丸が描けないワケ
帆場蔵人
第1話 丸を描く
あなたは綺麗な丸を描いてみた事がありますか?中々、難しいですよね。ましてや真円に近い丸なんてそうそう描けやしない。実は僕はその丸を描くことが怖いんです。特に綺麗に描かれた丸を見ると冷や汗が出そうになります。自分で丸を描くときは決して最後をつなげずにずらします。何故かって?それは幼い頃の体験が原因なのでしょう。これは僕が子ども時代に体験した話を高校生のころにまとめていたメモにそって再現しなおした話になります。この話をどう捉えるかは読んだあなた次第です。もしかすると単なる臆病な少年の妄想だったのかもしれません。
あれは小学校三年生か四年生……兄が中学校に上がってなかったので三年生でしょう。僕らは夏休みになると母方の祖父母の家に泊まりに行っていました。この祖父母の住む地域は絵に描いたような田舎で田園風景に牛の鳴き声、山の麓だったので猿や鹿が現れるようなところでした。何しろお店という物が周囲に一切無い。ガソリンスタンド兼商店がある所まで車で十五分はかかるんですからど田舎なのは解って頂けると思います。そんな田舎では普段と違う体験や環境や、だだっ広い築百年は経ている祖父母の家など、子供の好奇心を刺激したし何より泊まりである事を僕や兄はわくわくして楽しんでいたわけです。よく小説なんかで他所から来た子供が村の子供にイジメられるなんて事がありますが、そんなことも無くて僕らは村の子供たちと仲良くなりました。
そんなある日の事、皆んなと別れて祖父母の家に帰る途中でした。ひどく臭う牛舎の横を抜けて小さな橋の手前に差し掛かったとき、その女の子に気がつきました。橋の手前にお地蔵さんが、いや道祖神だったかもしれませんが当時の僕には区別がつきませんでしたしね。女の子はお地蔵さんの手前で手にした長い木の棒で地面に何かを描いていました。妙な事をしてるな、と思ったのですが同時に興味がわいて声をかけました。その時ひぃるひぃると擦れた小さな音が耳に入って来て、なんだろうと不思議に思いました。
「何してるん?なぁ、ここら辺に住んでるんか」
私の問いかけに女の子は黙って地面を指しました。そこには綺麗に描かれた丸がありました。一切、ぶれがないように見えたので少し驚きながら女の子を見返すとにっこり笑い返されました。そのとき前歯が一本抜けていていてすきっ歯になっているのに気づきました。
「丸を描くの。綺麗な丸」
そう言って女の子は口を閉じたんですが、時折何かを呟くように口が微かに開くんです。その度にひぃるひぃる、ひぃるひぃると聞こえて来ます。口笛とかじゃなくて、多分欠けた前歯の隙間から音が漏れて来ているようでした。その時少し気味が悪い子だなぁ、と思ったのですが話しかけた手前すぐに帰るのもためらわれました。
「凄いな、そんな風に上手く描けんわ」
僕がそう言うと女の子は木の棒を差し出して来ました。これで描いてみろと言っているのか、と思っていると女の子の向かいの地面を指差して、そこ、とだけ言いました。無口なやつ、と思いながらも木の棒を手にして女の子に向かい合うように立ちました。ちょうどお地蔵さんを挟むように。
「どうするん?なんか書こか。僕の名前は……」
「丸……」
「え?なんて。丸を書くんか」
僕は名前とかテレビの変身ヒーローの落書きでもして見せようと思っていたのですが、女の子は、丸を描いて、と繰り返して来ました。
「丸なぁ。僕、絵は下手やしそんな綺麗な丸はよう描かんで……」
「丸を描くと通じるから」
意味は解りませんでした。けれど木の棒を手にした僕は気がつくと丸を描き初めていたんです。なんだか自分の意思とは別に手が動いているような気がしました。女の子の視線が僕にジッと注がれていてその間中、ひぃるひぃる、ひぃるひぃるとあの擦れた音が伝わってきます。僕は軽い喘息持ちだったのですが、その音が脆鳴のようにも聞こえました。やがて綺麗とはいかないまでもぐるりと丸を描き終えると、僕は女の子を見ました。すると女の子は黙ってにぃっと口角をあげて笑っていました。それから僕に歩み寄り木の棒を取り上げて、
「ありがとう、助かった」
と、言ったのです。そばに来るとあのひぃるひぃるという音がはっきりと聞こえました。すきっ歯の奥に何か、いやあれは舌だったのだろうけどそのときは違う物に見えて僕は慌てて女の子に言いました。
「もう遅いで帰るわ。はよ、帰らんと叱られるし」
女の子の次の言葉を待たずに僕は背を向けて走り出していました。とにかく振り返らずに走りました。得体の知れない物に追い立てられているように、無性に怖くて堪りませんでした。背中を向けた直後に聞こえた言葉に追い立てられたのかもしれません。
あなたのウチに遊びに行くね
