蜜月
家は無人だった。そのわりに放置されていた風ではなく、すっきりと手入れが行き届いている。玄関からなかに入ると板張りの床はさらりとして塵ひとつない。奥には畳の間が数部屋、台所、浴場が少し外れたところにある。
見事なのは庭だ。縁側に出ると甘い香りがして、百合の花畑がのぞめる。脇には鯉こそいないものの小さな池まであり、うすみどりの水面をさらしている。ただ、隅のほうに物干し台が据えられているのは妙に生活感があった。
百合は夏の花。さんさんとふりそそぐ日の光にも、夏の気配がある。あの雪風を越えて、おれたちは常夏の国に来てしまったみたいだった。
ここじゃないどこかへ行こう、とおれは千遥に持ちかけた。遠いところ、なんのしがらみもないところへ、と。その願いを、この山のどこかにいる神さまが聞きとどけてしまったのだろうか。
いいのかな、と言うおれにいいんだよ、と千遥が返して、おれたちはここで寝泊りしはじめた。暮らしは快適だった。おなかがすけばひとりでに卓に食事が用意され、眠たくなれば畳の部屋にふかふかの白いふとんが敷いてある。風呂にはいつも清潔なお湯がたっぷりためてあって、いくらなんでも大盤振る舞いしすぎだと思った。思ったから、せめてふとんは自分で敷くように、洗濯も自分たちでするようにします、とだれに言うでもなく言った。
「マユはまじめだなあ」
千遥はそう言うけど、おれはゆずらなかった。その後からはふとんは部屋のすみにつみあげてあるだけ、ひとりでに洗濯がされていることもなくなった。
そうして千遥の風邪も治りきった、ある朝。おれが目を覚ますと、妙にふとんのなかがぬくい。ここの季節は夏とはいえ、山のなかであるせいか朝晩は冷える。薄いふとんをかぶって寝ているのだけれど、今日はなにか窮屈さがある。
すぐとなりに敷いてあるふとんを見れば、もぬけの殻である。おれはしばし沈黙したあと、掛け布団のなかに顔をつっこんだ。
思ったとおりだ。白い寝具のなか、夏日を透かしたやわらかな光につつまれて、千遥が寝ている。体を起こそうとしたがうまくいかない、すべすべとした足がおれの足にからんでいる。とりあえず、すうすうと眠るおさななじみの肩を揺らした。
「起きろ。なにやってんの、おまえ」
伏せられた長いまつげが揺れる。はなびらのような白いまぶたが、ゆっくりと開いた。飴色の虹彩にはまだ、とろりとした眠気が居残っている。
「んー……、おはよ、マユ」
ごしごしと目をこすり、おれを視界に入れると笑う。まるで無垢な幼子のようだったが、流されてはならないと自分に言い聞かせる。
「おまえ、自分のふとんがあるだろ」
「いや、風邪治ったから、もういっしょに寝てもいいかなと思って」
あっけらかんと答えにもならない答えが返り、千遥は無邪気におれに両手をのばしてくる。腕は脇をかすめて胴にまわり、首筋にやわらかな髪の感触がした。
……ぬくすぎる。
「暑苦しいから離れてくれ」
「そう? 今朝、涼しいと思うけどな」
のれんに腕押しである。あーもう、と寝返りをうって千遥を振り払おうとしたが、やつは頑として腕を解こうとはしなかった。コアラの親子のようにくっついたままごろごろと布団の上を転がっていると、ふいに千遥が体重をかけてきた。おれはシーツに背をあずけ、その上に千遥がぺったりと体を伏せている。
「真由人」
栗色のさらさらとした髪が、おれのひたいをくすぐる。
「忘れてない? おれ、おまえにお嫁さんになってほしいって言ったんだよ」
どくん、と心臓が高鳴った。足のつけねの感覚の敏感なところに、千遥の体の重みを感じる。舐めたら甘い味のしそうな両のまなこに、おれの影がうつっている。打って変わって真剣な顔をして、千遥はまっすぐな視線をおれに注いでいた。
……目やについたまんまだし、寝癖だらけの頭してるんだけど。
おれはつとめて平静な声を出すよう心がけながら、ひとまず千遥の目もとをぬぐってやった。
「つまりどういうことだ。わからないから説明してくれ」
「わからないってどういうこと」
「なんでおまえはおれといっしょに寝てたんだ、いまおれを押し倒してる?」
