3.水谷さんと氷室さんの日曜日の朝
★漣さんが家を出るまで★
自分の送ったLINEが既読になったのを見た途端、嵐のような後悔が吹き荒れた。
絶対嫌がられる。嫌だろそりゃ。俺なら嫌だ。
俺と茉莉は知り合ってからは一年だが、つきあってからは数日だ。結構な高熱が出ていてふらふらな所に、まだ若干距離のある「彼」が来る。面倒くさいだろうし、ちゃんと会話しないと、と思うときついだろう。それに女性なら、すっぴんがどうの、とか、パジャマがどうの、とか気にするかもしれない。
でも、心配なんだ。
一年前に茉莉が俺のいる部署に異動してきてから今まで、彼女は一度も病欠をしていない。なのに今、三十八度九分の熱――彼女は『ねつ389どだす』と送ってきたが、三十八度九分のことだろう――で苦しんでいる。
今日は日曜日だから、おそらく近所の病院はどこも休みだろう。場合によっては休日診療をしている所まで付き添おう。そこまででなくても食べ物や飲み物が家になくて困っているかもしれない。
そんな事を考えていると、茉莉から返事があった。
『ありがとう。待ってます❤』
俺はスマートフォンの画面に浮かび上がる、彼女の言葉を暫く見続けていた。
こんな時なのに。
迷惑かもしれないのに。
文の最後に『❤』をつけてくれた。
恐らく、そこに深い意味はないのだろう。だが、こんな時だというのに、彼女は自分の言葉に、小さな好意を乗せてくれた。
いとおしい。
俺は家と車のキーを掴んで外に飛び出した。
茉莉の顔を見たい。何かできることがあれば役に立ちたい。そして早く元気になって欲しい。
デートとか、そういうものは取り敢えず脇に置いておこう。今だって、玄関先で顔を見て、大丈夫そうならそのまま帰るつもりだ。話し込んだり家に上がったりして、彼女の負担になりたくない。
俺は茉莉が好きなんだ。
好きだから、大事なんだ。
だから。
✨✨
★家で待つ茉莉さん★
おおお送っちゃった、送っちゃった、『待ってます❤』って、送っちゃった。でででもどうするんだ私。
えーと部屋。今日はお掃除していないけれど、まあ、ぱっと見、綺麗にはなっているからいいだろう。
すっぴん! どうしよう、でもメイクしていたらそれはそれであれだろうし。それにメイクする気力なんてない。
頬を触る。昨夜のマスクのおかげかお肌の状態はいい感じ。でも私、眉毛描かないと物足りない顔になるんだよなあ。
着ているものはこれでいいかな。買ったばかりの、もこもこ素材の部屋着兼パジャマ。おそろいのカーディガンでも羽織って……あっ! ぶっ、ブラ着けなきゃ!
そこまで考えて、私の体は限界を迎えた。ブラを片手に這うようにしてベッドに向かい、布団の中に潜り込む。
私はもともと健康なほうで、生理痛とかで苦労したこともない。そのため家に風邪薬や解熱鎮痛剤を常備していない。だからたまに風邪をひくと大変なのだ。
どうしよう。漣さんが家に上がったら、どう対応したらいいんだろう。
白状するが、私は今まで、男の人を家に上げたことがない。以前、漣さんは物凄く簡単に「二人で紅茶を飲みたい」なんて言っていたが、私にとって「彼と家で紅茶を飲む」のは一大事なのだ。
そうだ、紅茶。漣さんが家に来た時に開封するって言ったんだ。じゃあ今日、開けるのか。でもきちんと紅茶を淹れるのは大変だ。それに今、まともに味や香りを楽しめる状態じゃない。
ああぁ……。いっそのこと、漣さんが家に来てくれるのを断ればよかったのかな。
多分ただの風邪だから、寝ていればそのうち良くなるだろう。わざわざ来てもらうのも申し訳ないし、正直私も体がきつい……。
……でも、ちょっとでも、会いたい。
頭が痛い。ぼんやりする。気持ち悪い。喉が痛い。
何もできない。まともに頭が働かない。
なのに、会いたい。
誰かを好きになるって、不思議の連続だ。
ベッドの中で、そんなことをぐるぐる考えていると、
