Bar M (ラ-135791113)

謡義太郎

第1話 Heartland

 ピックで丸く掘り出した氷をグラスに入れると、カラリ、と澄んだ音を立てた。


 グラスの底にはあと五ミリほど届かない。グラスから取り出すと、周囲に付着した削りカスを軽く拭い、冷凍庫へ入れる。


 最近はロックでお酒を楽しまれるお客様が、めっきり減ってしまった。毎日かち割り氷と格闘していたことなど、今となっては思い出話でしかない。


 分厚い泥柳のカウンターに散った氷を拭き取る。

 手元の時計によると、開店まであと十五分。

 開けてしまおう、とカウンターを出る。


 細長く重い、木製のスウィングドア。

 開けづらいと文句を言われるが、ここはバーなのだ。ちょっと入り辛いくらいが、ちょうどいい。

 ドア脇の壁、縦に長いスリットから外を覗けば、まだまだ明るい。

 夏の盛りの月曜日。

 こんな日は暇だ。そう思って油断していると、足元をすくわれるのだが、それは嬉しい悲鳴なので気にしない。

 ただ、荒れることが多いのが問題なだけだ。


 ドアを押し開ければ、温い風が押し寄せる。

 一杯目はキンと冷えた生ビール。居酒屋で行儀悪く、ジョッキをぶつけ合って。

 そんな陽気だ。

 少なくとも早い時間帯は、お茶を挽けそうだ。


 壁に嵌っている、三十センチ角の銅板を外す。書体もクソもない、乱暴に溶接機で開けた「M」字の穴。

 壁の穴にはオイルランプが仕込んである。灯をいれ、銅板を戻す。


 繁華街にはまだ寝ぼけたような、中途半端な空気が漂っている。

 煙草を吹かしながらたむろする呼び込みたち。

 人気の女の子たちは遅い時間の出勤―― かといって、彼女たちは遊んでいるわけではない。同伴するための食事や、誕生日のお祝い、イベントへの誘いなど、店の外で働き始めている。―― なので、この辺りの女っ気は少ない。


 カウンターの中に戻ると、煙草を咥え、iPodの画面をスクロールする。

 三千曲以上入っている中から、何となく今日の気分の曲をタップしていき、プレイリストを作成。一本吸い終わる間に、八時間分の曲が並ぶ。

 ランダム再生。リピートはかけない。これで、午前三時に音楽が終わる。営業終了というわけだ。


 一曲目はPinkがライヴで歌ったTime after time。

 iPodめ、やるな。思わずニヤリとする。

 客席の後ろ、天井近くの棚に据えたONKYOの古い木製スピーカー。観客の声援も、一緒に歌う声も入ったアコースティックな響きが、カウンターに集中する。

 この店ではTime after timeがよく流れる。三千曲中、百曲はそれだからだ。勿論、シンディも含め。


 バックバーに並ぶライウィスキーは、最早個人コレクションと化している。

 Michter's US-1。

 琥珀色の液体をショットグラスに注ぐ。

 煙草に火を着け、一口ゆっくりと吹かしてから、グラスを一気に煽る。

 喉を通るピリピリとした刺激。直後に広がる、柑橘系のジャムのような甘味と苦み。ほう、と息を吐けば甘ったるいキャラメルの香りが漂う。今日はクルミのような苦さも混じる。

 毎度、飲む度に隠していた秘密を明かす、魅惑のライ。

 これを飲まないなんて、どうかしている。


 曲はDr. FeelgoodによるMr. moonlight。

 アイルランド出身のバブロックを牽引した伝説のバンド。パンクを世に送り出したとも云われる彼らによる、ビートルズのカヴァー。現存するバンドだが、残念ながらオリジナルメンバーは残っていない。

