欲深くうつくしい生きもの

まゆみ亜紀/八坂はるの

01

成長期

 おれのおさななじみには角が生えている。いまはまだ体ができあがっていないからちゃちなものだけれど、いずれながく太く育ってゆくのだそうだ。

 ふだんそれは、伸ばした栗色の前髪の陰に隠れている。さらさらした髪をかきあげるとつるりとなだらかで白いひたいがあって、生え際のところに親指の先ほどの乳白色のとがりがある。つなぎ目なく、ひたいの皮膚からなめらかに続いている。けれど触れると骨や歯を思わせる硬さが指を押し返してくるし、表面にもやわらかく光を跳ね返す光沢がある。

 みているとなにか畏怖を感じる。

 だから、町のみんな―母さんや学校の友だち、近所のおじさんおばさんが言うことはほんとうなのだと思う。おれのおさななじみ、小夜井さよい千遥ちはるが神さまの獣、神さまに愛された子なんだってことは。

 まあ、その神さまの愛し子、いまはとなりで肉まんかっ食らってるんだけど。

 半分に割られたジューシー肉まん百二十円を両手でつかんで、鼻先を突っ込むようにして食べて―いやもうこれは、むさぼると言ったほうがただしいな。むさぼっている千遥には、神々しさなぞかけらもなかった。そりゃもう、ため息が出ちまうくらい。

 吐き出した息は淡く、白くこごって消えていく。ついこのあいだまで夏だったような気がするのに、時の流れは早いものだ。すっかり日も短くなって、学校帰りにコンビニに寄るころには一番星すら空にのぼっていた。

 おれのため息に気づいたのだろう。千遥が目線をこっちに送ってくる。肉まん食べるのはやめないまんまで。目でなに? と問われた気がしたので、

「なんでもないよ」

 いいから食べな。そう促した。

 どういうわけだか千遥はもの欲しそうな顔をする。その視線はおれの手元に注がれていた。半分こした肉まんのうちの片方。……大きいほうを分けてやったのにまだ足りないか。意地汚いやつめ。

「あんまり食べると夕飯食えなくなるぞ」

 とお小言を垂れてはみたが、おたがい十四歳、中学二年生。どんだけ食ったって腹が減る。まあいいか、と自分の取り分を差し出してしまったあたり、おれは千遥に甘いのだろう。

 コンビニの前で肉まんを買い食いしたあと、千遥を家まで送っていく。といっても、小夜井家はおれが家まで帰る道のなかばにある。ごく平凡な借家である我が家と比べるべくもない豪邸だ。立派な門構え、高い板塀、広い庭には鯉もいる。武士のひとりでも顔を出しそうな日本家屋で、千遥はぜいたくにも小さな離れを占有している。

 離れにほど近い裏口まで来て、別れようとしたら。ブレザーのすそをつままれた。

「マユ、髪洗って」

 それはもはや、〝おねだり〟ではない。おれが承諾するのをわかっているもの言いだ。千遥はひどいめんどうくさがりで、ほうって帰ったらたぶん、風呂に入らず寝る。

「……とか言って、背中まで流させるつもりだろ。なし崩し的に」

「うん。なし崩し的に」

 悪びれもせず千遥は笑う。

 まあ、そろそろ部屋が散らかる頃合いだろうし。とも考えて、おれは千遥の後につづく。庭の飛び石をたどって、離れに入る。そこはもと客間として使っていたからか、風呂まで備わっていた。これもまた来客用のはずなんだろうけど、いまやほぼ千遥専用の風呂である。

 脱衣所に千遥を押しこんでから、かれの部屋である和室に向かう。障子戸を開けて思わず眉をひそめてしまう。八畳ほどの和室はこれでもかというほどとっ散らかっていて、二週ほど前にきれいに片してやったおれの働きの影もない。ものを出したらもとの場所に戻せとこんこんと諭しても、効果があらわれないのだ。

 開きっぱなしのたんすの引き出しから、ずるずると服が垂れ下がっている。どうやら着用済みらしいそれを脇によけて、着替えを出した。

 脱衣所に戻ると、千遥は棒立ちで待っていた。押し込んだときのままの姿でブレザーすら脱いでいない。すでにいっさいをおれに任せきっている。

「服ぐらい自分で脱いで入ってろって。小さな子どもじゃあるまいし」

「やだよ。なんのためにマユを連れこんだのかわかんないじゃん」

 あっけらかんと言って、両の腕をおれに向かってのばしてくる。ほんとうにしょうがないやつだ。

 だけど幼子みたいに求められると応じずにはいられない。そういうふうに刷りこまれている。

 ブレザーのぼたんを、上からひとつずつ外す。秋風にさらされて、プラスチックのそれはひんやりとしていた。背後に回って袖を腕から抜くとき、ぐっと肩甲骨が張り出してくる。脱がせた上着をたたんで籐のかごに置いていると、早く早くと急かすようにふくらはぎを足指でつつかれる。

