02

嫁取り

 掃除の時間のあと、千遥のところに女子が訪ねてきていた。隣のクラスの松永だ。どこか眠たげな顔で椅子に座る千遥にむかって、身を乗り出している。頬は赤く上気していて、興奮がみてとれた。

 といっても交わされているのが色っぽい話でないことは知っている。松永は礼を言いにきただけだ。

 松永に乞われて千遥が彼女の祖父を見舞ったのは、つい先週のことである。おれは千遥に引っぱられて付き添っただけだから詳しいことはわからないけれど、松永のおじいさんはそれまで元気だったのが少しばかり体を悪くして入院し、ずいぶん気落ちしてしまったらしい。病は気から、このままでは芋づる式に体調を悪くしてしまうのではないかと心配した孫の松永が、千遥に依頼したのだ。

『おじいちゃん、信心深い人で、小夜井くんのファンなんだ。小夜井くんが励ましてくれたら、きっと勇気づけられると思うから……』

 そういう老人は美夜篠原にはたくさんいる。おれといっしょに歩いているときでもしょっちゅう声をかけられて食べものをもらったり、孫のようにかわいがられている。千遥のほうも慣れっこになっていて、松永の頼みもふたつ返事で承諾した。

 千遥の励ましを松永のおじいさんが喜んでいるのは、病室の外で待っているおれにも伝わってきた。今日松永がやってきたのは、そのお礼なのだ。

 ひとしきり松永が話し終えて去ると、おれの席まで千遥がやってきた。

「おじいさん、どうだって?」

「あれからめきめき元気になって、退院日が決まったって」

「へえ。千遥、すごいじゃん」

「おれはべつになんもしてないよ。ちょっとおしゃべりしただけ」

 千遥はどうしてそんなに感謝されるのかわからない、というようにまたたいた。

「それよりマユ」

 みれば手にネクタイを持っている。千遥はそれ以上なにも言わなかったが、この後月例集会があるのでネクタイを結んでほしいのだとわかった。

「いいかげん結べるようになれよ」

「結べるようになったって、マユにやってもらうよ。めんどうだもん」

 そう言って笑う千遥の声は、ひきつれたようにかすれている。おれは目の前に立つ千遥のすんなりとした首を見やった。白いシャツのえりぐりからのびるそこには控えめな隆起があり、白い皮膚に淡く陰りを落としている。風呂場での一件のあとも、千遥は少しずつ変化を続けていた。

 おれは椅子から立ち上がり、千遥の手からネクタイを受け取る。結んでやっている最中、かたわらから声がした。後ろの席の梶田である。

「文原はまた小夜井の世話焼きか」

 からかうような声色である。

「おまえ、小夜井の世話焼く必要なくなったらどうするの?」

「そんな日が来てくれればいいんだがな」

 もし千遥が、朝は時間通りに起きて、部屋も散らかさず、洗髪をねだってくることもないとしたら。……想像がつかないな。ありえない。渋面を作ったおれを梶田は笑い、お先に、と体育館へ足を向ける。

 おれは結び目を整えながら、そういえば、と口を開いた。

「おれ、おまえの家に時計忘れていかなかったかな」

「え? ん、どうだろ」

 要領を得ない返事である。だけど家を探しても見つからなかったし、千遥を風呂に入れてやったときに外したと考えるのが妥当だ。

「帰り、寄っていいか。ないとやっぱり不便で」

 しっかりとネクタイを結んでやり、連れ立って月例集会に向かいながらそう問いかける。いつもなら二つ返事で「いいよ、ついでに部屋掃除していって」と帰ってくる場面だ。

 けれど。ねむたげでのんきな表情が、ぴしりと固まる。硬直がとけたかと思うと、渋い顔になった。

「あ、え、えーっと。いいよ、わざわざ来なくて。おれ、探しとくからさ」

「……千遥の探しかた、アテにならないんだけど」

 こいつがおれに気を使うなんて。思わず目を丸くしたおれから、千遥はすっと目をそらす。

「大丈夫だって。時計だろ? マユがいつもしてるやつならすぐわかるって」

「千遥、こっち見ろ」

「ほらマユ、もう集会始まるからさ……あ! おれ、今日は母さんに早く帰ってこいって言われてて。先、帰るな」

 ……おかしい。こんなことを言い出すだなんて、千遥、熱があるのかもしれない。じゃなきゃ明日は雪が降る。

 おれはじっと千遥の、もこもこと着膨れた背中を見つめる。けれどやつは振り返りもせず、ひとりで集会の列に並んでしまう。

 どこかぎくしゃくとした動きを見て確信する。

 こいつ、なにか隠してる。


 おれに言ったとおり、千遥はそそくさと帰っていった。おれは放課後の教室でやつの隠しごとを暴こうか迷って、けっきょく、真正面からぶつかることに決めた。経験則からいって、ほうっておくとろくでもないことになる気がする。

