、


「ひぃ、ひぃるひぃる……ここがあなたの、ひぃ、家なんだ……」


 そんな声がして、僕は自分の家が知られてしまった恐怖にただただ呼吸困難に陥った陸揚げされた魚のように悶えていたのでした。そして、次に窓の外の何かは、

丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて丸を描いて、丸を、丸を、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて、丸を描いて丸を描いて、丸、丸を、丸を描いて、丸を描いて丸を、まるで経でも唱えるように延々と繰り返し始めてたのです。それに呼応するように僕の手が上がり窓の手前の太い横木に手を掛けて……

 そこで僕の記憶は飛んでいるのですが、一緒の部屋にいた兄が真夜中に僕の異変に気づいてベッドを降りると狂ったように丸は駄目、丸は駄目、丸は駄目、と呟きながら窓の手前の横木に爪で×を刻んで描いていたというのです。それも幾つも幾つも幾つもです。手の爪がぼろぼろになって剥がれても他の爪で、延々と延々とそんな行為を続けていたそうで、怖くなった兄が父を起こして、それを見た父が僕を無理やり窓から引き剥がしたそうですが、そのときの僕の狂乱ぶりに父母と兄はもう言葉も無かったようです。僕は幼いころから少し体が弱く夢見がちなところがあったので、そういった子供の想像力が悪い方に作用したのだろうと家族は結論づけたそうです。おそらく家族の言うとおりなのだと思うのですが、この夢はともかくあの田舎での体験は本当に何か危険な物に出会った気がしてならないのです。


 さて、これが僕が高校生のときに書いていたメモから再構成された話なのだがどうにも現実離れした大仰な内容ではないだろうか。恐らく当時小説家志望であった高校生の僕が田舎での『丸を描く』で体験した話を元に創作した物と思われるのです。何故なら僕にはこの一連の夢の内容が全く記憶にないのだから。そもそも爪を何枚も剥がすような強烈な体験をしていれば覚えているはずである。それに今もこの実家の部屋を使っているがそんな爪痕はもちろん残されていない。このメモが記されていた当時の大学ノートには他にも幾つかの小説のアイデアが記されていました。その中でこの一連のメモに関してはわざわざ、実話と記されていたのが逆に創作のように感じられたのです。そんな事を考えながらその大学ノートのこの夢に関するページを読み終えて次のページを捲るとこんなことが書かれていました。


丸は駄目だから×を書いたというのは、全く持って創作らしい内容じゃないか。実際にはあのとき、僕は丸を描いたというのに。僕はもう……


 何が僕はもう……だよ、と僕は苦笑しました。全く、こんな駄文を書いていたとは。作家デビューできなかったわけが今になって良く解りました。さっさと投稿を済ませてしまいましょう。しかし、雨風がかなり強くなってきたな、と思ったとき不意に、


ひぃぃるぅ、ひぃぃる、と言う擦れた音が鳴った。


 僕は慌てて大学ノートを閉じて窓の外を見ました。もちろんそこには何もありません。ただ風が一瞬、強く吹いただけなのでした。多分、ね。



 

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丸が描けないワケ 帆場蔵人 @rocaroca

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