03

駆け落ち

 翌日から、千遥は学校を休んだ。熱を出したらしく三日間学校に来なかった。

 ほんとうは様子を見に行きたくてしかたがなかった。尋乃さんと話しているあいだあいつは廊下で待ちぼうけだったし、夜には寒いなかおれに会いに来た。きっとそのせいで風邪をひいたのだ。言ってみればおれのせいみたいなものだ……と言ったらうぬぼれに聞こえるだろうか。

 むろん、心のなかで心配することしかいまのおれにはできないが。

 ホームルームを終えると、担任がおれを教卓まで呼んだ。千遥に休みのあいだのプリントやらなにやらを届けてほしいということだった。帰り道でポストに突っ込んでおけばいいだろう。

 自分の席に戻って帰り支度をしていると、声がかかった。

「どうかしたのか、文原」

 見れば、梶田が心配そうにおれの様子をうかがっている。

「どうかしたのかって、なにが」

「なんか朝から怖い顔してんなあと思ってさ。……小夜井のことが心配? それともあいつとけんかでもした?」

 おれは思わず自分の顔に触れた。ふつうにしていたつもりだったのに、そんなに顔に出ていただろうか。そしてなぜこいつは、あたりまえのように千遥のことを持ち出すのだろう。

 戸惑うおれをよそに、そいつはさっさとコートを着込んで通学用のリュックを背負った。

「心配ならいつもどおり気が済むまで世話してやれよ。けんかなら、さっさと仲直りしろな。ま、小夜井って文原に甘えすぎだから、たまには叱ってもいいと思うけど」

 そう言うと、片手をひょいと上げて教室を出て行く。

 梶田はあたりまえのように、千遥とおれの関係が続いていると思っている。無理もない、なにがあったか知らないのだから。けれどいまはそのことが、妙に胸を締めつける。

 帰り道、一歩踏み出すごとに違和感がひどくなる。ひとりだ。こんなのは久しぶりだった。べつに約束していたわけじゃないし、事情があれば相手を置いて帰ることだってあったのに、千遥なしで歩く通学路はぜんぜん知らない道みたいに思えた。

 これがあいつのいない日常なのか。

 この先ずっと、これが続くのか。

 とほうもないことのように思えた。だけど、慣れなくては。おれは唇を引き結んでつめたい空気のなかを歩き、つとめて寒々しい気分を追い出そうとこころみた。けれど今日の空には薄い灰色をした雲が垂れこめて、どこからかただよってくる金木犀の香りも褪せている。閉塞感に拍車をかけるばかりだった。

 小夜井家の正門までやってきて、ポストにプリントを差し込む。なんだか家すら見ているのが辛くて、度が過ぎた感傷に自嘲の笑いがもれた。

 帰ろう。

 そうして踵を返そうとして―ふわり。

 視界の隅をかすめた影に気をとられて足を止める。

「―蝶?」

 舞い上がったのは一匹の大きな蝶だった。鈍く弱い光しか注がない曇天の下でも、作りものめいてうつくしい青や銀に反射する翅。

 蟻も歩いていないような寒さだ。蜜をたくわえて誘う花ももう終わりかけだろう。季節はずれの蝶がものめずらしく、目で追う。それはひらひらと羽ばたいて、小夜井家の高い塀を越えていった。そしてそのまま、千遥がいるであろう離れのほうまで飛んでいって、見えなくなった。

 千遥ももしかしたら、同じ蝶を見るかもしれない。

 そんななぐさめを探してしまう自分が嫌だった。


 一日、二日、と欠席日数はのびていき、おれの世界にも千遥の不在が続いた。

 あいつへの気持ちを殺さなければ、ひとりでもいつもどおりに過ごさなければと念じるほどに、無意識のところにしわ寄せがきた。夢を見た。毎日、毎日。

 水曜にはじめて千遥の夢を見た。

 それから日曜までの五夜、あいつは一夜にいちまいずつ服を脱いでいった。ブレザー、くつした、ズボン、シャツ、下着……。

 そうして迎えた週明け、月曜日の朝。寒さのために目が覚めたけれど、うらはらに体は奇妙な満足感を覚えていた。

 どんなに見ないふりをしても欲望が追ってくる。千遥にどんな顔をして会えばいいのか、今度こそわからない。それでも都合よく風邪などひけるはずもなく、いつもどおりに登校した。

