欲望

 千遥が自分の部屋でとろとろと眠りこんでいる。それはいつもどおりの光景だった。服や学校の道具、漫画本なんかが散乱した部屋のなかに万年床。そこで千遥は布団に絡まって眠っているが、体が敷布団からなかばはみ出しているうえ、寝巻きがめくれあがっている。ああ、腹出して寝て、冷えるぞ。

 けれどおれはあいつに近寄ることすらかなわない。そこにおれはいないから、ただどこかからのぞき見しているだけの存在だからだ。

「千遥くん」

 ふすまが開いて声がする。どこか聞き覚えのある女の声だ、と思えば。

 そこに立っていたのは松永だった。制服のブレザーの上に真っ白なエプロンをして、長い髪は高いところで結わえている。やつは楚々とした動きで眠る千遥のそばにひざをつき、肩をゆすった。

「だめじゃない、お腹出して寝ちゃ。ごはん、できましたよ」

 やさしげな声。千遥はううんと唸って、寝返りを打つ。まぶたは開いたが、意識がはっきりするまではまだ時間がかかるだろう。千遥はいつもそうだ、寝起きが悪い。松永は苦笑したあと、あたりを見回して手近な洋服を集めて仕分けしはじめる。

 おれはなにをすることもできないまま、その光景を見ていた。まるで滑稽だった。ただの同級生のはずの女子が、まるで嫁のように千遥にまとわりついている。

 息が苦しくなってくる。いますぐ松永の手を押しとどめて、おれが代わりたかった。違う、その漫画をしまう場所はそこじゃない。千遥がまた薄着をしている、さっさと上着でも肩にかけてやれ。まるで小姑のような不満がとめどなく吹き出て、ついには口に出していた。


 そいつの世話を焼くのはおまえの役目じゃない。


「―っ!」

 煌々と照る蛍光灯が目に痛い。光に目が慣れてやっと、あのまま眠ってしまったのだ、と気づいた。ベッドの上で体を起こし、ひざを立てる。朦朧とした頭のなかに、夢で見たあの光景がよみがえってきた。苦いものがせり上がってきて、たまらず、膝頭にひたいをつける。

 どうしてショックを受けているのか、だって?

 なにも知らないふりをしてかまととぶっていたおれの脳天を殴りつけたのは、ほかならぬおれ自身だった。

 思い知らされた。おれはおれ以外のだれかがあいつの世話を焼くのががまんならないのだ。

 千遥は、いやしんぼで、自堕落で、だけどうつくしい。そんなこと、おれだけが知っていれば十分だ。

 あいつが望むのなら好きなだけ肉まんでもからあげでも食わせてやりたい。でもそれだけじゃ栄養が偏るからそのあとでしっかり野菜を食わせる。あいつは野菜嫌いだから嫌がるだろうけど、背が伸びないぞとおどせば言うことを聞くだろう。また髪を洗ってほしいとせがんでこい。これも鬱陶しいって嫌がるけど、きちんと洗ってていねいに乾かして櫛ってやれば、あの栗色の髪はさらさらと風を孕み、光を宿す。そのなめらかな素肌に触れたい。生え際の宝石のような隆起を、いたわりたい。

 知らなかった。自分のなかにこんな獣じみた独占欲が眠っていたなんて。

 なんて―欲深い。親友に対して持つ感情にしては度が過ぎている。そう思うのに、一度めざめてしまったそれはかんたんには鎮まらなかった。むしろこれまで見て見ぬふりをしてきたぶん、抑制がきかない。

 だけど。

「……だめだ」

 おれはこの欲望を殺さなくてはならない。

 尋乃さんは言った。

 ―小さいころからの、たいせつなお友だちですもの。もちろんこれからも仲良くしてやって欲しいのよ。でも、わかるわね。真由人さんは賢いものね。

 浮かんでくる。顔を紅潮させて礼を言う、松永の姿。彼女の祖父が見舞われて発した、華やいだ声。……追って、美夜篠原の町の人に囲まれた千遥の姿が、つぎつぎと。

 もしもこのまま千遥とおれがいっしょにいたら、どうなる。

 そのうちにおれの世話焼きを鬱陶しく思って離れていくのならいい。だけどこのまま子どもじみた依存から抜け出せずに、おれといっしょにいたいと駄々をこね続けたら? 結婚はしない、子どももできない、尊いその血が残らないとなったら。

