04

白百合

 隣町に通じるトンネルはひとつしかない。使えばきっとすぐに見つかってしまうだろう。かといってこのまま美夜篠原でぼんやりしていれば、狭い町だ、いずれ連れ戻される。

 だとすれば残された道はただひとつだった。

 おれたちは、美夜篠原をはさむふたつの山のうち、西側にあるほうに分け入った。空はまだほんのわずかに明るいものの、木々が影を投げかける登山道は暗闇に閉ざされて、光源は千遥が持ち出してきていた小さな懐中電灯だけ。おれは学校帰りのかっこうのまま、千遥は寝巻きにはだし、サンダルのまま、そんな状態でこの道をゆくのは自殺行為だとわかってはいた。トンネルを使わず山を越えて隣町へ、そしてその先へ。そんな建前をかかげながら、それを盲目に信じていられるほどおれたちは子どもじゃない。

 ただ、奇妙な昂揚がおれたちのあいだを満たし、足を前に進めさせた。あるいは、もうどうなったっていいと投げやりになっていただけなのかもしれないけど。

 山を登るほどに、冷気がいや増す。木々をかいくぐって降る雪は体の芯から末端までを冷やし、枝葉をさぐる指先にも感覚がなくなっていった。歩みはのろかったが、暗い山道を歩いているのだ、常に緊張の糸が張りつめている。空が夜の色に染まる頃には、千遥もおれもすっかり息が上がっていた。

「休憩しようか」

 そうしてついに、おれは後ろを歩く千遥に声をかけた。

 道の脇に座り込むと、どっと疲労が湧いてくる。一度尻を地面につけたら、もう立ち上がれないような気がした。道は前も後ろも草木が生い茂るばかりで、人里の気配はない。真実ふたりっきりだった。言葉はない。呼気が白く宙に姿をとどめてはかき消える、ただ、その繰り返し。

 雪がいよいよひどくなってきた。もうだめかもな、と、脳裏でもうひとりの冷静なおれが囁いている。ここまで足を進める原動力になったあの奇妙な感情は、立ち止まったためにいくらかかき消えてしまったようだ。

 けれど千遥は、そんなおれをよそに愉快そうに笑う。ぜいぜいと苦しげな息が混じる声だったけど、至極ご機嫌なようだった。

「マユはすごいね」

 黒髪を雪にしっとりと湿らせて、頬が病的に赤い。皮膚の下で燃える体温を、そのままそっくりうつしとったような色だ。

「おれはひとりになりたくて本気出して隠れたのに、見つけちゃうんだもんな」

「……おれはべつになにもしてない。蝶を追ってきたんだ。そうしたらおまえがいた」

 おれはただ与えられたものにすがっただけだ。蝶? と不思議そうな声が上がったので、おれはあの繊細な青と銀の翅を持つ蝶のことを千遥に話した。するとやつはにっこりと笑って、

「おれは神さまに愛されてるなあ」

 そう言う。なにか、あの蝶が神の使いだったとでも主張するのだろうか。蝶を追いかけたおれもたいがいだと思うけれど、それはまるでおめでたい考えだ。

 だけど、千遥は正真正銘、神さまに愛された子だから。こう自信満々に言われると、それがほんとうのような気がしてくる。

 千遥は長いまつげを伏せて、しみじみと言った。

「ひとりになりたかったんじゃない。真由人に会いたかったんだな、おれ。だから連れてきてくれた」

 それからじりじりとおれににじりよって、手を握ってくる。

「会えてよかったよ」

 こんなに寒いのに、その手は燃えるような熱を宿していた。心配になる。そもそもこいつは病人なのだ、熱がまた上がったんじゃないだろうか。

 焦りにも似た感情が沸いてきて、おれは千遥の手をぐっと握り返した。つないだ手に雪が降り積もる。降り積もっては体温で溶けて、つう、と流れ落ちていく。

「もっとほかにやり方があっただろ。なんでそんな薄着で、つっかけでこんなところまで出てきたんだよ。病人のくせに」

 おれよりいくぶん小さいその手を見下ろして、吐き出す。

「おれに会いたかっただけなら……そんなの」

 電話の一本でも入れればいい。家だって近いんだから、いつかの夜みたいに訪ねてくればよかったのに。

 そう考えかけて、気づいた。

 違う。そうしたくても、千遥にはできなかったのだ。

「……おれのせいだな」

 はじめに拒絶したのは、おれのほうだったのだから。すがるこいつに背を向けて、帰ってくれ、と言った。少なからず傷ついたはずだ。だからひとりで臥せって、こんなにぼろぼろになって、山のほうへ―神さまの隠れたほうへ逃げこんだのだろう。

 千遥はずっと、自分の気持ちに正直だった。たとえ子どもじみていて向こう見ずな行動を取る結果になったとしても。つまりは捨て身だったわけだ。そのぶん痛みは強かっただろう。

 顔を上げたら、雪が目に入った。これは積もるかもしれない。千遥の顔も、音もなく舞い落ちる白雪の向こうにかすんで見える。

「そう。マユのせいだよ、ぜんぶ」

「うん……ごめんな」

「いいよ。責任とってくれるなら」

 その言葉を最後に。―ごう、と。ひときわ強い風が巻き起こって、宙の雪をみな巻き上げた。おれの横っ面にもつめたいものが激しく吹きつけて、とても目をあけていられなくなる。

 目をすがめて陰る視界のなかで、おれはみた。塗りつぶしていく白の向こうへ、笑顔の千遥が遠ざかっていくのを。

 その笑顔があまりにもはかなげで、雪風にさらわれてしまいそうだったので。

「千遥!」

 おれは思いきり手をのばして、あいつを捕まえようとした。

 責任でもなんでもとってやるから、いまはまだ行くな、と、そう、叫んだように思う。けれど吹きすさぶ風の音でさえぎられて、千遥に届いたのか。千遥をちゃんと捕まえていられたのかも、わからない。

 ただ、次に目を開いたときまっさきに感じたのは、熱だった。

 芯までこごえていた体を、まとわりつくような熱気があたためる。湯に浸かったような安堵がいやおうなしに与えられて、そのことに体は戸惑った。

 恐る恐る目を開くと、そこには思いもしない光景が広がっていた。

 山のなかであることに変わりはない。ただ、光がまぶしい。いまのいままで明かりのない夜にいた目には酷なほどだ。あんなに降りしきっていた雪の気配はない。生い茂る草木はあおあおと隆盛を極めていて―暑い。

 千遥はおれの数歩先に立ち、前を見据えていた。姿が消えていなかったことにほっと安堵して駆け寄ると、声がした。

「やっぱり、愛されてるなあ、おれ」

 なんだか少し自慢げだった。近づいてくるおれに気づくと、千遥は半身を開いておれを手招き、道の先を指し示してみせる。

 やわらかな風が、ゆるゆると甘い香りを運んでくる。

 道の先には拓けた土地があり、いちめんの、しろ。目をこらせばそれは百合の花で、群れをなして咲いている。そしてそのなかに、ぽつんとひとつ、家があった。瓦屋根、庭に面して縁側のある……なにか心和む、開放感のある家。

「愛されてるだろ」

 かわいらしく首をかしげて聞いてくる千遥に、おれはただただ、うなずくことしかできなかった。


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