玄関のチャイムが鳴った。
✨✨
★家にやって来た漣さん★
ああ、確かに茉莉が住んでいそうな所だな、と思う。
小さいけれども洒落た白いアパート。部屋はここか。
呼び鈴に手を伸ばす。押す直前、少し
当たり前だろ俺。だからどうした。だからどうしたっていわれてもどうしてそう思ったのか分からないんだからどうにもならない。
そんな整理のつかない脳みそをよそに、俺の人差し指は勝手に呼び鈴を押してしまった。
な、何してくれるんじゃ俺の人差し指。
「はあい」
いつもより少し元気のない声が、ドアの向こうから聞こえて来る。俺は黒っぽく特徴のない服を纏った貧相な体に力を入れて姿勢を正す。
ドアが開く。
「あ……わざわざ来……てくれて、ありがとうござ……ありがとう」
熱のせいか、少し赤い顔をした茉莉が顔を出した。
上気した頬と部屋着姿を見て、思わずどきりとした自分を、心の中で張り飛ばす。
「ごめん、かえって迷惑かとも思ったんだけど。具合どう? 熱とか」
「熱は相変わらずで……。私、いつもこの時期に風邪ひいちゃうの」
「休日診療している所まで一緒に行こうか。そこの駐車場に車停めているし」
「あ……大丈夫で……だよ。多分ただの風邪だし、寝ていれば治ると思う」
職場では上長である俺に対して、敬語が出そうになるのを無理に押さえて話す。その姿が可愛い。
「何か薬飲んだ?」
「飲んでいない。うち、薬置いていないの」
「じゃあ買って来る。他に何か必要なもの、ある?」
お使いなんて悪いわよ、いやいいよ、お支払いを、気にするな、みたいなやりとりをしばらくした後、俺は手に持っていた紙箱を茉莉に渡した。
「渡すの遅くなったけど、これ。今日行こうと思っていた店のプリン。二個あるけど、賞味期限明日までだから食べられそうだったら食べて」
もっと何か気の利いたものを、とも思ったが、考えている暇がなかった。箱を渡す時、茉莉の手が僅かに触れた。
熱い。
彼女の前髪を掻き上げ、額を合わせる。ちょっとびっくりする位熱い。可哀想に。こんな状態では、この玄関先のやり取りだってつらいだろう。病院へ行かないと言っているし、用事だけ済ませてさっさと帰ろう。
俺はプリンの箱を抱えたまま直立不動状態の茉莉に挨拶をして薬局に向かった。
薬局で買い物をしながら思った。
今回に限らず、これから心配なこと、大変なことは色々あるだろう。俺は鈍感で気が利かないたちだから、なるべく彼女のサインを見落とさないように気を付けて、守ってあげなければ。
でも、会社にいる時ならともかく、休日になると俺と彼女の家は結構離れている。彼女が困っている時、すぐに駆け付けられるかな。いや、そんな事言っていられないのだけれど。
なら
いっそのこと、一緒に住んじゃうか。
俺の脳みその奥深くに眠っていた誰かが湧き上がって囁いた言葉に、勝手に慌てる。脳内対応をしたつもりが、ふと手元を見ると、風邪薬の箱を全力で握り潰していた。やっべ、どうすんだこれ。
息をつく。落ち着け俺、いい歳して。
今はとりあえず、彼女の風邪が良くなることだけを願おう。その先のことは、その後だ。
だって俺達は
初デートもまだなんだから。
✨✨
★そして茉莉さんは★
一体、どの位の時間、玄関先で直立不動になっていただろう。持っている箱を落としそうになって、ようやく我に返る。
……びびびびっくりしたあ……。
熱の状態を見るために、おでこをつけた漣さんの顔のアップを思い出す。
……き、キスされるかと思った。
熱のせいか動転のせいか、震えている手で箱を開ける。中にはこの店の名物であるプリンが二個、入っていた。
これ、私一人で食べろって言っていた。漣さん、もしかして、私の様子を見て、薬を買って来てくれるためだけに来たのだろうか。もしかして、このまま玄関先で帰ってしまうのだろうか。
そっかぁ……。
本当に、お見舞いだけだったんだなあ……。