 千遥は家に来てほしくないようだったから、あえて家に行く。時計も探せるし一石二鳥だ。秋風に身を晒しつつ道を歩いていると、ほどなくして、立派な門構えの屋敷が見えてきた。立ち止まり、いつもどおり離れから入ろうと道を逸れかけた。そのときだ。

「お待ちなさい千遥さん!」

 がたん、と音がして、正門から人影が躍り出る。見れば千遥だった。その後を追って出てきたのは、品の良い着物を身にまとった婦人である。

 婦人は逃げようとする千遥の首根っこをあっさりとつかまえたところで、おれに気がついたらしい。

「あら、真由人さん。ちょうどいいところにおいでなすったわね」

「あ……お久しぶりです」

 小夜井尋乃ひろの。千遥の母親である。典雅なのにどこかすごみのある笑みを浮かべ、彼女はうなずいた。

「ええほんとうに。声はすれどもすがたは見えず、といったところね。どうせ離れに上がりこむなら私にも顔を見せてくれればよろしいのに」

 そして、尋乃さんはおれを手招いた。

「せっかくだからお茶でも飲んでおいきなさい。話したいこともあるし」

「母さん!」

 千遥が抗議の声を上げる。しかし、

「お黙り。あなただけの問題じゃないんだから」

 ぴしゃりと言うと、千遥はものも言えなくなった。おれも断れない雰囲気になる。

 本音を言うと、おれは尋乃さんが苦手だ。いつもきれいで上品で、おれの母親なんかとは大違い、浮かべている笑みもやわらかなのだけれどどうも落ち着かない。緊張する。隙がなさすぎるのだ。

 そんな彼女に招かれては、たかだか十四年生きてきただけのおれは抗えない。あれよあれよと客間に足を踏み入れている。畳敷きの和室で、低い卓をはさんで尋乃さんとふたりきりだ。「私と真由人さんだけで話します」と、千遥は外に追いやられた。影が障子に差しているから廊下にはいるのだろう。この寒いのにあんなところでじっとしていたら風邪でも引くんじゃないか、とはらはらしていたところで。

 こん、と湯のみが卓の天板を打った。見れば、尋乃さんがこちらをまっすぐ見据えている。

 そして彼女はこう切り出した。

「千遥さんが嫁取りをするんですの」

「……はあ。は?」

 ヨメトリ。一瞬なにを言われたのかわからなかった。追って意味を理解し、その滑稽さに首を傾げる。

 千遥が、嫁取り?

「結婚相手を探す、ってことですよね。いくらなんでも早すぎませんか?」

 まだ十四歳、中学二年生だ。時代錯誤にもほどがある。そのうえ千遥ときたら自堕落で、とてもじゃないが嫁をもらうような器ではない。

 けれどおれの至極あたりまえの戸惑いをよそに、尋乃さんは千遥によく似て整った目顔を、うっすらと曇らせた。

「あれだけ千遥さんのお世話を焼いてくれているのに、なにも知らないのね。……それとも、みんな、真由人さんならてっきり知っているものと説明しなかったのかしら」

 発せられた言葉に、不穏さを嗅ぎとれた。おれの知らない暗がりが、手をのばせば届くところにある―得体の知れない、なにか。

 おれは固唾をのんで、尋乃さんの言葉を待った。

 ―曰く。

 神の獣は希少な種であるから、次代に血をつながねばならない。

 したがって、適齢期になれば生涯の伴侶をみつけてやる。昔から決まっているならわしだという。神の獣が伴侶を娶れば美夜篠原の者はみな安心した。この地を守る血が絶えることなくつながった、と。

 この町に生まれたときから暮らしているのに、そんなこと、おれは知らなかった。

 わあん、と頭痛が迫ってくるのを感じながら、おれは口を開く。

「十四歳が適齢期だっていうんですか」

「あら。千遥さんも一人前の男ですわ。お医者さまもおっしゃっていたもの、やっと体が出来上がってきた、と」

 それにはたしかに、おれにもおぼえがある。下肢の皮膚にこの指でふれ、きざしを読み取った。喉に淡く陰を落とす隆起の存在も知っている。だけど……ずいぶんとあからさまだ。つまり生殖が可能になったからその相手を娶らせるのだ。神の獣の血を残すことが第一義の、結婚。

