2.氷室さんの土曜日の夜

 スマートフォンの画面をじっと見つめる。

 たった今、水谷さん……じゃなくって、えーと漣さんから送られて来た、「明日、茉莉と一緒に過ごせるのを楽しみにしている」という一文を、何度も何度も何度も何度も読み返す。

 床にぺたりと座り込む。

 頬が火照る。



 どうしよう。

 私、今、凄く幸せだ。



 ✨✨



 明日の日曜日は、おつきあいをはじめてまだ数日の、かっ、かかか彼、漣さんとの初めてのデートだ。

 漣さんは私が働いている会社のグループリーダーで、私の直属の上司だ。イケメンで、しゅっとしていて、仕事が出来て、クールで大人。要はお子様な私なんかとは到底釣り合わないようなひとなのだ。

 なんで彼が私の事を好きになってくれたのか、未だに分からない。


 私は恋愛に臆病で、なかなか恋人が出来なかった。ちょっといいかな、と思った人と一、二回食事をしたりしても、なんとなくそれでおしまい、になってしまったり。そんな私が、漣さんと一日お出かけって、もう、一体どうしたらいいのだ。


 漣さんは、初デートの行先に、私の家の最寄駅から一駅の所にあるホテルのスイーツブッフェを提案してくれた。そこへは私も一度行ってみたいと思っていたので――家から近いせいで、かえって「いつでも行ける」気がして行ったことがなかったのだ――速攻で「楽しみ―❤」と返信した。


 初デートの場所にここを選んでもらって、内心、物凄くほっとした。

 私は成人して何年も経つくせにお子様で、あまり大人っぽい場所とかだと気後れしてしまう。もし漣さんが、大人でお洒落で都会的に洗練された場所を提案してきたらどうしようと、ずっと不安だったのだ。



 ✨✨



 ……でも。

 もしかしたら。


  あたたかく満ちた心に、冷たい声が囁く。


 ――漣さんは、私に合わせてくれたのかな。


 彼が甘いもの好きなのは知っている。あのホテルのブッフェは有名だ。だから本当に行きたいとは思っているのだろうが、でも。


 私とデートをするために、漣さんは、無理をしたりしていないかな。

 本当は、もっと大人なデートスポットへ行きたいと思っていないかな。


 

 心の隙間に、黒い不安が滑り込む。

 不安はカビのようにじわじわと広がり、心の中をむしばんでゆく。



 私、漣さんの彼女にふさわしいのかな。



 ✨✨



 お風呂上りに、一枚千五百円のシートマスクを顔に乗せてみた。これ、勿論普段は使っていない。明日、少しでもきれいな肌でデートに向かいたくて買ったのだ。

 会社では、私と漣さんは隣り合わせで座っている。だから明日のお肌の状態がいいからといってどうというものでもない。そんな事は分かっている。でもきれいになりたいんだ。


 昔テレビで見た、ぼさぼさ頭に袴姿の名探偵ものの登場人物で、今の私みたいな顔の人がいたなあ、なんて思いながら、ぼんやりとベッドの上に座る。

 途端に、心の中のカビが這い出して来る。


 私、漣さんの隣を歩くのにふさわしい女性になれるのかな。


 明日着る予定の服は、すとんとしたデザインのワンピースだ。これ自体はまあ、いい。

 だけど、さっき「スイーツブッフェ」と聞いて、「よし、あのワンピースならたくさん食べられる」と思った。

 この根性が、ダメだと思う。

 だけど、どうしようもない。私はブッフェと聞けばお腹の限界まで食べたいと思ってしまうし、お洒落で洗練された場所では気後れしてしまう。小食ぶったり、嘘でも堂々としたりなんか、できない。私にできる努力の限界は、千五百円のシートマスクを顔に乗せることくらいだ。


 漣さんに、お子様な奴だってがっかりされたらどうしよう。


 首を横に振る。振った勢いでマスクが剥がれそうになって慌てて押さえる。頭の振り方がまずかったのか、何故か頭がずきずきと痛くなってきた。


 頭が痛くなるまで首を振らなくても、分かる事でしょ。

 漣さんは、そんな事で簡単に心を離すような人じゃない。

 だって私に初めて「好きだ」と言ってくれた時、真っ直ぐに私を見つめて、真っ直ぐな心をぶつけてくれたもの。あの時の言葉を、あの目を、信じるんだ。


 信じている。信じたい。だけど、不安だ。

 漣さんが私のことを好きだと言ってくれているんだから、それでいいはずなのに。さっきから私は、なにをうじうじ考えているのだろう。

 大人の女になる前に、まず、もっとありのままの自分に自信を持ちたい。


 いつの間にか、目に涙が浮かんでいた。

 何しているの私。幸せなはずなのに、無理矢理悲しくなるような事ばかり考えてしまう自分が嫌になる。

 涙は目から溢れ出し、シートマスクに吸い込まれていく。


 あ、まずい。

 目元ケアのための美容成分が薄まっちゃう。


 ティッシュに涙を吸わせながら思う。



 この根性が、ダメなんだよね……。



 ✨✨


 