今、自分が、嬉しいのか、ほっとしているのか、ちょっとがっかりしているのか、どう思っているのか分からない。
漣さんは相変わらずクールで、仕事の時みたいに淡々と質問をして、すぐに出て行ってしまった。
彼はきっと、私が昨日からずっと、心がおろおろしっぱなしだったのなんか、理解できないだろうなあ。
初めて見た、漣さんの私服姿。クールで大人な雰囲気にぴったりの、シックな黒ベースのファッションは、彼のすらりとした体型を見事に引き立てていた。わ、思い出したらまたどきどきしてきた。いや、このどきどきは熱のせいか。とにかく彼が戻ってくるまで寝ていよう。
車で来たって言っていた。そういえばどんな車なんだろう。今までの会話の中で出て来たことがない。
今度、一緒に乗ってみたいなあ……。
見たことのない車の助手席に座る自分と、運転する漣さんの横顔を脳内で合成し、一人にやにやしていると、漣さんが戻って来た。脳内で何を思おうと勝手なのだが、玄関に立つ彼を見て、何故か少し恥ずかしくなってしまう。
「はい、これ。薬とか、飲み物とか入っているから。でも本当に病院行かなくて大丈夫?」
「ありがとう、ごめんねこんなにたくさん。病院は大丈夫。……あ、でも月曜日までに治さないと、全社会議」
「ああ、いいよ、あれは何とかするから。それより絶対に無理しないでね。明日は休んで病院行って。じゃあ、長居するとかえってあれだから、俺、そろそろ帰るよ。お大事に」
淡々と、本当に淡々と、彼はそう言って帰ろうとした。
待って。
確かに体はきつい。立っているのも結構大変だ。
でも、もっと一緒にいたいの。
心配してくれているのは分かる。用件だけ話して帰ろうとしているのは、私の体を気遣ってのことなのだろう。
でも、もっとあなたの言葉が欲しいの。
我儘な心が、体を置き去りにして叫ぶ。
分かっている。ここは、少し笑って、「ありがとう。じゃあね」と言って、ドアを閉めるべきなのは。
だから少し笑って、口を開きかけた。
その時、私の全身が力強いぬくもりに包まれた。
ほんの一瞬のことだった。
ほんの一瞬、漣さんが私の事を抱き締めた。
私から離れた漣さんは、私の顔を見て微笑んだ後、恥ずかしそうに俯いた。
「来週は、一緒に出掛けよう」
はにかみながらそう囁き、帰っていった。
✨✨
ひとりになった玄関に、ぺたりと座り込む。
そっと肩を抱く。彼の腕の感触と、ぬくもりが甦る。
こんなに鼓動が速くなって、頭がぼうっとするのは、きっと熱のせいじゃない。
あんなに喜んだり泣いたりして一人で大騒ぎをしていた初デートは、延期になった。
あんなにうろたえまくった彼の訪問は、玄関先であっさり終わった。
でも。
何が、と具体的には言えないけれども。
漣さんが好きになれて、本当に良かった。
✨✨
来週の初デート、スイーツブッフェのリベンジかな、それとも別の所になるのかな。凄く楽しみ。なんだか、ちょっとだけ余裕を持ってお出かけできそうな気がする。
今日のおかげで、なんだか、ちょっとだけ彼に近づけた気がする。
一年間、片思いをした人と、やっとお付き合いができるようになったばかりなのだもの、ゆっくり進行でもしかたがない。
少しずつ、少しずつ、近づけたらいいな。
そして
その時、唐突に、礼服姿の漣さんと、ウェディングドレスを着た自分の姿が脳内に合成された。
なななななななななな!!
突っ走り過ぎ! 暴走しすぎだよ私の脳みそ!!
慌てて脳内映像を掻き消す。必死に消すが、なかなか消えない。多分潜在意識が映像をがっちりつかんで離さないからだろう。
落ち着いて。まずは風邪を治して、それからゆっくり、これからのことを考えよう。
だって私達は
初デートもまだなんだから。
そういえばデートって、どうするんだっけ 玖珂李奈 @mami_y
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます