後半〈退治編〉

 頭が痛い。ガンガンする。昨晩の気持ち悪さもまだ残っている。

 私は重たい瞼を薄っすらと開けた。もう外は明るく日差しが照りつけている。お一人様用の折りたたみ式シングルベッドで横になり爆睡していた私は、未だ残る体調の悪さにより嫌悪感に苛まれていた。

 昨日の怪奇現象の数々――日付が変わった今でもとても鮮明に思い出される。そもそも遊び半分で、ああいうところに行ってはいけないのだ。

 ああ、気持ち悪い。今は何時だ……九時か。たしか昨日寝たのは夜中の四時頃だった気がする。もう一眠りしようか。でも頭が痛すぎて、落ち着いて眠れそうもない。頭痛薬でも飲むか。

 しかし頭を抱えながら私はどうも自分の部屋に違和感を感じていた。単身生活のくせに、現に今もひとり寂しく不調と戦っている最中なのだが、何となく誰かがいる気配がしていたのだ。私はそんなことを思いながらも早く頭痛薬が飲みたくて、上半身を起こし、ベッドに座るような体制になると顔を上げ――固まった。目の前の状況に「うおっ!?」と可愛げない声を上げ、驚いた。



 いるのだ。



 部屋のすみっこに――幽霊が。




 私は思わず床につけていた両足を上げて、なぜか下半身に布団を被せる。きっと咄嗟に下半身を守ろうとしたのだろう。

 私の心臓がばくばくと唸る。いや、だって……いるんだもん、幽霊ヤツが!


 ヤツは白い着物のような服を着た女性のような佇まいをしていた。髪はボサボサでだらりと垂れ下がり、全く表情は見えない。そして全体的に透けている。下半身は特にぼやけていてよく見えない。ハッキリと形として見えるのではなく、ぼんやりと見えているような感覚だった。

 とりあえず、どうしたらいいのか分からなかった。叫ぶ? 逃げる? いろいろ考えた。今の状況を打破するありとあらゆる手段を頭の中に巡らせた。ヤツはいつ両手を伸ばして襲ってくるか分からない。私は考えた。クーラーはついておらずヤツのおかげで空気はひんやりしていたが、冷や汗がドッと流れ出た。だって、私の目の前に幽霊がいるのだ。こんなの怖いに決まっている。元々薄っすらと霊感はあった方だが、こんなにハッキリ(透けているが)と目の前に幽霊がいるだなんて自覚したのは初めてだ。私は焦っていた。どうすればいい。襲って来られたらどう立ち向かえばいい。素手で殴っても通り抜けてしまうのか。いや待てよ、こちらが通り抜けるなら向こうだって『うらめし』と襲ってきてもスカッと私の体を通り抜けていくかもしれない。そのまま壁をすり抜けて隣の部屋に居座ってくれたらラッキーなんだけど……ってそんなうまくいくわけないよな。ああ、どうしよう。


 と、そんなこんなで五分ほど必死に思考を巡らせたが、ヤツは一向に動く気配はなかった。ただずっと猫背の同じ姿勢で、まっすぐこちらに体の正面を向けている。

 なんだ。全く動かないじゃないか。動かない幽霊なんて怖くない。 いや、怖いんだか何か変に冷静になれる。ということは、あとはこちらがどうヤツをこの部屋から追い出すかということを考えればいい。

 私は布団を剥ぐと、ベッドにもう一度座り直した。枕元にある携帯を手に取ると、どこかに電話をかけ始めた。


『もしもし』

「もしもし、私だ」

『あら。最近はオレオレ詐欺の女の子バージョンが流行ってるのかしら』

「そう。私はあなたの娘になりすまして、ってバカヤロウ」


 そんなやりとりから始まった電話の相手は、母であった。ていうか登録してるんだから普通に名前表示されるだろう。


『それで。どうしたの?』

「いやあのさ。今目の前に幽霊がいるんだけど」

『あら。ついに幽霊と同居始めたの、アンタ』

「ちょ、何言ってんの。できればこっちは同居したくないんだけどさ、どうしたらいい?」


 そこは『ひぃ!』とか『えぇ!』っていうリアクションが普通なんじゃないか。うちの母は大丈夫なのかと思いながらも、ツッコミは控えて知りたいことを訊く。もちろん電話の間は、ずっとヤツから目を離さないように監視する。ちょっとでもヤツが変な動きをした時に出遅れないようにだ。私が下を向いて電話をしている間に『うらめし』などと襲ってきては大変だからな。


