月喰い

吉永動機

月喰い

クニマサは月を食べたかった。

なぜなら、月がとてもおいしそうだったからだ。

そう、お察しのとおり、クニマサはバカなのだ。バカでなければ月を食べたいなどと考えはしない。

月を見て「ああ綺麗」とは思っても、「ああおいしそう」などと思うのはバカな思考だ。

クニマサがいかにしてバカになったか、順を追って説明する必要がある。


幼い日のクニマサは、ふと思い立ってカラカラに干からびた落ち葉を食べたところ、それがまるでお茶のような清々しい青い味とポテトチップスのようなサクサク感が合体した最強の食べ物であることに気がついた。バカだった。

それからクニマサは自分が「おいしそうだ」と感じたものはもれなくおいしいことに気がついた。

彼の青春は、自分の感覚が正しいことを証明し続けるためにあった。

濡れ雑巾を噛むと口の中にジュッと汁が迸ることに気づいた日は小躍りしたものだし、木片を繊維に沿って割き、衣を付けてサッと上げると、土臭さと歯ごたえのあまりのおいしさに悶絶した後、窓を開けて「生きててよかった!」と叫んだという。

ビー玉やおはじきも食べた。「鉄の味がしておいしい」とクニマサは思った。

それは血の味だ。クニマサは本当にバカなのだ。


クニマサはそのおかしな欲望が、周囲をドン引きさせることは重々理解していた。

だから、彼は次第にそのことを隠すようになっていった。


二十代中盤で、彼に恋人ができた。トキハという名前で、通算三人目の彼女だった。

一人目の恋人は高校時代。クニマサから告白して付き合い始めた。ナルミという名前で、「もし鳴海さんと結婚したらナルミナルミだね」などと冗談を言っているうちにあっけなくフラれて、枕を濡らした。涙で濡らした枕をしゃぶると、おいしかった。やっぱりクニマサはバカだった。

二人目は大学時代で、メグミという名前だった。クニマサは「もし恵さんと結婚したらメグミメグミだね」という言葉を必死に言わないようにした。その甲斐あってか二年付き合うことができたが、最後はフラれた。ショックで叫びながら自転車で爆走し、派手に転んで砂利が口の中に入った。クニマサはそれを丹念に味わい、心の傷を癒した。


そして三人目のトキハは、働きはじめてからの恋人だった。『ときは』という苗字はなさそうだとクニマサは少し残念に思った。

トキハは中野ブロードウェイを歩いていそうな風貌で、家にベレー帽が三つある女性だった。

「こしあんとつぶあんどっちが好き?」と訊くと「どっちかいうと白あん」と答えるようなトキハに、クニマサは魅力を感じた。

「好きな鍋はなに?」と問うと、さんざん悩んだ挙句「強いて言うなら……圧力鍋、かな」と答えるクニマサに、トキハは魅力を感じた。

どちらかがアタックしたということではなく、惹かれ合うように二人は結ばれた。

どうにも奇妙だが、恋なんてそんなものだろう。


付き合って三年経った頃、クニマサは自身の異常な食生活について打ち明けることにした。これが彼なりの誠意だった。


「実は、言っておかなければならないことがあるんだ」


と、ある日の日高屋の席でクニマサは語りだした。何もバクダン炒め定食(ご飯大盛り)を食べている時じゃなくても、とトキハは思ったが、歯にメンマが挟まったままのクニマサのあまりの深刻な表情に、思わず身構えた。

——もしや、別れ話をされるのか?

私の恋、ここで終わりか?