おれがすっとぼけていることには、千遥も気がついたらしい。顔がひきつり、屈辱的だとでもいうようにぷるぷると震えはじめる。そのまま黙っているので、おれは千遥の髪の毛を手ですいて整えてやる。
そしてついに噴火した。
「プロポーズ! プロポーズしたの! おれ、マユが好き!」
「あーあーそうかよおれも好きだよ、洗濯するからどいてくれ」
一瞬の隙をつき、おれは千遥の体の下から抜け出した。ころんと転げたおさななじみは捨て置いて、シーツのはしっこを引っ張るとさらにその体が転げていく。千遥のふとんからも同じようにシーツをひっぺがし、まとめて両手に抱えると洗濯機のあるほうへ向かった。
やかましい声がうしろから追いかけてくる。
「ちょっとー! ねえなに!? マユ、変だよ!」
「変なもんか、おれはいつもどおりだ」
「そんなことない。マユ、おれのこと好きだよね? 一時はどうなることかと思ったけど、ちゃんと追いかけてきてくれたもんね。なのにその反応はなに! 結婚しようよ!」
結婚、結婚て大声で叫びながら追ってくるのはよせ、男同士でこんなやりとりをしているのはまるで滑稽だ。おれはなおもまとわりついてくる千遥をてきとうにいなしながら、腹減ったなあと土間の炊事場にほど近い、いつも食事をとる部屋に向かう。ふすまをあけると、香ばしいにおいがした。炊きたてのごはんのにおいだ。
換気のため窓を開けると、朝のすがすがしい空気が吹き込んできて、すっきりとした気分になる。千遥は寒いと文句を言ったが、おれが思うにこいつはもう少し生活を正す努力をするべきだ。もっともいまにはじまったことではないが。
食卓に着くと、向かい側に座った千遥が必死な顔で身を乗り出してくる。
「おれ、マユのこと単なる飯炊き婆にしようだなんて思ってないから。ちゃんと大事にする」
「そうか、じゃあとりあえず飯よそってくれ」
おれは即座に湯気をたてている炊飯器を指し示す。ふだんやらないことをやらされているもんだから「あちっ、あちっ」と大騒ぎしながらしゃもじを振り回す千遥を横目に、今日の朝飯もうまそうだなあと食卓の上をながめた。だしのにおい香る味噌汁、ふっくらとしたあじの開き、ひなたの色をしたぶあつい卵焼きに、青菜のおひたし。ごはんの付け合せには納豆、梅干し。
千遥がおれに飯を盛った茶碗を差し出してくる。へたくそだ。茶碗のふちに米粒くっついてるし、中高に盛れていない。でもまあこのドがつくめんどうくさがりが素直にやってくれただけ及第点だろう。
なにかを言いかけた口に、ごほうびとばかりに卵焼きをつっこんでやった。むぐっ、と声が上がったが、おとなしく咀嚼したのち飲みくだす。
「マユ~」
「いいからさっさと食えよ、冷めたら申し訳ないだろ、作ってくれてるだれかに」
「おれには申し訳なくないわけ……?」
うらめしげな視線を受け流し、おれは白米を口に運ぶ。噛むほどにほのかな甘さが広がって、思わず相好が崩れてしまう。
おいしく朝ごはんをいただき、ぱん、と手を合わせた。ごちそうさま。おれはさっさと食器を重ねると、立ち上がった。
「千遥、今日はおまえが皿洗いな」
「ええ~」
「もう病人じゃないだろ。それにおれのこと、ただの飯炊き婆にはしないんじゃなかったか」
「……マユ、ずるい」
「おれは洗濯物干してくるから」
じゃ、よろしく。ぴっと片手を立てて後片付けを任せると、おれは洗濯機のほうに戻った。朝ごはんを食べているあいだにあとは干すだけの状態になっているはずだ。
洗濯機のなかから洗いあがったシーツを取りだす。ひんやりとした洗剤のにおいがふわっとたちのぼる。サンダルをつっかけて縁側から庭に降り、物干し竿にシーツを広げていく。まっしろなシーツは、朝日をはらんで内側からぼんやりと光るようだ。薄青く染まった空に、白いシーツ。心洗われるような光景だった。
さてもう一枚も、と広げかけたところで。
「……もしかして照れてるの」
背後に千遥が立っていた。ゆうれいかよ。
もう片付けが終わったのだろうか。多少心配ではあったけれど、まあここは信じてやることにして。おれはふう、とため息をついて背を向けた。