『塩とかどうかしら』

「ほう。塩か」

『やっぱりその他のたぐいには一番効果があると思うわよ』

「なるほど。やってみる」


 母との会話はこれにて終了。〈塩〉作戦を勧められた。たしかに塩は邪なものを祓う力があると言われているから効果覿面てきめんかもしれない。よしじゃあ早速塩を――

 私は意を決した途端、頬を再び冷や汗が伝った。ト、トイレに行きたくなったのだ。朝起きたら老廃物を出すために基本トイレは行くものだと思うのだが、衝撃的な出会いから尿意はすっかり治ってしまっていた。しかし母に電話し、解決の糸口が見えた瞬間、緊張感が解けたせいか尿意が復活したのだ。これは参った。なぜ参ったかって? 実はヤツが今立っている場所に、トイレに向かう廊下があるからだ。

 私の部屋はワンルーム。玄関があって、廊下があって、今私がいる部屋がある。その廊下にお風呂場やキッチンがあり、そしてトイレがあるのだ。その廊下と部屋を繋ぐちょうどの場所にヤツは立っている。どうしよう。べ、ベランダでするか? いや待て。こんな明るく明るく眩しい日差しの照りつける外で、ましてや一応女性である私が、ベランダでトイレをするなどそんな恥ずかしいことはあってはならない。うむ。トイレに行くか。そうすればキッチンにある塩も同時に確保できる。

 私は立ち上がり、ヤツに背中を向けないように移動する。ヤツを真横に見れる位置まで来ると、ヤツの立ち位置を確認した。なんと幸いなことにヤツはその場所のど真ん中ではなく端の方に立ってくれている。頑張れば人がひとり倒れそうな隙間は空いている。よし、ここを颯爽と通り抜ければあちら側に行けそうだ。もう私の膀胱は破裂寸前。最近膀胱炎になったから、できれば難なくトイレを済ませ、再発を防ぎたいところ。

 私は拳を握り、決意を露わにした。ゆっくりとヤツに近付く。ヤツは動かない。刺激しないように抜き足差し足で少しずつ近付く。どんどんその距離は詰まってゆくが、ヤツは未だに動じない。私だけかよ『こえぇ』と思っているのはと思うと若干悔しい気持ちにもなるが、んなことよりも、一刻も早くトイレに行きたい一心でヤツに向かって行った。


 そして――ついにヤツの目の前にきた。近くにいるのに、すぐそこにいるのに、何だかまだ遠くにいるんじゃないかと思うような変な感覚。近くで見ると、より髪の毛が針金のように絡み合っているのがよく見えた。そんな針金はすっぽりと顔を隠しているため、やはりこの距離でも表情は全く見えない。そして私はあのもう二、三歩の距離、ゴールトイレまでの先が見えたことに緊張で凝り固まった表情筋をほんの少し緩めた、その瞬間――


 ヤツが手を伸ばしてきたのだ。体は動いていないが、だらりと下げた腕だけをゆっくりと上げてきた。なんと血色の悪い青い手だろうか。

 私はちょっと油断していたこともあり、「ぬわあっ!」と声を上げた。一瞬戻ろうかとも考えた。考えたが……、いやここで戻っては膀胱が本気でぶっ壊れてしまう。そう思った私は伸ばして来る手を避けるために、思いっきり腹をへこませた。止まることなくこちらに迫ってくる手の角度、位置、スピードに応じて器用に腹の筋肉を操作する。ちょうどヤツが手を上げ切る寸前、私の体は完全に平仮名のくの字に曲がっていた。真横から見ると私の体や腹はきっとギネス級のへこみを見せているだろう。もはや息をする余裕さえもない。言っておくが、これは決してコントではない。至って真剣そのものだ。そしてヤツの指先が私の腹に触れるか触れないかの距離を私は最後の踏ん張りですり抜け、廊下に転がり込む。膝をつき、狭い廊下を一回転した。


「ぃよっしゃあ!!」


 私はガッツポーズをかまし、喜びの雄叫びを上げる。ヤツは私に触れることができなかった手を、再び元の位置にゆっくりと戻していった。ふふふ。さぞ悔しかろうと微笑を浮かべる。ひと段落ついた私は安心したトイレに入る。だが一応油断は大敵。通られてしまった悔しさから襲ってくるのではないかと考え、辺りを警戒しながらトイレを済ませた。俊敏な動きでトイレットペーパーを巻き取り、高速で手を洗った。トイレから出た私は真っ先にヤツを確認するが、ヤツは相変わらずその場から動いてはいなかった。

 ふふ。そんなヤツとももうすぐお別れ。あの山からここまでついて来たのは褒めてやるが、最後に私をキャッチできなかったことは、成仏してもあの世で悔やむことだろうよ。さぁ覚悟したまえ。私がこの必殺〈伯方の塩〉を使い、清めてあげよう。ふははは、ふぁーっはっはっは……あれ?