あれか? 昨日の夜、クニマサが寝ている横ですかしっ屁をしたのがバレたのか? いや、あれは私の長年の研究が実を結んだ至極のすかしっぷりだったはず……。

『実を結んだ』『すかしっぷり』って言うと実が出たような感じになっちゃうけど、実は出ていない。

出ていないはずだ。

出ていないといいな。

ま、ちょっとは許して。


「俺さ、ちょっと変なところがあって……」


打ち明け話は続く。トキハは飛んでいた思考を引き戻して、クニマサの話に集中する。


「変なところ……?」


「——その、俺、実は——、なんていうか、……葉っぱとかガラスとかを食べるのが好きなんだ。パスタとか焼肉よりも、髪の毛とか雑巾を食べるのが好きなんだ……」


そして申し訳なさそうに「黙っててごめん」と付け足した。


トキハは目を丸くした。


「え? 知ってるけど?」


今度はクニマサが目を丸くした。


「え? なんで?」


トキハは眉をひそめた。


「それは『なんで知ってるのか』ってこと? それとも『なんで知ってて幻滅しなかったのか』ってこと?」


「もちろん、両方だけど」


クニマサは憔悴しているようだった。

なんだ、『言っておかなければならないこと』って、これのことか——とトキハは胸を撫で下ろした。


「じゃあ両方答えるけど、前者については、一緒に過ごしてればわかるよ」


「わかるの?」


「だって、エッチの時、私の髪の毛ゴリゴリ噛みながらイクし」


「…………噛んでた?」


「噛み切って、飲んでる。梳きバサミかよって」


クニマサはうなだれていた。

バカだなあ、とトキハは思ったが、嫌悪感はなかった。むしろ、そんなことで悩んでいたのかと可愛らしく思えた。


「弁当のバランを食べてるのも知ってるし」


「うっ……」


「落として割れたコップの破片を食ったのも知ってる」


「もうやめて……!」


「こっそり他の女と遊んでるのも知ってるし、私がシャワー浴びてる間に私のブラの匂いを嗅いでるのも知ってるし……」


「なんか話がずれてきてない?」


「……とにかく、私、クニマサのことならなんでも知ってるから」


クニマサはバカだから気づかなかったのだ。

アニメだったら目がくるくると渦巻きになっているような表情のクニマサ、バカだなあ。


「でも、じゃあなんで……」


「幻滅しないかってこと?」


クニマサは頷く。


「なんでだと思う?」


クニマサは首を横に振る。本当にさっぱり見当がつかないといった様子だ。


「私も同じだからだよ」


トキハは真剣な顔で言った。


「同じ?」


「そ。私もシュシュとか食べるし、時計のベルトを酢昆布みたいにしゃぶるし、ペットボトルのフタとか紙ナプキンとかレシートとかシャーペンの芯とか大好物なわけ」


この事実は、トキハが誰に対してもひた隠しにしてきたことだった。理由はもちろんドン引きされるからだが、クニマサだったらもしかしたら理解してくれるかもしれないという期待があった。


「…………仲間だ」


クニマサは小さな声で言った。


「仲間だ」


もう一度言う。

確信に満ちて、それでいて喜びに溢れた声音だった。


「仲間じゃなくて、彼女でしょうが」


トキハが突っ込むと、クニマサは「そうじゃなくて! 仲間だよ!」と首を振った。


「これまで彼女は何度かできたことあるけど、仲間ができたのは初めてだ! こんなに嬉しいことはないよ」


「現彼女にそれ言っちゃう?」


昔の彼女のことを匂わせるのはデリカシーに欠けているだろう。拗ねて見せるトキハだったが、クニマサは本意が伝わっていないことに焦れている様子だった。


「だからそうじゃなくて! 彼女よりも、仲間の方が見つけるのが大変なんだよ。トキハはもちろん彼女だけど、それ以上に仲間なんだ」


何それ意味わかんない——と言おうとしたけど、トキハはそれをやめた。

なぜなら、クニマサの言いたいことの本意がわかってしまったからだ。


「わかったよ、私とクニマサは仲間」


そう納得して、トキハは話を押し進める。


「じゃあさ、一番食べたいものって、ある?」


トキハの問いに、クニマサはピタリと動きを止めた。


「……笑わない?」


「うん。絶対に笑わないよ」


互いに真剣な目で数秒見つめ合うと、観念したようにクニマサが言う。


「俺は、月を食べたい」


——ああ、やっぱりバカだ。

でも、好きだ。私はそんなクニマサが好きだ。

クニマサの願いは、叶えてあげたい。

トキハの胸の奥がじゅくじゅくしてくる。

なんだろう、この感情?

恋にしては湿っぽい。

愛にしても湿っぽい。

喜びにしても湿っぽい。

悲しみにしたって湿っぽい。

傷口のような感情。

トキハの口が勝手に動いた。


「……じゃあ、こうしない? 私の食べたいものはね——」

















ある月夜。

丹念に空腹を満たした私はその身を業火に抛げた。

熱くなどなかった。ただ、彼の願いが叶うことが嬉しくて、涙が流れた。炎よりも熱い涙だった。

彼の魂は私とともに煙となり、ゆっくりと、空を高く昇り、やがて月をすっぽりと覆った。

味覚を喪った私たちでも、月がとても美味であることを理解した。

貪りつき、しゃぶり尽くし、呑み込んだ。

私(彼)は、月を喰ったのだ。


クニマサはバカだが、月を喰ったのだ。

俺はバカだったが、月を喰ったのだ。

——クニマサとともに、トキハのおかげで。

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