やがて祖父母の家の裏手にある牛舎と引っ付いた牛飼いさんと呼ばれる人の家が見えてきました。木造りの門構えが立派な家で、その門口から犬の吠え声が聞こえて僕はその門に飛び込んだんです。牛飼いさんの飼っている白い綿毛のようなふわふわの毛をした老犬が人懐こそうに尻尾を降って出迎えてくれたのを見て、僕はようやく足を止めました。犬の首の辺りを撫でていると気分がなごんで落ち着いて来ました。さっきの事も怖がりな僕の早とちりだったのだろうと考え出したのでした。そうしてもう実家に帰ろうと牛飼いさんの門を出ようとしたとき、老犬が急に激しく吠えはじめました。年寄で大人しいそいつがなんだか敵意をむき出しにして門の方に向かって吠えている姿を視て、僕はまた先ほどの恐怖にとらわれました。何か良くないモノを感じて吠えているのではないか。そう思った時、ふいに日が蔭り辺りが薄暗くなりました。やっぱり、ついてきているんだ、という考えがまた浮かんできました。あの門から出ていくと鉢合わせしてしまう、あの門からは出られない、もし鉢合わせしなくてもそのまま僕の祖父母の家までついてきてしまうという思いにとらわれて、僕はどうしていいかただただ焦りました。そのとき後ろを向いて気が付きました。ちょうど祖父母の家はこの家の裏の方にあるのです。田舎の家なんてのは何処も敷地が広いもので抜けようと思えば幾らでも通り抜けができてしまいます。大人に見つかれば叱られたかもしれませんが、この牛飼いさんの家の敷地を裏に抜けるだけで門を抜けずに帰ることができることを思い出したのです。
僕は門の方を伺いながらゆっくりと後ずさりました。これだけ犬が鳴いているのだから牛飼いさんちの誰かが見に来てもおかしくはなかったので、とにかく僕は誰にも見つからないようにさっさと敷地を通り抜けて裏から出て祖父母の家に駆け戻ったのでした。
そしてその夜、兄と同じ部屋で寝ながらあの女の子が遊びに来るのではないかとビクビクしながら布団をかぶっていました。家の中にいれば兄や父母、祖父母もいるので安心だと思ってはいましたが、一つ心配だったのは昔の田舎ではよくあったかと思うのですが便所が外にあったんです。普段でも夜に一人で木造のぼっとん便所に行くのはかなり怖いのですが今日はあんな事があったものだから、もし夜中にトイレに行きたくなったらと心配でたまりませんでした。そんなときにあの女の子が尋ねてきたら……妄想は膨らみ続けましたがどうやら取り越し苦労だったようで何事もなく気が付くと朝が来ていました。
翌朝のことです。食事を食べようと着替えていると祖父母たちが何やら落ち着かない様子で話しているのが聞こえました。どうやら近所で誰かが亡くなったようでした。子供の僕にとってはそれほど関係の無い話だと思っていたら、亡くなったのは牛飼いさんのところのお爺さんだというのです。昨日のことが思い浮かびました。それからもう一つ、僕にショックを与えたのはあの白い老犬も死んでいたことでした。お爺さんと一緒に行ってあげたのよきっと、と僕の様子がおかしいのに気付いて母が慰めるようにいいました。でも僕はそれどころではなくて、家を出ると少し離れたところで大人たちが出入りする牛飼いさんの家の門を見ていました。そっと、邪魔にならないように近づいて、家の様子をうかがっていたとき門の手前の地面に描かれたそれに気が付きました。とても綺麗に描かれた丸が一つ。
僕は引き寄せられるようにその丸の傍に行き、もう一つ気が付きました。ちょうどその門の手前の丸と向かい合うように門の中の地面に丸が一つ描かれていました。
丸を描くと通じるから
僕は門前に立ち尽くして空になった犬小屋をしばらくぼんやりと眺めていました。やがて思い浮かんできたのは……
あの女の子が門前立っている。白い老犬があまりに吠えるので、見に来た牛飼いさんとこのお爺さんが女の子に出会い声をかけた。女の子のすきっ歯からはひぃるひぃると掠れた音がしている。お爺さんは何故か女の子に言われるままに地面に丸を描いていく。そして女の子が通じたわ、と嗤っている。そしてひぃるひぃると鳴るすきっ歯の間から赤い小さな手のようなものが、さらにその喉の奥からナニカが這いずり出してくる。女の子の本当の中身が……そんな情景が頭の中をよぎった。どこかでひぃるひぃる、ひぃるひぃるという音が聞こえた気がして僕は慌ててその場を離れたのでした。
あのとき牛飼いさんの家を通り抜けなければ、あの女の子は僕の家に来たのかも知れない。翌日もその次の日も何事もありませんでした。あの女の子の姿は村の中で一度も見なかった。祖父母や母に尋ねてみたが、近所にそれらしい女の子が住んでいるということはなかった。もしかすると僕らと同じ帰省してきた子だったんじゃないの、と母が言ったのだけれど僕はどうにもそれに頷くことはできなかった。結局、あれがなんだったのか解っていない。頭にちらつくのはあの綺麗な綺麗な丸、あの丸が描かれたとき一体どこにつながるというのだろうか。知りたいけれど、知りたくない、だから未だに僕は丸を描くことができないのです。
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