乱数調整

天霧朱雀

 プルシャンブルーを溶かした夜。


 その男はいま、まさに死のうとしていた。こめかみに当てているのは弾丸が一発だけ入ったリヴォルバー。装填数は六発の銀色の拳銃だ。

 キリストに大罪である自殺をすることを懺悔した後、男は決まってこの儀式めいた行為をする。懺悔の後はストレートのウヰスキーを煽り、自分のこめかみに銃口を押し付ける。毎晩行う明日を迎え入れる儀式。ロシアンルーレットによって、明日生きるかいま死ぬかを決めていた。

 男はゆっくりと引き金を引くと、カチャンと虚しくハンマーを叩く音。肺に張り詰めていた呼気を吐く。今日も死ぬことができなかった。ベッドへ身を投げ入れて、リヴォルバーは床へガチャンと重たい鋼の音を響かせた。

 生きる気力がない男は、悲しいまでにも運がいい。死にたくても、幸運がそれを許さない。日常に置いては少し不憫なほどの薄幸ぶりではあるが、どうしてか、生への運は人一倍に強かった。まるで、私生活で捨てた運気が、男を死へと導かないように変換されているかのように。

 男は深いため息をついた。白いシーツの敷いたベッドへ、短く伸びた髭面を押し付けて昼間の出来事を振り替える。

 男はそのまま夢を見た。


「よう、俺」


 夢の中で目を開けると、自分の部屋には頭から血を流した青年が立っている。


「その様子だと、まだ死ねていないということだな」


 男にとって聞いたことある声色だった。すこし考えこんでしまったが、どうやら思い出したようだ。あれは友人の送別会にビデオレターを撮ったときに再生される自分の声だ、と。


「お前は、」


 男は言いかけて、これが夢であると悟る。明晰夢、確かにあのあと俺は寝ている。ならばこれは夢であるに違いない。アルバムに記録されている若い頃の自分の姿。唖然とした口をきゅっと一文字に閉じると、代わりに青年が口を開いた。


「世界線、俺が死ななかった未来形があんたで、あんたが見ているのは二十三歳のあの夜に死ねた過去形さ」


 荒唐無稽な話をされている気がしてなら無い。理解はできるが、意味不明な事を言う青年に「馬鹿なことを」と吐き捨てた。


「あぁ、もちろん文法は比喩で使ってるよ」


 揶揄された青年は気にもとめず、すこしとぼけた声色で笑って見せた。機嫌を悪くしていく男に向かって、青年は尚も笑顔を崩さずに「可哀想に」と一言こぼす。


「そんなに年を取ってまで、まだ死ねなかった俺が居るなんて」


 まるで虫かごに捉えられた蝶を見下すかのような視線。男は自分の若い頃の自分自身にそんなことを言われる事が許せなかった。歯をくいしばってみるが、ここは夢の中。心的に認識はするが、噛んだ感覚はなかった。


「死んで、後悔はしていないんだろ?」


 鉛のように鈍い重たい台詞を唇に乗せるが、これが精神的な要素によって感じる重みだと男は理解していた。


「もちろん、じゃなきゃあんたは今も夜な夜な脳天に拳銃を押し付けて悔やむことなんかしてないだろう」


 対して青年は軽口を叩く時と同じ口調でうすら笑みを浮かべていた。


「やはり、ひとおもいに死ぬべきか」

「俺のこの清々しい笑顔を見ればそうおもってしまうのは仕方がないね」


 青年はやれやれと軽く両手を挙げてため息をついた。その様子をじっくり見つめている男は青年を嫌悪感を理性でねじ伏せた視線で黙っていたのだ。

 やがて、夜も更けようと窓の外が淡い光を帯びてくる。青年はやはり軽い笑みを浮かべながら、男にぽつりと話した。


「でもひとつだけ覚えといて欲しい」


 何をと、のべる前に青年は床に落ちている拳銃を拾い上げる。銃弾が一発、装填されていることを知っているかのように、青年は自身のこめかみに銃口を押し当てた。


「といっても、あんたは目が覚めたらこの夢は忘れてしまう。夢とはそういうものだ、だから」


 この状況に男は理解が追い付いて居なかった。いまから青年が、前夜自分がやった行為、そしてこの青年が自分の過去系であるならば、同じく死に至らしんだと思われる行為をしようとしている事は明白だった。


「だから、?」


 男はぼんやりとした疑問符を頭のなかに描いた。しかし男は知らない。青年がいまからどうなってしまうのか、そして自分がどうなってしまうのか。知らないまま、自分の世界線がどのように捻れてしまったのか、もうすでに男には知りようがなかったのだ。

 青年が引き金を引くと、カチャンと虚しくハンマーを叩く音。折り重なって、鼓膜を突き抜ける撃鉄が雷管を叩いた次の音。雷管から火薬が爆発、そして一発の弾丸が自身の鼓膜を突き抜ける。男にとっては、夢が現実を塗り替える音だった。


 そして、その夜。

 男は自殺を果たしたそうだ。



 了

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