戸が開く

 けれどそんな妄執は、長くは保たない。

 かはっ、と。

 苦しげな嗚咽が上がって、おれは我に帰った。世にも恐ろしげなことをしている手が自分のものだということに気づいて、全身から血の気が引く。すぐに手を離した。千遥は暗がりでもわかるほど赤い顔をして、せわしなく息をしていた。てのひらに、激しい鼓動が伝わってくる。

 ―おれ、いま、なにしてた?

 頭のうちは冷えきり、かかった靄はすっかり晴れていた。自分がなにを考え、なにをしようとしたのかを理解して、体の芯からがたがたと震えはじめる。

 おれは後じさった。

「ごめん。……ごめん、千遥……」

 おれはほんとうに、頭がおかしくなってしまったらしい。だって、なに考えてた? 苦しまなくていい道があるからって、おれは、千遥を。

 そんなの、いちばん選んじゃいけない道に決まっているのに。

 とにかくこの場から離れたかった。こんな汚い人間は、こいつのそばにいちゃいけない。

 けれど千遥は、それを許してくれなかった。

「待って」

 体を起こした彼に腕をつかんで引き止められる。知らず、びくりと体が震えた。けれど千遥は動じずに、ただ、しずかな目でおれをみつめる。怖い、と思った。だから目をそらした。おれの醜い本心を見透かしてしまいそうなまなざしは、どこか、母である尋乃さんに似ている。

 おれはどうにか千遥の手をふりほどこうとしたけれど、できない。

「マユ!」

 凛とした呼び声に、恐る恐る千遥に視線を戻す。

「悪いと思ってるなら、ちゃんと話してよ」

 顔を見て、引く気はないのだな、とさとる。それになにより、おれはもう疲れていた。こいつには、おれの葛藤も欲望も知られたくなかったけど、こんなことをしでかしてしまった以上、潮時だろう。観念してうつむくと、もう逃げる意志はないことを察したのか、千遥は手を離してくれた。

 なにから話したらいいのか。口火を切ることばを見つけられないような気がしていたけれど、

「おれは……もうどうしていいかわからない」

 地面を見つめていたら存外するりと弱音が出た。

「おまえはたいせつな、神さまの獣で。おれなんかが独り占めしていいわけないのに、気持ちには際限がなくて。でも」

 気づかないふりはできなかった。千遥のことはほかのだれでもない、おれが構い倒したい。ただそれだけならばまだよかったけれど、いまでも、夢に見た千遥のことを思い出す。あんな汚い欲望を、こんなにきれいなこいつに抱えている。