 知らず声がわなないた。

「……いったい、だれと」

「そう。その話なのよ、真由人さん。私、千遥さんに聞いたんですの。お嫁さんにしたい子はいるの、って。いるって言いましたわ。だれだと思います?」

「え……?」

 おれは目を瞠り、顔を上げた。まったく心当たりがない。千遥、好きなひとがいたのか。そんなこと、おれには一言も―。

 あなたもよく知っている人ですよ。尋乃さんのそんな言葉に身構える間もなく、婦人のつややかな薄い唇が開かれる。

「お名前はね、文原真由人さんというんですって」

「…………は?」

 頭が真っ白になった。だれだそれは。いや、そうじゃなくて。

 きっとなにかの聞き間違いだ。こんな思いを込めて問い直す。

「いま、なんて?」

「千遥さんはね、あなたをお嫁さんにしたいんですって」

 じとっと責めるような目でおれを見ている。あなたうちの千遥さんに手ぇ出したのねそうなのね、と言わんばかりである。

 おれは我に返って慌てた。

「ち、ちがいます。おれは千遥と付き合ってなんかいません! ただ……ああ、そうだ、きっと千遥、嫁を飯炊き婆かなにかと勘違いしてるんです。それでおれを」

 緊張を強いられていた状態から一転、気まずくてしかたがなかった。千遥、おまえ、いったいなにを言ってくれてるんだ! おれが尋乃さんと顔を合わせないように母屋に顔を出さなかったのは、たんにこのすごみのある婦人が苦手だからなのだけれど、この状況では千遥とのあいだに後ろ暗いことでもあるようにうつる。

 跳ねる心臓に急きたてられて言葉をつらねていると、尋乃さんはふうとため息をついた。

「付き合ってない、っていうのはほんとうね?」

 問われて、すぐさまうなずいた。

「おれをはなにも聞いてません。その……よ、嫁にしたいだの、なんだのってのは」

「そう……なら、いいんだけど」

 ただ尋乃さんは、やはり隙のない鋭さを持つ目でおれを見つめていた。なにもかも見抜かれる、そう感じて逃げ出したくなるような目だ。……落ちつかない気分になる。おれにはなにも、隠すべきことなんてないはずなのに。

「ねえ、真由人さん」

「はい」

「小さいころからの、たいせつなお友だちですもの。もちろんこれからも仲良くしてやって欲しいのよ。でも、わかるわね。真由人さんは賢いものね」

 言いたいことはよく、わかった。

 釘を刺されている。ただの友だちでいてくれ、一線を越えてくれるなよ、と。

 心配されるまでもなく、おれと千遥はただの友だち、おさななじみだ。これまでもそうだったし、これからも変わらない。そのはずだ。千遥はきっとまだまだ子どもで、おれ以外のだれかといっしょにいることなんて想像できなかっただけ。

 だからうなずいた。大丈夫です、と。

 だけど―どうしてなんだろう。もやもやとした黒い雲が胸中にひろがっていくような、そんな感覚をおぼえていた。

 その感覚は、小夜井家から自分の家に帰ってきても消えなかった。飯食っても風呂入っても、机に向かって宿題を広げても追ってくる。数学の問題を数題解き終えて、肺にこごるよどんだ空気を吐き出した。手につかない。

 諦めて問題集を閉じると、すぐそばのベッドの上にあおむけに寝転がる。ぼうっと天井を眺めていると、脳裏をよぎるのはやっぱり千遥のことだった。

 それこそ物心つくまえからずっといっしょにいた相手に、遠からず決まった相手ができるという。

 いつまでもこんな毎日が続くわけじゃないと、わかってはいた。そのはずだ。

 おれたちはいまでこそ親友どうしで毎日顔を合わせているけど、いつまでもこんな日々が続くわけじゃないって。進学、就職。若いおれたちの前にある道は無限に枝分かれしている。いつまでも同じ道を歩めるわけでもなし、枝分かれした先が遠くはなれた場所である可能性だってあると、おれはちゃんと理解していたはずだ。

 それなのにどうしていま、こんなふうにショックを受けているのだろう。

 わからない。おれは千遥を手放したくないのだろうか。どうして? それがもう、あたりまえの日常になってしまっているから?

 どうして―。

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