 けれど、その日も千遥は学校に出てこなかった。

 朝のホームルームで出席をとるとき、担任が千遥の欠席を告げると、あたりの空気がざわついた。いくらなんでも休み過ぎじゃないか、そんなにひどい風邪なのか、と。心配そうな声が、教室のどこかから聞こえてくる。

「文原……小夜井、どうしたんだ」

 そんなのおれだって知りたい。黙って首を振ると、梶田は目を丸くした。

「おまえが知らない?」

「知らない。もうずっと会ってないし」

 重ねた言葉に返ってきたのは、やはり、心底意外だという表情だった。おれはもうなにも言わずに、机に頬杖をつく。

 そのあとは一日中、だれも話しかけてくることがなかった。よほど〝怖い顔〟をしていたのかもしれない。近頃はずっとそうだ。家に帰っても、母親すら気遣わしげな顔をするばかりで、けれど構ってこようとはしない。

 ひとりきりでいると、時間が経つのはいやに遅かった。それでもやがては、放課後がやってくる。

 することもないから帰ろうと席を立ち、廊下へ出た。部活の準備をする生徒、おしゃべりをしている生徒なんかの姿がまばらにある。昇降口に向かって、ざわめきのなかを歩いた。

 昇降口で上履きを脱ぎかけたそのとき、耳に入った声がある。

「あれ、松永、なに持ってるの?」

 だれかが呼んだその名前に、自然と体が反応した。

 足元から顔を上げると、硝子戸を開けて出ていこうとする女子たちの姿がある。そのうちのひとりが松永で、彼女は手に紙袋を持っていた。

「お見舞いに行くから、手土産」

「お見舞い? だれの」

「一組の小夜井くん。ずっと病欠してて……」

 こないだお世話になったから、改めてお礼も兼ねて。そう言う松永の姿はごくごく平凡な女子中学生のものでしかない。ありふれたブレザーの制服、短くも長くもないスカート丈。校則にしたがって結わえられた髪。なのに、どうしてかまばゆく見えてしかたがない。

 松永が千遥の世話を焼いている夢を見たとき、突拍子もないな、という感想を抱いた。なんでこいつなんだ、隣のクラスの人間だし、あいつとろくに話したこともないただの同級生だろうに、と。

 案外正夢だったのかもしれないな、といまになって思った。おれにはできないことが、彼女にはこんなにあたりまえにできる。

 このまま学校を出ると、帰り道で松永といっしょになってしまう。商店街のほうで寄り道することにした。いつも買い食いしていたコンビニに行くという手もあったけれど、やめた。

 商店街にはとりたてて見るところもない。スーパーに入って食品売り場をぐるぐるしていたら夕方五時のチャイムが鳴ったので、そろそろいいかと店を出た。

 今日は朝から天気がよくなかったが、ここにきてますます空が暗くなっている。雲は厚さを増し、空が低く感じられた。山は白くけぶって見えないし、風はひときわつめたく、湿っている。雨でも降りそうだ。

 顔に吹きつける風に思わず目をつぶる。ふたたびまぶたを開いたとき、道の向こうから歩いてくる人影を見つけた。ブレザーにマフラーを巻きつけた女の子。

 松永だった。もう見舞いは済んだのだろうか。と、目が合う。

「あ……あの、文原くん」

 どういうわけだか声をかけられた。おれになんの用があるっていうのだろう、と首をかしげかけて気づく。

 松永は、どうも切羽詰まった顔をしている。

 頭のなかで警鐘が鳴った。彼女は千遥を見舞いにいったはずだ。それがなんで、こんな顔をしておれに声をかける?