 たとえそれを千遥が許してくれたって、やっぱりだめだ。

「神さまの獣を想う人は大勢いて、その血がつながることを望んでるだろ……やっぱり、おれは身を引かなきゃだめなんだって考えた」

 おれは、もう、どうしていいかわからない。

 思いのままに千遥を求めれば罪の意識に苦しめられる。

 かといって千遥を手放したくもない。

 その繰り返しに、解決の糸口を見つけられないでいる。

「だからこんなことしたの」

「……ごめん。ほんと、どうかしてた」

「いいんだけどさあ。おれ、マユにしてほしいことまだたくさんあるから。心中しちゃったら、まあ、それができなくなるよね」

 千遥はわずかに赤くなった首のあたりをさすりながらも、ほんとうに気にしていないみたいだった。どころか、やっぱりマユは情熱的だよ、だなんて笑ってさえいる。

 ……こいつ、ほんとうに、おれの言ったことをわかってくれたんだろうか。思わず口を開きかけたおれに、ふいに千遥はほほえんだ。

 それはいつになく大人びた表情だったので、虚を突かれる。そのうちに千遥が、ぎゅっとおれの手をにぎった。

「おれはね、自分の気持ちに素直になることにした」

 自分の気持ち、って。またたくおれに、千遥は言う。夜の空気をやわらがせる、あかるい声で。

「おまえといっしょにいたいから、いっしょにいる」

 あまりにまっすぐな宣言、それがおれとの未来についてのことだということに、目がくらんだ。おれは思わずゆるゆると首を振ってしまう。

「おまえぜんぜんわかってないよ……そんなにかんたんなことじゃない」

 やっぱりこいつ、わかってない。自分がどんな立場にいるのかも、それがおれに好きだとのたまうことにどんな影響を与えているのかも。

 ため息が出た。

「マユはおれをばかにしすぎだよ」

「ばかにはしてないけどさ……」

「してるんだって。あのね、おれ、ちゃんとわかってる。わかってるからまず、母さんを説得しにかかってたんじゃないか」

 そう言われたところで信用できない、という顔をしてしまっていたのだろう。もう! と不満げに千遥は鼻を鳴らし、おれに飛びついてきた。

 そのままいつものように腕のなかに収まりにかかるのかと思ったが、ちがう。おれの視界が陰り、全身が人肌のぬくもりにつつまれる。

 抱きしめられていた。

 たったいま、自分の首を絞めようとしていた人間を、抱きしめるなんて。驚きに目をみはるおれをよそに、千遥はいつもと逆だね、と吐息で耳もとをくすぐるばかりだ。

 おれは離れなければ、と思うのに、与えられるぬくもりが心地よくて、抵抗する意志をどんどん奪われる。

「ねえマユ、おれね、おまえがおれのこと愛してるのはあたりまえだと思ってたよ。おれがおまえのこと、愛してるようにね」

 まるで恋人にするように、おさななじみの少年がささやく。

「だから帰れって言われた日以降、あんなにだめになった。……でもおまえも同じ気持ちでいてくれるなら、おれ、もう迷わないよ。なんだってする。血をつながなきゃいけないっていうなら、子どもだってなんだって産んでやるよ」

「産む、って。おまえが産むのかよ」

「そうだよ。おれには真由人以外ありえないから、そうなるだろ」

 こいつ、ばかなのかもしれない。というか、ばかだ。

 でも。

「だからおまえはただ、欲しがればいいんだ」

 そうやっておれの欲望をただただ受け入れてくれる千遥は、おれの知らない千遥だった。ただきよらかでうつくしいばかりの少年じゃあない。ちゃんと、いろんなことをわかっていて、覚悟して、おれのことを好きだと言ってくれている。

 もっと早く、千遥にほんとうの気持ちを話していればよかったのかもしれない。慕情も、不安も、みんな。

 おれが思う以上に、千遥は肝が据わっていた。覚悟を、していた。いつもおれが世話しているばっかりだから気づかなかったけど……おれだって、こいつにすがっていいんだ。

 ちはる、と名を呼んだら、さらに強く抱きしめられた。その腕の強さに安心して、おれは千遥の耳もとに口を寄せる。

「おれ、おまえのこと―」

 決定的なことばは、たとえ神さまにだって聞かせるつもりはなかった。ほんの小声で、夜風にまぎれさせるようにして。でもちゃんとそいつに聞こえるように、言った。

「うん。知ってた。……おれたち、ふたりとも欲張りだな」

 それがいちばん欲しかったことばだ、というふうに、千遥はうなずいた。

 気がつけば、あたりはもうずいぶんと明るくなっている。千遥の腕のなかで身を起こすと、顔が、よく見えた。飴色の目が甘えたそうにこっちを見つめていたから、おれは腕のなかから出て、千遥を抱きしめ返す。

 見つめあっていたら、せり上がってくる気持ちに収まりがつかなくなった。おれをゆるすみたいに、千遥がまぶたを閉じる。はなびらのようなふくらみに煽られて、おれは目の前のうつくしい顔に自分の顔を近づけた。

 やりかたは、知らなかった。ただ顔を傾けるということだけはなんとなく聞き知っていたのでそうした。おれも、目を閉じた。

 くちびるとくちびるをくっつけあっていると、まなうらが明るくなる。千遥のくちびるがわなないたので、顔を離して目を開く。

 広がる世界は、もう、数分までとは違う世界だ。空の向こうで朝日が顔を出し、あたりを赤い色に染めている。そして。

 千遥のながい前髪をかき分けてのびた、角。

 隆起程度でしかなかったひたいのそれが、太く、長くそだっていた。朝焼けの色に染まったそれは、まるで真珠のように内側からぼうっと光ってみえる。

「折ってもいいよ。そうしたらおれなんて、そこらにいる中学生と変わらない」

「……できないよ」

 できない。こんなにうつくしいものを。これさえなければと、疎ましく思ったことがないとは言わない。でもやっぱりできない。角を含めて千遥はうつくしく、それが、千遥だと思うから。

 千遥はにやっと笑った。

「じゃあ、洗ってよ」

 ずいぶん汚れちゃったしね、と続いて、唐突なその言葉の意味を知る。土の地面でひと悶着あったせいで、おれたちはどこもかしこもほこりっぽく汚れていた。

 洗って、と。その〝おねだり〟に近い命令を聞くのは、ずいぶんひさしぶりな気がする。日常だったはずのことが、こんなにも遠ざかっていた。

 手をつないで道を下り、風呂へ行った。脱衣所まで来ると、いつのまに沸かしてくれていたのか、扉越しにあたたかい湯のにおいがする。

 いつもどおり千遥はすべてをおれに任せきっていて、ただ服を脱がされるのを待っている。しかたがないな、と苦笑して、うすい水色の寝巻きのボタンに手をかけた。ひとつひとつ、はずしていく。

 こうして向かい合っていると実感する。背が伸びた。少し前までおれの肩くらいまでしかなかったのに、いまはもうあごのあたりまで身長がある。ぼたんを外しきって服を肩から落とし、ズボンまで脱がせていくと、成長した体のすべてがあらわになる。

 まだ成長のさなかにある肉体には、おとなの男の強さと少年のやわらかさのいずれもがある。どんな完成をみるのかまだだれも知らない。幾多の可能性がこのあおじろい、しなやかな体の上にかさなりあっている。だからこんなに光って見える。

「あんまりじっと見ないでよ。……やらしいなあ」

「いいから入れよ」

「あ、待って待って」

 浴室に押し込もうとしたら、千遥に止められる。なにごとかと思っていたら、千遥の手がおれの揃いの寝巻きのぼたんにかかった。

「明日は雨か」

「適度なおしめりは必要だよね。ほら、じっとして」

 ぎこちない手つきで、上からぼたんがはずされていく。さすがに下は自分で脱ごうとしたけれど、おれが止めるより早く、得意げな顔をした千遥に下着ごと下ろされた。

 そうしてふたり、はだかで浴室に入っていく。

 浴槽には、清潔で熱いお湯がたっぷりとためてある。千遥が嬉しそうな顔をしてどぼんと浸かっていったから、おれはさきに髪や体を洗うことにした。

 はずだったのだが、たちまち不満げな顔になった千遥に手を引かれ、バランスを崩して足をつっこむはめになる。

 熱いしぶきが上がり、つるつるすべる浴槽の底でバランスをとりかねて肝を冷やす。危ないだろ! と叱りつけようとしたら、じっとりとした目で睨まれた。

「こういうときはいっしょに入るもんだろ」

 ああ、そうかい。おれは仰せのままに、湯に体をつけた。

 しかし、そう広くはない浴槽である。おれと千遥が入るともういっぱいになってしまって、身じろぎすると湯があふれ出る。そんななかで向かいあって座っているわけだから、ほとんど足はからまった状態だった。内ももが、すべらかな足の皮膚とこすれる。自然、体温が上がっていく。

 千遥はどうだか知らないが、おれはふつうに、その手の欲望をこいつに対して持っている。そういえば、夢で見て以来、こうしてまともに千遥のはだかを見るのははじめてだった。この場所に来てから風呂に入れろとせがまれることは何度もあったけれど、気鬱が先立って避けてばかりいた。

「おれ、あったまったから上がるよ」

 立ち上がるため、からまる足をほどこうとしたら―足に力を入れて、それを封じられた。

「千遥」

 たしなめるように呼んだ。こいつ、やっぱり、わかってないんじゃないか。いろんなことが、まだ。

 勘弁してくれと言いたい気持ちでいると、ふいに、千遥がおれの手をつかんだ。湯で温められて燃えるような熱さをした手が、おれの手をみちびく。

 はたしてたどり着いたのは、いつかもふれた場所だった。足の付け根、おいそれとふれてはならないはずのその場所。

 だけど、あのときの感触はもうここにはない。髪やまつげと同じ色をしたやわらかな下生えが、指先をなぜる。

「おれね。―まだなんだ。だからさ」

 なにがだ、と問い返したかったが、かなしいかな、のぼせきった頭ではなんのことを言っているのか、察しがついてしまう。

「そうしたらもう一生おまえのものだって気がしない?」

 それはとても、魅力的な誘いだった。

 いいんだろうか。ほんとうに。だってそれは、千遥のはじめてだ。おれなんかが、してしまっていいんだろうか。

 ふわっと、耳もとをやわらかな感触がかすめる。かすれた声がした。おれをおとなにして。

 なんて、あざといんだ、おまえ。冷静なおれはそう言ったが、全身を熱くしているおれのほうは、そうもいかなかった。成熟にいま一歩とどかない、まだ青いままだという果実にふれ、色づいた口から漏れるあえかな吐息を聞いている。

 慣れていないせいか反応は顕著だった。おれはほとんど意識を途切れさせそうになりながら、それでも目の前でよじれ、ときに跳ねる体をみていたいと目をあけている。

 おれと千遥のあいだの熱は、浴室に満ちる熱気に混じって、どこまでも、熱を増していくようだった。

「……きれい」

「なにが」

「真由人が……。男っぽくて」

「きれいなもんか。……はずかしいこと言うなよな」

 苦しげに息を吐き出す千遥をなだめるように、高みに手が届く瞬間、おれは角にくちびるを落とした。おれの手のなかで、千遥は体の内側にある戸を開いた。おとなに、なった。


 体を洗うあいだに湯を入れ替えて、また、ふたりで肩を並べる。高いところにある窓からは、さんさんと朝の光が降り注いでくる。

 せいせいした、いい気分だった。もうなにも恐れることなどないと思える。

 だから誘いは、自然に出た。

「帰ろうか」

 美夜篠原へ。

 きっともう大丈夫だから。揺らがないから。

「うん」

 千遥は笑ってうなずいてくれた。

「帰ろうか」

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