 エアコンはつけていたが、湯冷めをしてしまったのか、凄く寒くなって来た。それはそうだ、まだ三月だし。もういい加減に寝なければ。

 ああ、でも寒いなあ。何か温かいものを飲もうかな。今何か飲んだら顔がむくんじゃうかな。うーん、でも寒いし、あんまり好きじゃないけれど、しょうが紅茶を少し飲もうかな。


 そう思ってキッチンに立つ。私は紅茶が好きなのだが、体が温まると聞いたことがある、しょうが入りの紅茶は好きじゃない。さてどうしよう、と思った時に、紅茶缶が目に入った。

 淡い黄色の地に黒いロゴの入った缶。この間、ホワイトデーのお返しにと漣さんにもらった紅茶だ。

 まさか、これにしょうが汁を入れて飲む訳にいかないよね、なんて一人で笑った時、唐突に一つの考えが頭の中に浮かんだ。


 スイーツブッフェ。

 私の家の最寄駅から一駅の場所。

 そのほかの行先やプランは聞いていない。

 でも、ブッフェで費やす時間は二時間くらいだろう。



 まさか

 そのあと


 うちに来たりとか



 ……ままままままま待って待って待って、そそそそそそうじゃないよね、そうじゃないよね。

 もしそうだったらどうしよう。どうしよう、え、どうしよう。

 漣さんがこの紅茶をくれた時、「氷室さんと一緒に飲みたい」と言った。それってつまり、「うちに来たい」ってことかな、と、その時思った。だから私も、いずれ彼がうちに来た時、一緒にこの紅茶を飲みたいと思っていた。


 え、でもそれ、

 明日なの!?


 キッチンから回れ右し、ベッドの中に潜り込む。もう、しょうが紅茶どころじゃない。

 待って待って私。漣さんは、そんな事ひとことも言っていなかった。やだもう、私の考え過ぎだって。

 そういえば、部屋のお掃除で行き届いていない所なかったかな。

 ティーカップの茶渋は大丈夫かな。

 明日は下着の洗濯物を、いつもみたいに窓際の中央にびろーんと干すのをやめなきゃ。

 それに。


 どうしよう。

 もう、何がどうしてどうしようなのか分からなくなるくらいどうしよう。

 もういい。分かんない。寝ちゃえ。寒いし、頭痛いし。


 ✨✨



 結局私は、漣さんからのLINEを見てから今まで、散々色々考えたくせに何一つ結論を出せないまま、眠る事にした。

 頭が痛い。がんがんする。胸のどきどきと、頭のがんがんが合わさって、全然眠れない。


 明日のデート。

 どうしよう……。



 ✨✨



 だが、私の心の揺れをよそに、私の体は、とんでもない暴挙に出た。



 ✨✨



 三十八度九分。

 

 朝、あまりに酷い頭痛とだるさに、おかしいと思って熱を測ったら、三十八度九分を叩きだしてしまった。ちなみに平熱は三十六度ちょっとだ。

 枕元に置いてあるスマートフォンに手を伸ばす。ものを握るだけで手が痺れる。ああ、漣さんに連絡しないといけないのに、頭がぼーっとして文面が浮かんでこない。


 どうして、よりにもよって今日なのだ。

 私は毎年、春先になると風邪をひいてしまう。だからこの症状もいつもの風邪なのだと思うが、なにも今日じゃなくてもいいのに。

 せめて明日……いや、明日は全社会議があるから明後日だったら……ああ、そうだ、月曜日、出社できるかなあ。明日休んだら、漣さんに物凄く迷惑かけちゃうなあ。


 ……色々な想いを込めて、「ごめんなさい」の文字を打つ。


『風邪をひいて、熱がでてしまいました。今日、お出かけできません。ごめんなさい』


 送信のマークが涙でにじむ。



 その後、『大丈夫?』『動けないの』みたいなやりとりを少ししたが、あとで履歴を見たらまともな日本語になっていなかった。

 だって、体がきつくて、心が悲しくて、文の見直しなんか出来なかったのだもの。


 だが、しばらく時間が経って漣さんから送られて来た一文は、熱でぼんやりとした私の脳みそを直撃し、視界に鮮明に飛び込んで来た。





『心配だから、様子を見たい。今から家に行ってもいい?』

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