 し、塩が……、塩がないっ!!


 どういうことだ。なぜ塩がない。キッチンのいつもの場所から塩だけが忽然と姿を消している。ヤツが盗めるはずもないし、いったい……ハッ!!


 私は何かを思い出し、ヤツの隙間からもう一度部屋を覗いた。し、しまった! そういえば一昨日ササミカツを買って来てひとりで食べた時に塩を使ってそのまま机の上に置きっぱなしだった! 部屋の中央に置かれた簡易テーブルの上に、ちょこんと塩が置いてある。何ということだ。机の上にあることに気付いていれば、さっさと塩を撒いてヤツを退治でき、安心してトイレに行けたというものを。あんな無駄な全力逆イナバウアーとかしなくても済んだのだ。

 もう行くしかない。ここまで来たのだ。もう一度逆イナバウアーをすればいいだけの話だ。私最初よりも潔く前に進み、ヤツに近付いた。行くぞ。私はまたヤツの目の前を通り過ぎようと腹をへこませた。すると――やはりヤツの手が上がって……上がって来たけどさっきよりも早いよっ、ねぇっ! と、私は堪らず廊下に戻ってしまった。何だ、ヤツの動きが早くなっている。一回腕を動かしたから慣れたのか? コツを掴んだのか? ともかく先程とは比べ物にならないほど早くてびっくりしてしまった。しかも、今回は上げっぱなしか。ということは下をくぐって行く必要があるというわけだな。私は顎に手を当て、もう一度作戦を練る。ヤツの腕の長さを考え、下ろしてきても大丈夫な高さを確認した。ただ這っていくのは危険だろう。足はぼんやりしていて見えないが、匍匐ほふく前進していて足で蹴られたらどうなるか想像がつかない。……飛び込むか。ちょうどまっすぐ飛び込んでもカーペットしかない。私は助走をつけるために、玄関まで下がった。行くぞ。行くぞ、私っ!!


 私は「うおおおっ!」と言いながら飛び出した。トイレの前あたりで床を蹴り、できるだけ身体が床と水平になることを心掛けた。とは言っても実際は全然うまく行かず、ヤツの少し先でカッコ悪く肘から落ち、カーペットはズレ、足は床で擦ってしまい火傷の跡を作った。あちこちに打撲痕ができ「いったぁ……」と独り言を呟く。とりあえず部屋に戻ってくることは成功した。私はヤツの状況を確認するため振り向くと……腕は上げっぱなしのままだった。なんだよ、普通に潜ればよかったじゃんか!

 そして私は念願の〈伯方の塩〉を手に取る。これを撒けば、ヤツとはおさらばだ。私は蓋を開け、構えた。しかし――私はなかなか塩をぶちまけることができなかった。思い返せば少しの間だったけど、なかなか楽しい時間を過ごすことができた。どんな理由があって私についてきたのかは分からないけど、こいつならイケる、ちょろそうだとか何かを感じ取ったのだろうか。実は寂しくて本当に私と同居しようだなんて考えていたのかもな。最初ヤツと出会った瞬間や近付く時はさすがに驚いたし、ちょっと怖いと思ったけど、それ以外では不思議と怖いとは感じなかった。どうしてだろうか。そう思いながら私は〈伯方の塩〉を手のひらにさらさらっと出した。


「じゃあね」


 私はヤツにそう言うと、塩を撒いた。ヤツは本当に消えていなくなった。私は更にヤツのいた場所から塩を振りながら玄関まで歩き、扉をあけて外に出た。「んん〜っ」と大きく背伸びをし、自身にも塩を振りかけた。今日は夏らしく日差しの強いとてもいい天気だ。清々しい気持ちとなった私は再び家の中へと戻っていった。




 それからヤツはアパートから姿を消した。すべてはあのトンネルを訪れたことから始まった体験。その二つのトンネルは今でも取り壊されることなく、奈良県のあの山の中に残っているという。

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幽霊が同居しようとしてきたので、全力で阻止した。 太陽 てら @himewakaba

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