 千遥はきゅうくつだから、結ぶのがめんどうだから、と言って、式典や服装検査のとき以外はネクタイをしていない。だから上体を覆っているのはあとは素肌にまとった白いシャツ一枚だった。小さい、貝みたいに光るぼたんを外して、シャツを肩から落とす。あらわになった肌はずいぶんと冷えていた。この寒いのに、マフラーも巻かない、セーターやベストのたぐいも着ない、そのせいだ。おそらくどこに仕舞いこんだのかわからなくなっているのだろう。あとで出してやらなくちゃならない。

 板張りの床にひざまずく。ベルトをゆるめていると、上からくすくすと笑い声が降ってきた。

「なんかマユ、へんたいみたい」

「下僕みたいのまちがいじゃないのか」

 失礼なもの言いをされたもんだから、あてつけにズボンとパンツをいっしょくたに下ろした。横着されたことに不満げな声が上がったが、脱がされてしまえばその不満をも忘れたらしい。おれが服を畳んでいるあいだに、洗い場に飛び込んでいった。

 上着を脱ぎ、袖とズボンの裾をまくって入っていくと、湯船のへりを枕にし、湯のなかで手足を広げた千遥がいた。閉じていたまぶたをすう、と開き、上目でおれの中途半端なかっこうを見る。

「入ってけばいいのに」

「外歩いてるあいだに湯冷めするだろ」

「ええー。近いんだからそのぐらい平気でしょ」

 口をとがらせる千遥を無視して、シャワーヘッドを手に取る。お湯が出ることを確認してから、椅子を湯船の外に据え置いて座る。

 湯に濡れて、栗色の髪が色を濃くする。そのまま髪は水流に押し流されて、ひたいがあらわになった。生え際のちょうどまんなかあたり、鼻筋の延長線上に、真珠のようにほのじろく光る尖りがある。―角だ。

 おれはひとまず、角から目をそらす。シャワーを止めててのひらにシャンプーをとって泡立てると、やわらかな髪に塗りつけた。手のなかでむくむくと白い泡がふくらんで、はちみつのにおいがたちのぼる。泡を髪にからめ、地肌をよく揉みほぐしてやると、千遥がああ極楽だ、と喉を鳴らす。

 流水をあてると、泡はちりぢりになって湯船の壁面をつたい、床をすべってゆく。指で髪を梳き、ていねいに洗い流す。そのうちに、おれはひたいの一点を注視していた。慎ましい貴石のような、隆起を。

 あたりを満たすミルク色の湯気のなか、飴色をしたふたつの目が開いた。

「洗ってよ、真由人まゆと

 おれがみていたことを、見透かしたような口ぶりだった。

 ……ときどき。髪を洗えと千遥は言う。今日みたいに。そうしてかれは、人形めいてさらさらした髪にふれ、皮脂や埃、もろもろの汚れを落とすことをおれに許してみせる。そして髪の生え際にあるその器官にふれることをも、許してみせる。

 角をみているとなにか畏怖を感じる。きっとそれは、角が神さまの獣である証だから。神さまの愛し子には、やすやすとふれてはならない。

 おれはたぶん心の奥底深く、おさななじみに対する気安さとはべつのところにそんな思いを抱え込んでいて、だから千遥はこんなふうにおれを誘うのだろう。ふれてみろ、と。

 熱いような甘いような目で一瞥をくれたら、千遥はもう目を閉じてしまう。おれは、のびやかな手足を透明な湯のなかに泳がせているおさななじみの姿を、あらためてみつめた。

 うつくしい生きものだ。

 湯のなかでやわらかくたわむあおじろい肉体は、成長の可能性をはらんで揺れている。 閉じたまぶたをよろうまつげも淡い色をして、やわらかな陰を落としている。頬はいまでこそふっくらとしているが、きっとそのうちに肉がそげてシャープな線を描きはじめる。おれとはちがう。おれとはちがって、きっとこいつはうつくしく成長する。いまだってきよらかな幼獣だけれど、もっとずっと。

 あたたまって色づいた口唇が、音もなく動いた。はやく、と。

 求めに応じて、おれは右手の親指でひたいにふれる。なだらかな丘をつたうように走らせて、指の腹のいちばんやわらかいところを、角の側面にあてた。洗えという言葉どおりに、こすってやる。