「なにか、あったのか」

「……小夜井くんが、いなくなったの」

「え?」

 一瞬、脳裏が白く染まった。追って松永の言葉を理解する。

「いなくなったって、どういう」

 松永は黙って首を降った。見舞いのために小夜井家を訪れたが、千遥は不在だと言われた。母親―尋乃さんが出てきて教えてくれたことには、昼ご飯を食べたあといつのまにか離れから姿を消していたということらしい。

「なにか知らないかって聞かれたんだけど……文原くんも心当たりは」

「いや……ない。おれもずっと会ってなかったんだ」

「そっか……」

 松永は肩にかけたかばんの持ち手をぎゅうと握りしめる。おれはそんな彼女を前に、心臓の音がどんどん激しくなって、内側から体を急き立てていくのを感じていた。

 このクソ寒いのに、病人がどこをほっつき歩いてる。

 なんだってだれにも言わずにいなくなるんだ。なにがあった。尋乃さんとけんかでもしたのか。

 千遥。

 どこだ。

「文原くん?」

 気がつけば、松永の驚いた声を背後で聞いていた。頭で考えるよりさきに体が動き出す。

 おれは千遥をさがして走り出した。会ってはいけない立場であることなんか、いまはどうでもよかった。そんなことよりただ、ただ千遥が心配だった。

 住宅街の道の先は、厚い雲が暗い影を落として寒々しい。白い呼気の軌跡を残しながら、おれは足を動かした。まず、いつも買い食いしてるあのコンビニ。今日は月曜だから漫画雑誌でも立ち読みしてるんじゃないか、そうであってくれたら、と思ったが空振りだった。息せき切って駆け込んできたおれを店員が不審そうに見る。次。足の動きがのろくさく感じる。動け、もっと早くと念じたら、もつれてからまった。

 いつのまにか町を外れて、畑のあいだのあぜ道を走っている。舗装されていないこともあり危うく転びかけて、足を止める。一度立ち止まると、体の芯の方から病的なまでの熱がわっと湧き上がってくる。ひゅうひゅうと荒い息が、犬のように開け放った口からせわしなく出入りする。

「千遥」

 口に感じた名前の響きが、いやになつかしかった。そういえばこいつの名前を、もうずっとながいこと呼んでいなかった気がする。

「……どこにいるんだ」

 あたりには人っ子一人ない。だだっ広い耕作地帯、天は鉛のような色をして低く、見晴るかす山は薄い色にかすんでいる。

 氷のような温度の風が吹き下ろしてきて、いまにもずり落ちようとしているマフラーをさらっていく。風におどるそれをつかまえようと、体をひねりかけて。

 手もとをかすめ舞い上がった、やわらかな感触。

 おれは気を取られて、マフラーをつかまえることを忘れてしまう。不規則なその軌道を目で追えば、どこからともなく現れたそれは一匹の蝶だった。内側から光るような、青と銀の色。……いつか千遥の家の前で見たのと同じ蝶だ。

 飛んでいくところなんかいくらもあるはずなのに、蝶はおれのそばにつかず離れずいる。その動きがどこか啓示のようで、思わず手を伸ばす。てのひらの下をくぐって、蝶はつくりものめいて繊細なその羽をはためかせた。

 あぜ道の先へ飛んでいくそれを見逃してはいけない気がした。追って土を踏みしめ歩きだしたおれは、はたから見たら安っぽいメルヘンの登場人物みたいだったかもしれない。

 山が間近に迫る。草木はこごえて、秋の豊かさはなりをひそめている。すっと切っ先を揃えて生えた下草は、そのなかに足を踏み入れれば制服のスボン越しにもちくちくとした感触を伝えてくる。木々はその腕をのばしておれの視界をさえぎっていた。

 蝶は道なき道をゆき、やがて、低木の茂みでとまった。うねる枝には蔓草がからまり、こぼれんばかりに赤い実をつけている。枝の下に気配を感じて、重たいそれを押しのけてのぞきこんだ。