 そのときだった。

 こつんと、窓になにかが当たる音がした。気のせいかと思ったけれど、時間をあけてまたもう一度。

 窓辺に立ってカーテンを引くと、家の前の道路にだれかが立っていた。目を凝らすと、人影の正体がわかる。

「……千遥」

 吐く息が宙に白い花を咲かせた。おれのことを呼んだのだ、という確信めいた予感がした。おれはいてもたってもいられずに、身を翻す。

 通学用のスニーカーに足を突っ込んで、かかとを踏みながら駆け出す。夜道のしんと冷えた空気が肌を突き刺した。

 千遥は燃えるように赤い頬をして、洟水まで垂らしていた。

「上がれよ、とりあえず」


「あれはいったいどういうことなんだ」

 おれは千遥をベッドに座らせ、自分は椅子に腰掛けた。まだ洟を垂らしていたから、ティッシュの箱を寄越した。

「冗談言うの、よせよな。おれを嫁にするとか……」

「冗談じゃない」

 千遥はティッシュを受け取らないまま鼻声で答えた。寒さのためなんだろうけど、目も潤んでいてなんだか泣いているみたいだった。かたくなそうな顔が、おれを見た。

「冗談なんかじゃないよ、マユ。おれ、マユと結婚する」

「あのなあ千遥、嫁って飯炊き婆のことじゃねえんだぞ、」

「ばかにするなよ、わかってる、そんなの」

 そのとき、ぐっと腕を引かれた。不意を突かれ、おれはベッドの上の千遥にもたれかかるようなかたちになる。

 千遥の身体は冷えていた。その肩をてのひらで覆って温めてやりたかったけど、いまのおれにはできない。薄っぺらい体を押しのけるべきだと思った。だけど……。

 そんな葛藤も、間近に迫った彼からふわりとただよったにおいにかき消された。

 シャンプーのはちみつのにおい。

「おれといっしょにいてよ」

 薄く涙の膜を張った目が、きらきらと星のような輝きを宿す。目のふちが赤く色づいている。きれいだった。洟水たらしたまんまなのに。次の言葉を絞り出すために、おれはくらくらとする頭を叱りつけなきゃならなかった。

「おれたちじゃ、子ども、できないだろ」

「そんなこと気にするの。そんなこと気にして一線引いて、おれを捨てるのかよ」

「そんなこと、って。おまえ、自分がどれだけ周りの人間に大事にされてるかわかってないのか」

「やめてよ」

 千遥はつかんでいた腕から手を離し、おれの胸に飛びこんできた。受けとめきれずに、硬いフローリングに尻餅をつく。気がつけば妙にぬくい体が、おれの上に乗り上げていた。

 蛍光灯の明かりを頭上から受け、千遥の顔は暗く陰っている。寒さのためなのか、それとも悲しがっているためなのか。なまぬるい雫が一滴、星のような目からこぼれて、おれの頬を打った。

「捨てないでよ。おれ、マユがいなくなったら死んでしまうよ」

 めまいがした。

 こんなうつくしい生きものにすがられて、おれはなんて果報者なんだろう。こいつの言うとおり、そばにいてやりたい。これまでみたいになんだかんだと世話を焼いて、過ごしていられたらいいのに。

 おれの胸にすがる千遥の手は、力がこもって指先が白くなっている。触れたい、なぐさめたい、と思った。

 でも。

「……だめだ。だめだ千遥」

 おれは千遥の体を押し返して、その下から抜け出した。立ち上がり、顔を見られないように背を向ける。目を見開いた千遥の顔の残像が、焼きついて離れない。目をつぶってもなお、まなうらが痛むようだった。なんとか声を絞り出す。

「いつもおれがいっしょにいたから、そんな気がしてるだけだ」

 だからその気持ちは錯覚なのだ、と告げるには勇気がいった。だけどおれが突き放してやらなければ。

 だって千遥は、神さまの獣。たいせつな子、とくべつな子だから。おれだけが独占していいはずが、ない。

 真由人、とかぼそい声が追ってくる。

「ごめん。おれはおまえといっしょにはいられない」

 声が震えないようつとめるのに、精一杯だった。

「……帰ってくれ」 

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