 千遥は満足げな息をもらした。それはかゆいかゆいと言う背中の一点を代わりにかいてやったときと同じ反応だったから、きっと気持ちいいのだと思った。角はひんやりとしていたけれど、指の熱、湯の熱でぬくもってゆく。どこからか雫がしたたって、角の上に落ちた。丸みをおびた先端に宿るそれは、なんてことのない電灯の光に、けれど七色にきらめいた。つう、と尾を引いてひたいに垂れ落ちると、銀色の痕を残す。いつしかおれの指も、熱く燃えていた。

「体も洗ってくれる?」

 調子づいたように言って、千遥は湯のなかで体を反転させた。湯船から立ち上がると、幾筋もの水の道が、体を駆け下りてゆく。

 脱衣所で服を脱がせてやったときからわかっていた。こいつは一から十まで、おれにやらせるつもりなのだ。しかたがないな、とタオルを取りに立とうとしたところで。

 ふと、違和感をおぼえた。見慣れているはずの千遥の姿。だけど、なにかがちがう。

 背が少し、のびただろうか。それもある。けれど。

「……おまえ」

「やっぱり、マユは気づいてくれた」

 どこか誇らしげに、千遥は口の端を吊り上げた。変化が見て取れたのが注視をはばかられる場所だったからおれは目を伏せたのだけれど、あっちは意にも介さない。喜々としておれの手を取ると、そこに触れさせた。恥じらいってもんがないのか、こいつには。とはいえ男同士だ。そう過敏になることでもないだろう。

 おれの指先は、下肢を覆う濡れてしっとりとした皮膚の感触のなかに、ちくちくとした抵抗をみつける。おとなの男の、きざし。

 妙な状況だ、とは思ったが、その実感慨深くあるのは否定しがたい。

「……ついこのあいだまでつるっつるだったくせになあ」

 比較的早熟だったおれに比べて、千遥の変化はずいぶんとゆるやかだった。背も伸び悩んでいるし、声変わりもまだだ。同年代の子どもたちと比べれば際立ってあどけない容貌は、しかし、神さまの獣にはめずらしくないことだという。愛し子を少しでも手元に留め置きたいというお気持ちなのだろう、と千遥は説明されたそうだ。いい迷惑だよと口を尖らせていた。

 けれどそんなかれにもようやく、そのときが来たということだ。

 十四歳の秋。千遥も、おれ―文原ふみはら真由人も、成長期をむかえていた。痛みと軋みをともなう夜を耐え、日毎ちがう自分と出会う。そんな日々。


 千遥とはじめて会った日のことはおぼえていない。ご近所さんだったから物心つくかつかないか、くらいのときに顔を合わせたのだと思う。ただ、気がつけばおれは理解していた。千遥がとくべつだってことを。

 ここ、美夜篠原みよしのはらは、山と山との谷間に広がる小さな町である。山を越えるか、トンネルを抜けるかしなければ隣町にはゆけない。閉じた空間にそう多くはない人々が暮らしているから、ひととひととのつながりも太い。

 この土地には昔からの神さまがいる。世にふたつとない獣のすがたであったという。大地と親しい四本の足、風に踊る毛並み―そして、ひたいからまっすぐにのびた、白くかがやく一本の角。

 神さまは自慢の足でもって生まれ故郷である南の地から北へ北へと駆け過ぎていくなかで、この地と出会い、虜になった。ふたつの山の気が出会い、混ざりあうこの地の豊かさを愛したのだ。神さまは足をとめて留まり、そのうちこの地のあまねくすべてを守り育てるようになった。

 ながい時がたって、神さまは遠い地に身を隠してしまった。だからいまはもう、ここにはいない。だけどそのかわりに愛し子を遣わされる。自身とおなじ角をひたいに持つ子を、美夜篠原とそこへ暮らす者への愛を示すため、守り続けるため、送り込む。

 小夜井家の血筋は神の血筋。角を持つ子らを輩出する、美夜篠原に古くから続く名家である。千遥はその嫡男であり、みなに尊ばれる神さまの獣でもあった。

 自堕落、甘えたがりを絵に描いたようなやつだから、なんとなくこうして世話をしてきた。幼稚園児のときにはあいつがミートソーススパゲティを食べて汚した口周りを拭いてやったりしていた記憶がある。しょうがないやつだなあ、と思う。いやしんぼだし、なまけものだし。

 だけど隣にいれば必然、垣間見ることになる。町のみんなから向けられる畏怖の視線を。だから千遥がとくべつな子、たいせつな子だって意識は物心ついたときから持っていた。おれ自身、角を見ていればなにかふしぎな気持ちになる。だれに教えられなくとも、体が知っていた。

 かれは希少な、神さまの獣。うつくしい生きものだと。

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