05

悪夢

 いつかもそうだったが、おれが見ないふりしたなにかを突きつけてくるのは、夢だ。きっとおれは自分で自分をいつわるのが得意なずるいやつだから、無意識のところにほんとうのことが現れる。

 その日、おれはうなされて深夜に目を覚ました。天井の梁が目に入って、あれは夢だったのだと気づいたあともずいぶん長いこと、動悸が落ちつかなかった。

 おれはそっとふとんから抜けだして、部屋のすみに固めてある荷物に近寄った。ふたりで山を登ったとき持っていた、学校帰りの中身のままの通学かばん。

 この家にはひとつ、ないものがある。望めばなんだって出てくるような至れり尽くせりの環境だけれど、ただひとつ、一般的な家庭にあるべきものがない。

 カレンダーだ。

 考えてみればあたりまえかもしれなかった。なにせここは、本来なら冬の入りであるはずの外界とはうって変わって常夏の世界なのだ。時間の概念など必要がない、異界、幽世なのだという気がする。つねにまばゆい季節がおれに告げる。憂いなどここには必要ない、と。

 それでもおれは、未練がましくもここに来てから迎えた朝の数を数えていた。千遥に見つからないようにこっそりと、通学かばんに入っていた授業用のノートに鉛筆で正の字を書いて。

 もう二週間近くが経っていた。

 並んだいびつな線の本数に、ぞっとする。二週間。冬の美夜篠原では、おれたちの不在がそれだけ続いている。

 ―いま見ていた夢。尋乃さんたち千遥の家族だけじゃない。たとえば松永の祖父みたいに、千遥をかわいがっていた町の人々が、悲しんでいる夢だった。

 胸中で黒い雲が大きく育っていく。あいつを身勝手な欲望に抗えずにさらってきたのは、ほかでもないおれ。あのひとたちを悲しませているのはおれなのだ。

 それでも手放したくない、と思ってしまう。そうだ、悲しませたくないというのなら、いますぐ山を降りて千遥を家に帰せばいい。だけどそれができない。だってその道を選んだら、おれと千遥はもういっしょにはいられない。千遥が嫁をもらって、子どもをもうける。ごくあたりまえの幸せであるはずなのに、それを千遥が享受するのを耐えがたく思う。

「……最低だ」

 おれは正真正銘、欲深い罪人だった。

 それからは、屋敷の浮かれたざわつきとはうらはらに、うまく眠れない日がつづいた。千遥はあたりまえのようにおれのふとんに寝るようになっていて、追い出そうとしてもふとんがひと組しか用意されていないのでしかたなくいっしょに寝ている。千遥は寝起きは悪いが寝つきはすこぶるよく、おれの体にしがみつくとほどなく、健やかな寝息が聞こえてくる。

 対しておれはまぶたを閉じてもなにか胸の奥のほうがざわついていて、すぐに目を開けてしまう。闇に慣れた目でも見極められない暗がりをじっと見つめて、ひとつのふとんに収まっている相手の体温を感じる。こんなに近くにいると、眠れないことに気づかれてしまいそうだ。おれはつとめて息をひそめ、せめて体を休めようとじっとしている。

 いつもとおなじ顔をしようにも、体のほうに限界がくる。……隠しているのも限界だと、ある朝思った。顔を洗うために立った洗面台の鏡のなかから、ぞっとするほど暗い目をした自分がこちらを見ていたからだ。

 それでもなにも行動を起こさないまま―起こせないまま、ノートには正の字が増えていって。

 ある夜、もうじき夜明けだとわかっていながら、おれはあと少し待つのに耐えかねた。まきついた千遥の腕を体からほどき、ふとんを抜け出した。

 サンダルをひっかけて、縁側から庭に降りる。明るい夜だった。まるまると太った月が空の高いところに上がっていて、冴えた光が降り注ぐ。百合の花群は、花のひとつひとつがあおじろい光を宿して、ぼんやりと明るく見えた。

 甘いにおいに誘われるようにふらふらと歩いていく。そうして、見つけた。木々の合間にかろうじてたどれる細い道。山のさらに上のほうへ続いているようだ。

 どうしてかその道のさきが気にかかって、目がはなせない。

 立ちつくしていると、うしろから声がかかった。

「マユ、なにしてんの?」

 千遥だった。肌寒いからか、薄いタオルケットを肩にかけて立っている。眠たさを隠さない声を出したかと思えば、大口あけてあくびをしている。おれが出てきたことに気づいて起きてしまったみたいだった。

 おれは鬱屈としたものを追い出すように、笑いかけてみせる。

「いや、まだ上に行く道があったんだな、と思って」

「え? ……ほんとだ。気がつかなかったな」

 千遥は両の目に好奇心の光を灯らせて、行ってみようよ、とおれの袖を引いた。まだ暗いから危ないぞ、とたしなめるのだが、今日は月が明るいし大丈夫だよ、と返される。自信有りげなそのもの言いは、神さまを味方につけているからだろうか。

 寝不足のために抗う力も湧いてこず、連れぞって道に一歩を踏み出したが、なんでか、行ってもいいのかな、という不安があった。道のさきになにがあるのかを知りたいような、知ってはならないような、そんな気持ちだ。

 夜歩きの危険さを心配したが、さいわい、道はさほど長くなかった。白百合がぽつんぽつんと道ばたにこぼれ咲いて、おれたちを導くようだった。一箇所急な登りがあったくらいで、あとは拓けた場所に出る。そこにもやはり、百合の花が咲いていた。屋敷の管理をするだれかが育てているのか、それとも自生しているものなのか。可憐な容姿の花だが、ずいぶんと生命力が強いらしい。

 浮かんだ月がくっきりと、葉群や枝に遮られることなく見える。まだ暗くてよくわからないが、見晴らしがきく場所のように思えた。

「これ、日の出が見えるんじゃないかなあ」

 うきうきと千遥が言い、せり出した大岩の上に腰掛けた。

「待つのか」

「おれがこんなに早起きできることってもう永遠にないと思わない?」

 違いない。おれは手招きされるまま、千遥のとなりに腰掛けた。

 じっとしていると少しばかり冷える。くしゃみをすると、千遥がタオルケットをおれの肩にもかけてくれた。ひとつのタオルケットにくるまっていると、ふれあった肩からじんわりとあたたかさが染み入ってくる。こいつの体はいつもぬくい。

 体が温まると、甘い香りのせいなのかこのところ眠れていないせいなのか、頭がぼんやりしてくる。微風に揺れる木々の音が耳に優しすぎて、拍車をかける。

 ふと隣を見ると、千遥はいつになくおとなしい。彼の上にも、等しく月の光は降り注いでいる。細く頼りない首すじが、青い闇のなかにぼうっと浮かび上がっている。

 ふわっと、肌のにおいがした。いつも千遥が家で使っているはちみつのシャンプーとはちがう、せっけんのにおい。

 ―もう苦しまなくていい道が、ひとつだけある、と思った。

 ずくん、と心臓がうずく。全身に血がめぐりはじめて、全身の感覚が冴え渡ってきた。その実思考だけは眠気にとらわれてぼんやりとしている。

 百合のにおい。あおじろい、月明かり。

 おれは千遥の腕を引き、地面に引き倒した。驚きのあまり見開かれた目と目が合うが、さしたる抑止力を持たない。ひたいを押してぐっと頭をあおのける。おとがいが上がり、ぐっと首の筋肉が緊張した。

 少し前までは目立たなかったのどぼとけのとがりが、淡い影を作っている。そっと指でなでると、さらりとした感触がおれを誘った。右のてのひらを、首にあてる。

「マユ……?」

 色づいた口唇が不安げな吐息を吐き出した。けれどその声は、ずっと遠くに聞こえて、響かない。

 右手の下に太い血管がある。どくん、どくん、といのちの脈動が伝わってくる。おれは左手を、右手になかば重ねるようにして、首を圧迫する。五指でやわらかな皮膚を押し、締め上げていく。

 そうして皮下をめぐるいのちの流れを、せき止めようとする。

 千遥の口がこわばって、固まる。時間まで止まってしまったみたいな心地になる。もう苦しまなくていい道。時間を永遠に止めてしまえる道。


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