照れてる、か。
「そうでも無理ないと思わないか。おれたちずっと、友だちだったんだから」
「でもそれっていまさらだよ。あんなに情熱的におれのこと抱きしめたくせに」
「熱出してたからそんな気がしただけだろ。暑くて」
物干し竿は少し高いところに渡されている。おれは背伸びしてシーツをそこにかけようとした、のだけれど。
「うわっ」
突然、背後からなにかが飛びついてくる。なにか、ってそんなの、今この状況じゃひとつっきゃない。千遥だ。業を煮やしたあいつが、ついに実力行使に出たのだった。おれは咄嗟にその場に踏みとどまろうとするが、近ごろ背がのびてきた彼は比例して体重も増している。受けとめきれずに、数歩前に進みながら地面に転がった。
ばさっと宙に広がったシーツ。目の前に迫りくる百合の海。そのなかに倒れこむと、花弁がふわっと舞い上がった。おれはしたたかに体を打ち、痛みにうめく。飛びついてきたほうはちゃっかりおれの体をクッションにして無傷のようだ。
ふたりの体にシーツがからまっている。やんわりと戒めてくるそれと千遥の体の重みのせいで、逃げることはできそうになかった。
「あのなあ……花粉ついたら落ちねえんだぞ」
そしておまえは何度おれを押し倒せば気が済むのか。毎度毎度受身をとるおれの気持ちにもなってほしい。
文句はいろいろあったのだけれど、いざ千遥の顔を見たらなにも言えなくなってしまった。思わず息を呑む。
「マユ」
切なげにおれの名を呼んだおさななじみが、いまにも泣きそうな顔をしていたから。
「ごまかさないで。おれと結婚してよ。……それともほんとに、おれのことなんとも思ってないの?」
ああ、もうだめだ、と。すぐに思った。
シーツや、千遥やおれの身にまとっている服。お互いをへだてるすべてのものがわずらわしい、と思った。いつか見た夢を思い出す。一夜にいちまい、その体を隠す布地を脱ぎ捨てていった千遥。そうしてあらわになった、はだかの―。
こうして体を隙間なく重ねていると、おれの意識すべてがこいつに向いて、全身で、細くしなやかなの体のつくりを感じようとする。ここしばらくで、ぐっと大人びた体。のびゆく手足に肉がついていかないのか頼りなげな感触がして、おれはいやおうなしに煽られる。
決別の夜が一度め、今朝が二度目。押し倒されたのはこれが三度目で、ふつう、なにごとにも三度目はない。だからおれがすんでのところで踏みとどまったのは、ひとえに千遥を思っているからだ。かんたんに汚していい人間じゃない。
そして、かんたんにこの思いを告げていい人間でもない。
……けれどきっと、もう、千遥の言うように〝いまさら〟なのだ。思いは隠しきれなかった。おれは姿を消した千遥を探し求めてしまったし、いっしょにこんなところまで来てしまった。
せめて顔を見られないように、千遥の頭を胸に抱いた。
「……おれはおまえといっしょにいたいよ」
できることなら、このさきずっと。少なくともいまこのときはそう思っている。
「おれのこと好き?」
「なんだよ、その浮気を心配する女子みたいなせりふは」
「……んー、まあ、いっか。いまはそれで許してやろう」
そう言って、千遥はおもむろに手をひらめかせた。体の脇に落ちていた百合の花を拾って、おれの髪に挿しこむ。
「きれい。花嫁さんによく似合う」
ベールの代わりなのか、シーツを頭にかぶせてくる。きれい、って、花がだよなあ。千遥は夏の熱に染まり始めた透明な空気のなかで、いつも以上にきよらかにうつくしく、こんなやつにきれいだと言われても、まるでぴんとこない。
「誓いのキスは?」
「あほか」
べしっと千遥のデコをしばき、体を起こす。まったくどこまでもおめでたいやつだ。暴力反対、と笑いながらやつはおれの胸に飛びこんでくる。
おれはその重みを、あらためて受けとめながら。これでいいんだ、と思おうとした。
……けれどこのときおれは、ただ、見ないふりをしていただけだった。
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