 またもiPodに得点。侮りがたし。


 カウンター下の冷蔵庫からシュエップスのトニックウォーターを取り出して、喉を洗う。


 ドアが開き、空気が抜けるように、音が拡散した。


「いらっしゃいませ」

 反射的に声が出る。

「あら、誰も居ないの?」

 珠美たまみさんか。こんな早い時間に珍しい。しかも独りとは。

「今なら貸し切りですよ。曲も酒も選び放題」

「貸し切りは兎も角、後半はいつも通りじゃない」

「そうかも。まあ、お好きな席へどうぞ」

「仕方ないわね。寂しいでしょうから、側にいてあげる」

 そう言って、バー(※1)の目の前に座り、隣の席へ黒革のトートバッグを下ろした。

「仕事帰りにしちゃ、早いですね?」

 冷たいお絞りを渡す。

 珠美さんは、ひっつめにアップしたうなじの汗を拭う。白いブラウスから覗く、華奢な首筋が艶めかしい。

 付け爪は透き通った青と白のツートン。小さな貝殻やヤドカリが散りばめられて、砂浜をイメージしているようだ。

 続けて温かいお絞りを出す。

 すると、そのお絞りを持って、珠美さんは化粧室に消える。鞄から化粧ポーチも持っていく。

 顔を拭きたいのね。


 その間に、お通しを準備する。

 今日は自家製半生ジャーキーと桃のドライフルーツ。

 牛フィレの塊を塩コショウ味噌(※2)で覆い、キッチンペーパーで包む。冷蔵庫で一週間。毎日ペーパーを取り換えた。このまま固くなるまで続けるつもりだが、程好く脂の抜けた半生の状態が、なかなか旨いのだ。

 タンパク質にはフルーツが合う。

 相手が半生なのだから、フルーツも半生。ということで、半生ドライフルーツの桃を合わせる。

 薄くスライスした半生ジャーキーを五枚、黒皿にくるりと丸めて立たせる。これも半生で、まだ柔らかいからこその盛り付け。

 同数の桃を適当に転がす。エンダイブを千切って散らし、ヴァージンオイルを垂らす。


 珠美さんが戻ってきて、席に着いた。

 入って来た時のしっかりとした化粧より、少しナチュラルなメイク。真っ赤なリップも落としている。ぷっくりとした唇は、自然な色合いの方が魅力的だ。


「何にしましょう? 生かスパークリング?」

「じゃあ、スパークリングでカクテルにしよっかな。キールロワイヤル……じゃなくて、なんか。折角ここに座ってるし、振ってよ」

「ん? スパークリングのカクテルですね。シェイクかあ……。畏まりました」


 逆さに置いてあったシェイカーを構える。

 バカルディ・ホワイトを30ml。

 ヘルメス・グリーンティリキュールを10ml。

 デカイパー・ピーチツリーを15ml。

 ライムジュースを5ml。

 冷凍庫からかち割り氷を取り出し、割り、シェイカーに入れる。

 ストレーナ、トップと嵌め込んで、シェイクする。ワザと氷が砕けるようにハードシェイク。

 冷えたフルートシャンパングラスに注ぐ。透き通ったグリーンに氷の粒が光る。

 そこへヴーヴクリコのクォーターボトルを開け、アップする。少々勿体ないが、残りは自分で飲むとしよう。暇な時間帯に来てくれた珠美さんへの、ちょっとしたサービス。

 透明度の増した深い緑の液体の中で、氷の粒と気泡が舞い踊る。


「うわぁ、贅沢」

 珠美さんの感想を聞き流しながら、自分にもグラスを用意してヴーヴを注ぐ。

「はい、お待たせしました」

「綺麗ねえ。これなんていうカクテル?」

「オリジナルだからなあ。考えてなかった」


 流れる曲は白鳥恵美子が歌うHeartland(ブラームス弦楽六重奏曲 第一番 変ロ長調 Op.18 第二楽章より)。


「まずは乾杯しましょう」

 グラスは合わせない。お互いに掲げるだけ。

「頂きます」

 暗くなりきらない時間帯に飲むヴーヴ。悪くない。

「なんだか安心する味と香りね。優しい」

「抹茶と桃の組み合わせって、いいでしょ?」

「うん、なんだか懐かしい感じかな」

「Heartlandっていうのはどうでしょう?」

「あ、この曲ね。うん、いいかも知れないわ。ふふっ、ちょっと他の人に出しちゃダメよ。これはアタシだけのオリジナルにするわ」


 お通しの皿に、ブラックペッパーとピンクペッパーを粗挽きのミルで散らす。最後にレモンをひと絞り。

「はい、お通しです」

「なあに、これ?」

「半生ジャーキーと桃のドライフルーツのサラダです」

「あら、ここにも桃ね。……、シャンパンと合うわぁ。あ、でもビールでもウィスキーでもいいかも。柑橘系もいけそうね。いえ、ここはやっぱり……」

「白ワイン」

「それねっ!」


 曲はBilly JoelのThe Stranger。


 さあ、夜が始まった。




※1 ドリンクを作る場所をうちの店では「バー」という。店によって色々な呼び方があると思われる。

※2 塩コショウ味噌とは、塩と胡椒の他、ハーブなどを混ぜたもの。肉の脂が水分を吸ってくれる上に、香りと味までつけてくれるという、超絶便利アイテム。食べる時は綺麗に取り去る。

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Bar M (ラ-135791113) 謡義太郎 @fu_joe

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