 せつな、びゅう、と山おろしが吹き、樹木が唸る。目のまえで、はらりと白いものが舞った。

 雪だ。蝶が変じたようだった。

 それはほんの一瞬中空に身をとどめ、地に落ちて消える。おれとそいつは、その様子をいっしょに目で追っていた。

「千遥」

「……マユ」

 茂る秋草のなかに、おさななじみが座りこんでいた。寝巻きのままで、足なんか庭用のつっかけだ。そこかしこが土と草にまみれて汚れており、上から落ちてきたのだろうか、頭や肩に赤い実が乗っている。

 なんでおまえこんなところにいるんだ、とか。どれだけ心配かけたと思ってるんだ、とか。言ってやりたいことなら山ほどあったはずなのに、そのすべてが吹っ飛んでしまった。

 おれは自分もしなる枝の下に身を潜りこませ、千遥の前にひざをつく。茂みの下の空間にふたりきりになった。降りだした雪は音をみな吸い取って、あたりを満たすつめたい空気がとうめいさを増す。

 そんななかであおじろい顔を晒した千遥は、おれの知っている千遥じゃなかった。会わなかったのはほんの一週間ほどだというのに、もうずいぶん長いあいだ会っていなかったような気がする。幸せな子どもであることのあかしであった、ふくらかな頬。いまは肉がぐっとそげて、その陰に苦悩の痕がある。やつれた。星のような目のかがやきもいまは感じられず、病に伏す人間の暗い熱ばかりが、まなこに宿る。

「どうしたんだよ、おまえ……」

 いったいなにがあったんだ。どうしてこんなふうになってしまった。

 いったいだれが、おまえをこんなふうにした。

「……うぬぼれていいのか。おれの、せいだって」

「おれは最初っからそう言ってたよ」

 色を失った唇が、弧を描いた。ばかだなあ、なに言ってんの、というように。

「真由人がいなくなったら干からびて死んじゃうって」

 おれはもうたまらなくなって、自分の巻いていたマフラーを千遥に巻きつけた。頼りなげな首を、肩を、おれの体温を宿したそれで覆って、それでもまだ足りない気がして両の腕で抱きしめた。

 久しぶりのふれあいは、以前とはなにもかもがちがっていた。千遥のからだつきも、それに触れているおれ自身も。何度も求めてはだめだとじぶんを戒めてきたそれが、いまこうして腕のうちにある。やはり、痩せた。布ごしにも伝わってくる骨ばった感触でそうわかる。

 それはひどく痛ましいことのはずだ。それなのに、それだけじゃない。おれはみずからのうちに、淡い恍惚の火がともるのを感じていた。

 十四年生きてきたなかでは気づけなかった。おれはなんてろくでもない人間なんだろう。千遥がおれのせいでこんなに弱っていることが、うれしくてうれしくてしかたがない。こんなにうつくしい生きものが、おれなしでうつくしいまま生きていけないだなんて。

 ―おれがさらってしまおう。そう思った。

 どろどろに甘やかして、真綿のようにやわい枷を体にも心にもはめて、ひとりじゃなんにもできなくしてしまおう。こんなにうつくしくてきよらかな生きものを、おれが、だめにする。その思いつきはひどく甘美な音を、おれの内側に響かせた。

「どっか、行こうか」

 千遥の首の皮膚のうすいところに鼻先を擦りつけて、おれは言った。

「どっかって?」

「ここじゃないどっか。遠いところ。ふたりでいられるところ」

 尋乃さんも、松永も、それ以外のだれも追ってこれないところ。嫁取り話とか、神さまの愛し子とか、そういうこと関係なしに、おれはおれ、千遥は千遥でいられるところ。

 そんな場所がどこにあるのかなんて、ちっともわからない。

 それでも千遥は、心底嬉しそうに言った。

「……それって駆け落ち?」

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